表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花、咲き揃うまで。  作者: 伊阪証


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/20

DLCシナリオ第五話-剣戟怒涛

街の空気は前夜の剣戟の熱を失い、雨上がりのように湿って冷たかった。 フィナは医務室から戻った後も、広場の片隅に置かれた指揮用の簡素なテーブルから動けずにいた。その手には弟フィルが倒れた際に握りしめていた花の残骸が、泥と共に張り付いている。

秩序。彼女が築き上げてきた全てだった。 花の育成サイクル、街の防衛配置、資源の分配、そして弟の力の制御。その全てが明確な計算と予測に基づいていたはずだった。 だが、あのキスというまったく理解不能な現象が街の絶対的な剣であったフィルをいともたやすく無力化した。 あの女は理屈の外側にいる化け物だ。マッシュの計算も私の計画も、あの『熱』の前では何の意味もなかった。

彼女の合理的な世界が今、音を立てて崩れ始めている。 本編での戦いでこの街がただの「囮」だったと知るされた時以上の絶望がフィナを包んでいた。花の美しさが虫や軍隊を呼んだ。それは理不尽だが、まだ理解できた。 だが、今度の「敵」は違う。イザベルという個人の「情熱」が、すべての計算を飛び越え、弟の意識を奪い去った。 弟の弱点が露呈し、対処の必要性に迫られている。

焦燥が彼女の思考を焼く。 街は守らねばならない。弟は守らねばならない。 だが、そのための手段が今、彼女の手から失われていた。

その沈黙を破ったのはマッシュだった。 彼は先程からずっと倒れたフィルの様子やイザベルの行動を羊皮紙に書き留めていたが、そのペンは止まっていた。彼の顔にもまたフィナとは質の違う、学術的な「混乱」が浮かんでいた。 彼はおそるおそるフィナに近づく。

「フィナ」マッシュの声は乾いていた。「・・・先程の現象について仮説がある。唇の接触による極めて強力な神経系へのショック反応か、あるいは未知の化学物質、フェロモンによる急性中毒の可能性が・・・」

「やめて」フィナの声は夜風よりも冷たく、マッシュの言葉を遮った。「・・・もういい」 「だが、現象の解明をしなければ、対策が」 「貴方の秩序はもう役に立たない!」

フィナが初めてマッシュに向かって感情を露わにした。その瞳は怒りというより、怯えに近い色をしていた。 「あの女は違う。あの女は秩序の外側にいる化け物だ。貴方の計算も、私の計画も、あの『熱』の前では何の意味もなかった!」

マッシュは自らの秩序を真正面から拒絶され、言葉を失った。 彼は学者だ。理解できない現象を前に思考を停止することなどありえない。だが、目の前で絶望するフィナの「感情」もまた彼にとっては理解の範疇を超えた「現象」だった。 重い沈黙が二人の間に落ちる。花のむせ返るような香りがフィナの呼吸を浅くさせる。

マッシュは羊皮紙を握りしめ、やがて学者としてではなく、ただの人間として別の言葉を紡ぎ出した。 「・・・気分が悪いのだろう。空気が悪い」 彼は天文台の方向を指差した。 「場所を変えよう。私の仕事場に来てほしい。あそこはこの匂いも届かない」

マッシュはそう言うと、フィナの返事を待たずに歩き出した。フィナは数秒間その場に立ち尽くしていたが、やがて何かに引かれるように、彼の後をゆっくりと追った。

天文台の内部は地上の喧騒が嘘のように静かだった。 石造りの壁がむせ返るような花の香りを遮断し、ここにはただ磨かれたレンズと、羊皮紙に染みたインクの匂いだけが満ちている。 マッシュはフィナを椅子に座らせると、手際よく薬草を煎じ、温かい茶を差し出した。その無言の動作には不器用な気遣いが込められていた。

