DLCシナリオ第四話-自転と林檎
夜の静寂が戻っていた。
だが、それは先程までの、剣戟が始まる前の静寂とは異質だった。濃密な花の香りに、イザベルが放った熱の名残が混じり合い、空気がねっとりと肌にまとわりつく。
ラヴェルが、意識のないフィルの身体を慎重に抱え上げ、医務室へと運んでいく。その顔は薬師としての冷静さを取り戻していたが、その足取りには焦りの色が滲んでいた。
リミナは、イザベルたちが去った方向を冷ややかに見送った後、「後始末があるわ」と一言だけ残し、包帯の残骸を拾い集めながら闇に消えた。
その場に、フィナとマッシュだけが取り残された。
フィナは、弟が運ばれていった方向を呆然と見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。彼女の両手は、硬く握りしめられている。弟を守れなかった後悔。イザベルの理不尽な暴力への怒り。そして何よりも、自らが築き上げてきた合理的な世界が、あの「キス」という、まったく理解不能な「理屈の外」の現象によって蹂躙されたことへの、深い絶望。
彼女の秩序が、今、音を立てて崩れ始めていた。
その沈黙を破ったのは、マッシュだった。
彼は、先程からずっと、倒れたフィルの様子やイザベルの行動を羊皮紙に書き留めていたが、そのペンは止まっていた。彼の顔にもまた、フィナとは質の違う、学術的な「混乱」が浮かんでいた。
彼は、おそるおそるフィナに近づく。
「フィナ」
マッシュの声は、乾いていた。
「・・・先程の現象について、仮説がある。唇の接触による、極めて強力な神経系へのショック反応か、あるいは未知の化学物質、フェロモンによる急性中毒の可能性が・・・」
「やめて」
フィナの声は、夜風よりも冷たく、マッシュの言葉を遮った。
「・・・もう、いい」
「だが、現象の解明をしなければ、対策が」
「貴方の『理屈』は、もう役に立たない!」
フィナが、初めてマッシュに向かって感情を露わにした。その瞳は、怒りというより、怯えに近い色をしていた。
「あの女は、違う。あの女は、理屈の外側にいる化け物だ。貴方の計算も、私の計画も、あの『熱』の前では何の意味もなかった!」
本編の戦いで、この街がただの「囮」だったと知らされた時以上の絶望が、フィナを包んでいた。「美しさは罪になる」その言葉の通り、花の美しさが虫や軍隊を呼んだ。それは理不尽だが、まだ「理屈」で理解できた。
だが、今度の「敵」は違う。イザベルという個人の「情熱」が、すべての理屈を飛び越え、弟の意識を奪い去った。
マッシュは、自らの「理屈」を真正面から拒絶され、言葉を失った。彼は学者だ。理解できない現象を前に、思考を停止することなどありえない。だが、目の前で絶望するフィナの「感情」もまた、彼にとっては理解の範疇を超えた「現象」だった。
重い沈黙が、二人の間に落ちる。花のむせ返るような香りが、フィナの呼吸を浅くさせる。
マッシュは、羊皮紙を握りしめ、やがて、学者としてではなく、ただの人間として、別の言葉を紡ぎ出した。
「・・・気分が悪いのだろう。空気が、悪い」
彼は、天文台の方向を指差した。
「場所を変えよう。私の仕事場に来てほしい。あそこは、この匂いも届かない」
マッシュは、そう言うと、フィナの返事を待たずに歩き出した。フィナは、数秒間その場に立ち尽くしていたが、やがて、何かに引かれるように、彼の後をゆっくりと追った。
天文台の内部は、地上の喧騒が嘘のように静かだった。
石造りの壁が、むせ返るような花の香りを遮断し、ここにはただ、磨かれたレンズと、羊皮紙に染みたインクの匂いだけが満ちている。マッシュはフィナを椅子に座らせると、手際よく薬草を煎じ、温かい茶を差し出した。その無言の動作には、不器用な気遣いが込められていた。
フィナは、温かいカップを両手で包み込む。指先から伝わる熱が、強張っていた身体をわずかに解きほぐしていく。
マッシュは、フィナが落ち着くのを待ってから、巨大な望遠鏡の準備を始めた。重いレンズ筒が、滑らかな音を立てて夜空の特定の方向へと向いていく。
「フィナ。貴女は、先程の現象を『理屈の外』だと言った」
マッシュは、照準を合わせながら、静かに語り掛けた。
「だが、それは違う。我々が、まだその『理屈』を発見していないだけだ」
彼はフィナを手招きし、望遠鏡の接眼レンズを指差した。
「見てほしい」
フィナは、いぶかしげに思いながらも、カップを置き、レンズを覗き込んだ。
その瞬間、彼女は息を飲んだ。
肉眼では、ただぼんやりとした闇にしか見えなかった空。その闇の中に、圧倒的な密度で、無数の星々が、ダイヤモンドの粉を撒き散らしたかのように輝いていた。
「あれは、うしかい座。あれは、かんむり座だ」
マッシュの声が、星空の静寂と響き合う。
「地上から見れば、あれはただの『光の点』だ。羊飼いの神話、王女の冠。それこそ『比喩』の塊だ。だが、私の計算では、あれは我々の星よりも遥かに巨大な質量の『球体』であり、我々と同じ、寸分違わぬ『理屈』に支配されて動いている」
マッシュは続ける。その声には、いつもの冷静な学者の響きが戻っていた。
「あの女の行動も同じだ。我々がまだ知らない、未知の『理屈』で動いているに過ぎない。未知は、恐怖の対象ではない。観測し、計算し、理解すべき『現象』だ」
フィナは、望遠鏡から目を離した。
彼女の瞳には、先程までの絶望の色が、わずかに薄れていた。星空の、あまりにも巨大で、あまりにも正確な「秩序」と「理屈」が、地上の「混沌」によって揺さぶられた彼女の心を、静かに整えていく。
「・・・貴方は、怖くないの?」
「怖い」
マッシュは即答した。
「理解できないものは、怖い。だが、それ以上に、知りたいという欲求が勝る。それが学者という生き物だ」
マッシュは、以前フィナに渡した、あの「天体の暦」を、再び彼女の前に差し出した。
「フィル殿のことは、ラヴェル殿に任せるしかない。だが、貴女の仕事は終わっていない」
「・・・仕事?」
「この暦だ。貴女の街は、まだ花を育てねばならない。あの女がどれほど理屈の外にいようと、星の運行という『絶対の理屈』は変わらない。我々は、我々の理屈で、街を立て直す」
それは、感情的な慰めではなかった。だが、その言葉は、「理屈と秩序」という自らの世界の拠り所を失いかけていたフィナにとって、何よりも確かな「支え」となった。
フィナは、その暦を、今度は強く握りしめた。
「・・・ありがとう、マッシュ」
夜が明け始めていた。天文台の窓から差し込む最初の光が、二人の足元に置かれた羊皮紙を、白く照らし始めていた。
天文台の窓から差し込む最初の光が、二人の足元に置かれた羊皮紙を、白く照らし始めていた。
フィナは、マッシュが差し出した「天体の暦」を、まだ強く握りしめたままだ。星空の秩序に触れたことで、彼女の心は、最悪の絶望からは持ち直していた。
その沈黙を、再びマッシュが破った。彼は、星図を調べていた手元の作業を止め、フィナに向き直る。その目には、先程までの静かな慰めの色ではなく、純粋な学者の分析の色が戻っていた。
「フィナ」
「・・・何?」
「先程の現象について、私の分析はまだ不完全だった」
マッシュは、戦闘中に書き殴っていた、もう一枚の羊皮紙を手に取った。
「私は、あの現象の『結果』、つまりフィル殿の意識障害の解明に固執していた。だが、本質はそこではない。注目すべきは、あの女が使用した『武器』そのものだ」
フィナは、忌まわしい光景を思い出し、眉をひそめる。
「武器・・・あのキス、とでも言うの?」
「そうだ。あれは、物理的な攻撃ではない。貴女たち『人間』という種が持つ、固有の脆弱性を突いた、極めて特殊な攻撃だ」
「・・・人間的な、弱点?」
「情熱、焦燥、独占欲、そして、貴女が感じた怒り。それら全てだ」
マッシュは、淡々と分析結果を口にする。