フィナは温かいカップを両手で包み込む。指先から伝わる熱が強張っていた身体をわずかに解きほぐしていく。 彼女の呼吸はまだ浅い。弟の弱点が露呈し、街の守りの前提が崩れた今彼女の思考は常に最悪の事態を想定し続けていた。 敗北。その二文字が彼女の合理的な精神を蝕んでいた。

マッシュはフィナが落ち着くのを待ってから、巨大な望遠鏡の準備を始めた。重いレンズ筒が滑らかな音を立てて夜空の特定の方向へと向いていく。彼はあの夜の騒動の後天文台に籠もり、自らの計算結果を再検証していた。

彼は一枚の羊皮紙をフィナの前に広げた。そこには天体の運行図と、その下に並ぶ詳細な農業計算式が記されていた。 「フィナ」 マッシュは静かに呼びかけた。 「貴女はかつて私に天文台の建設を許したとき、その『実用的な価値』を問うた。これは、その答えだ」

羊皮紙に記されていたのはこの街の気候、土壌、そして花の成長サイクルを天文学的な正確さで記録し続けた結果だった。 彼がこの街に来てから一年と経たない。だが、その間に天文台の観測データに基づく日照時間と風向の最適化、そして適切な水管理の指示により、花畑の生産性は飛躍的に向上していた。

収穫量は例年の予想を大きく上回り、戦争による消耗を補って余りある。計算上一年満たずに中元は確保できた。 彼の研究がすでに街の経済的な土台を支え、その価値を証明していた。

フィナは紙面からマッシュへと視線を戻した。彼女の顔の緊張がわずかに緩む。 マッシュの提示した「利益」という確固たる事実は感情的な慰めではない。だが、彼女の合理性という世界の秩序を立て直すための確かな杭となった。 彼女は理不尽な暴力に心を砕かれながらも、依然として経営者としての冷静さを保ち続けていた。

マッシュはそのフィナの表情の変化を見届けると、その隣にもう一枚の羊皮紙を重ねた。 それはあの「自転操作」に関する計算式が記されたものだった。 フィナの目が再び警戒の色を帯びる。彼女が感じている敗北感の根源はこの壮大すぎる計画が頓挫したことにもあった。

「貴女は私が提案した『自転操作』をこの街の存在意義だと捉えた。その秩序を否定されることを最も恐れている」 マッシュは言った。 「だが、私は今その提案を嘘ではなく、非現実だったと訂正する」

マッシュは静かに計算式を指差した。そこには地球の質量と自転速度、そしてこの街が利用可能な全てのエネルギー源を比較した冷徹な数字が並んでいた。 「実行は不可能だ。この街が持つ数千倍のエネルギーをもってしても、地球の自転軸に影響を与えることなどできない。仮に試みたとしても、わずかな計算ミスやズレが海面を揺るがし、この街を瞬時に崩壊させる。それは天文学の秩序から見て、成立しない非現実だ」

フィナの握っていた手がゆっくりと開かれた。 弟の命を救うための焦燥と、自らの敗北を認めたことによる絶望がマッシュの言葉によって、一気に引き下げられていくのを感じた。 彼女が背負っていた重圧。街の存亡を賭けたあまりにも巨大すぎる計画。それが最初から「非現実」だったという事実。

それは彼女の努力を否定するものではなかった。 むしろ、彼女が感じていた「敗北」そのものが前提から間違っていたのだと、マッシュは証明したのだ。 彼女の心は恐怖からの一時的な解放へと導かれた。彼女は張り詰めていた息を、深く、そしてゆっくりと吐き出した。少しだけ肩の力を抜くことができた。

彼女はマッシュの顔を見上げた。その瞳には感謝と、そして新たな疑問が浮かんでいた。 なぜ彼はそんな非現実な提案をしたのか。 マッシュはその視線を受け止め、静かな告白へと移ろうとしていた。