「あの女、イザベルは、フィル殿の『人間』としての未熟な部分を利用した。同時に、貴女の『人間』としての弟への執着を利用し、冷静な判断力を奪った。あの場で、貴女が最も恐れる『理屈の外』の攻撃を意図的に行うことで、貴女の精神的な優位性を完全に破壊した。これが、私の結論だ」
フィナは反論できなかった。事実、彼女はあの瞬間、理性を失い、ただの怒りに任せてナイフを抜こうとした。ラヴェルに止められなければ、どうなっていたか分からない。
「では、どうしろと? 感情を捨てる訓練でもしろと?」
「不可能だ。それは人間の設計上の欠陥であり、修正はできない」
マッシュは、こともなげに言い放つ。
「だから、発想を転換する」
彼は、天文台の窓辺に歩み寄り、地上を見下ろした。夜は明け、彼らが守るべき荒廃した花畑が、朝の光にさらされている。
「相手が、我々の『人間的な弱点』を利用してくるのならば」
マッシュは、フィナに振り返った。
「我々は、次、我々の『長所』において、相手を上回る存在を利用すればいい」
「長所・・・?」
「そうだ。そして、その点において、我々人間を遥かに凌駕する『戦力』が、この街には存在する」
フィナは、マッシュの視線の先に何があるのかを悟り、息を飲んだ。
「・・・まさか」
「虫だ」
マッシュの声は、あくまでも冷静だった。
「考えてもみろ。蜜蝋や胡蝶に、イザベルの『武器』は通用するか? 虫に『情熱』はあるか?『キス』という行為に、彼らが動揺するか? しない。彼らは、我々がまだ解明しきれていない、しかし強固な『別の理屈』で動いている」
それは、あまりにも非人間的な提案だった。
「虫を・・・利用する?」
「その通りだ。あの女の武器が『人間の弱点』を突くことであるならば、我々は戦場そのものを『人間以外』の要素で満たせばいい。彼女が次にフィル殿を狙うというのなら、その間に、虫の群れを誘導し、割り込ませる」
マッシュは、先程フィナに渡した「天体の暦」を指差した。
「この暦は、花の育成時期を示すだけではない。星の運行は、虫の活動時期とも連動している。これを使えば、敵の襲来を予測し、誘導することすら可能になる」
マッシュの目は、狂気ではなく、純粋な「理屈」の発見者の光を宿していた。
「虫を巻き込み、戦場を『人間』の舞台から『生物』の舞台へと引きずり下ろす。そうすれば、彼女が持つ人間的な弱点を突くという『切り札』は、無力化できる。これが、現状、最も合理的で、ベストな回答だ」
マッシュが「虫を利用する」という非人間的な作戦を提案してから、数日が経過した。
フィナはその提案を受け入れた。彼女は合理主義者であり、街の秩序を「理屈の外」から蹂虙したイザベルに対し、もはや情けをかける理由はなかった。
マッシュの「天体の暦」が示した、特定の虫が最も活発になる夜。街は、意図的に防衛の手を緩め、まるで無防備であるかのように静まり返っていた。
その静寂を破り、イザベルは現れた。リミナの手引きがあったのか、あるいは街の防御の隙を正確に見抜いたのか。彼女はサンドリヨンとシャルロッテだけを引き連れ、まっすぐにフィルの寝室がある建物へと侵入した。
目的は、前回倒した獲物の、完全な確保。
「――見つけたわ、私のかわいいフィル」
イザベルは、まだ熱が引ききらず、ベッドで浅い呼吸を繰り返すフィルの頬に、そっと手を伸ばした。
その瞬間だった。
建物の窓ガラスが、外からの凄まじい衝撃で一斉に砕け散った。
甲高い羽音。ガラスの破片と共に飛び込んできたのは、一体の巨大な「胡蝶」だった。
「なっ…!」
サンドリヨンとシャルロッテが即座に剣を抜く。だが、胡蝶は二人には目もくれず、一直線にイザベルへと襲いかかった。
「邪魔よ!」
イザベルは、フィルの頬に触れようとしていた手を引き、反射的に剣で胡蝶を切り裂く。
だが、一体だけではなかった。割れた窓から、壁の隙間から、天井の通気口から、次々と胡蝶の群れが、まるで最初からそこにいたかのように姿を現した。
そして、その全ての虫が、例外なくイザベルだけを狙っていた。
「なぜ私だけを!」