マッシュはフィナが安堵し、肩の力を抜いたのを見て自らの「逃避」の動機を告白した。

「貴女を安心させたい」 マッシュは感情を抑えた声で続けた。 「そして私の過去の恥を、貴女に話さなければならない」

彼は椅子に深く腰を下ろした。天文台の静寂が彼の言葉の重みを増幅させる。

「私が自転操作などという壮大な計画を提案したのは虚栄心からではない。それは私自身のトラウマだ。私はあまりにも天文学の分野で未来の可能性を示しすぎた。その結果ある計算式一つで世界を壊してしまう危険性を孕んだ。そして私はその結果と、その力そのものに怯えて逃げてきたのだ」

マッシュは自らの視線をフィナから遠くの地平へと移した。その瞳には過去の光景が映っている。 「あの壮大な提案は逃避が目的だった。巨大な計画を口にし、その実現という『責任』を貴女に委ねることで自分自身は手を汚せずに済む。私の才能が破壊をもたらす可能性から安全な傍観者として逃げたかった」

フィナは彼の告白を動かずに聞いた。 彼女はマッシュが単なる風変わりな学者ではないことを知る。彼は自らの天才的な力が世界に及ぼす破壊的な影響を恐れ、その力の行使そのものから逃げ続けた、孤独な天才だった。 フィナの心に安堵と、そして共感にも似た感情が生まれた。 彼女が今イザベルという理解不能な暴力に怯えているように、マッシュは自らの才能の極致に怯えてこの街にたどり着いていたのだ。

フィナはカップを静かにテーブルに置いた。マッシュの告白は安易な慰めではなかった。だが人間的な理解として彼女の心に深く届いた。 彼女が感じていた敗北感と焦燥は、マッシュというもう一人の「脆さ」を知ることで確かな輪郭を持って静まっていった。

その頃、街の内部ではイザベル、サンドリヨン、シャルロッテの三人が表向きは「街の住人」として振る舞い始めていた。 彼女たちは他国家のスパイとしての異常な強さをその内に秘めながら、驚くほど平和的な日常を演じていた。フィナの厳格な監視下にあるとはいえ、彼女たちの行動は街に溶け込むための完璧な擬態だった。 昼間は薬草の世話や、戦いで崩れた石畳の補修作業を他の住民と並んで手伝う。 その際イザベルは持ち前の華やかさで作業の輪の中心に入り込み、兵士たちの疲労をその笑顔で和らげさえした。 サンドリヨンは物静かにしかし的確に作業をこなしながら住民たちの会話に耳を傾け、街の物資の流れや人間関係を密かに把握していく。 シャルロッテはその小柄な体で重い荷物を運ぶふりをしながら子供たちに混じり、無邪気な噂話から防衛網の配置や兵士の交代時間といった情報を巧みに引き出していた。

彼女たちの任務はこの街の潜在的な価値と、フィルという規格外の力の分析。そしてそのために必要なのは戦闘ではなく、徹底的な潜伏と情報収集だった。 彼女たちにとってこの街の快適な生活とは、任務を遂行するための最適な舞台に過ぎなかった。 彼女たちの周囲ではまだ危機は起きていない。

だが、この偽りの平穏は長くは続かない。 先日の騒動でイザベルを半ば神格化していた「熱心なファン」の一団が彼女を連れ戻そうと、街の外周で組織的な騒ぎを起こしていた。 彼らは街の警備が手薄になった花畑の端を踏み荒らし、街の所有権を主張するかのような横断幕を掲げ、示威行動を行っていた。 彼らの騒ぎは単純な熱狂ではない。その背後にはイザベルという「駒」を逃した外部の勢力の明確な意図が働いていた。 その騒ぎが引き金となった。

数日後、街の遠くの街道に乾いた土煙が上がった。 それはこの辺境の地に通常ではありえない規模の武装集団の行軍を示していた。 近隣の騎士団、そしてこの地の利権を狙う自警団が花畑の破壊と、それに伴う「不穏な噂」を口実として正式な捜索活動を開始したのだ。 彼らの目的はファンの鎮圧ではない。街そのものの制圧、あるいは街が隠し持つ「力」の査察だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