イザベルが切り裂いても、幻惑の鱗粉を撒き散らされても、虫は執拗に彼女の肌、彼女の服、彼女の髪をめがけて群がってくる。
マッシュの仮説は正しかった。イザベルが過去に切り捨ててきた無数の虫の体液。その、人間には感知できない僅かな「臭い」が彼女の肌に染み付き、胡蝶の群れにとって、彼女は「最も魅力的な餌」あるいは「最も排除すべき異物」として認識されていた。
「イザベル、逃げて!」
シャルロッテが叫ぶ。
その時、建物の外、広場で待機していたオリヴァーが動いた。彼は、群れからはぐれ、建物に侵入しそびれた一体の胡蝶を、正確無比な射撃で射抜く。
「一体、仕留めた!」
オリヴァーの声が響く。それは、作戦通りの「撒き餌」だった。
仲間が殺された臭い、そして新鮮な死骸の臭い。それに加え、イザベルが戦闘で発する汗の匂いと、元々染み付いていた虫の臭いが混じり合い、最悪の相乗効果を生み出す。街の外縁部で待機していた、さらにおびただしい数の虫の群れが、一斉に広場へと殺到し始めた。
イザベル、サンドリヨン、シャルロッテの三人は、完全に虫の群れに包囲され、その戦況は急速に悪化していく。
「フィルを!」
サンドリヨンが、混乱の中でフィルを奪おうと手を伸ばす。
だが、その混乱の最中、一体の飛行型の虫が、フィルの身体を獲物と誤認したのか、その鋭い鉤爪で彼を掴み、割れた窓から空へと飛び立った。
「あ…!」
フィナが息を飲む。
だが、その虫が高度を上げるよりも早く、隣の建物の屋根から、巨大な盾が投げつけられた。盾は正確に虫の胴体を砕き、フィルはその拘束から逃れる。落下するフィルを、投げた盾を即座に回収したラヴェルが、まるで荷物でも受け止めるかのように、ふわりとキャッチした。
ラヴェルは、あくびを一つ噛み殺しながら、腕の中でまだ意識が朦朧としているフィルを見下ろす。
「キスで倒れたかと思えば、今度は虫に攫われかけるとはな」
ラヴェルは、その言葉に呆れと皮肉を込め、フィルの身体をフィナへと無造作に引き渡した。
「まだまだ、子供だからな」
フィナは、弟をその腕に確かに抱きしめる。
広場では、イザベルたちが、自分たちだけを執拗に狙う虫の群れに、必死の形相で応戦していた。
「フィナ様、助けは…!」
シャルロッテの悲痛な声が飛ぶ。
フィナは、その声に答えなかった。マッシュの非人間的な作戦を、彼女は受け入れたのだ。
「行くわよ、ラヴェル」
フィナは、イザベルたちに背を向けた。
「あの女が、自らの行いを懲りるまでは、助ける必要はない」
彼女の声は、夜明け前の空気のように、冷え切っていた。
虫の群れとの死闘から逃れ、イザベル、サンドリヨン、シャルロッテの三人は、街の外縁、荒れた灌木帯の中で息を整えていた。
イザベルの華やかな衣装は、見る影もなく破れ、虫の体液と土で汚れていた。顔や手足には、胡蝶の鱗粉によるものか、皮膚の炎症が痛々しく広がっている。彼女の剣術は、人間相手であれば完璧だった。だが、理性を欠いた虫の物量と、その粘着質な体液による攻撃には、演舞のような美しさが通用しなかった。
「フィナ・・・あの女、本当に私たちを見殺しにする気だったわ」
シャルロッテが、怯えと怒りの入り交じった声で呟いた。サンドリヨンは、警戒を解かずに背後の花畑を見つめている。虫の羽音は遠ざかったが、その場の空気は、敗北の屈辱と、切り捨てられたことへの憤りによって、重く淀んでいた。
「ええ、知っていたわ」
イザベルの声は、荒い息の中に沈んでいたが、その瞳にはまだ、火が灯っていた。
「あの女の剣は、常に『合理的』な守りだけを貫く。そして、あの薬師の盾も、一歩たりとも引かない。それが、あの街の『理屈』よ。私は、それを試したかった。そして、彼女は迷わず、私という『駒』を切り捨てた」
その言葉の直後、彼女たちの前に、一人の人影が音もなく現れた。フィルをラヴェルに託したフィナだった。彼女の顔には、先程までの怒りも、屈辱の色もない。ただ、経営者としての、冷徹な分析と決断の色だけがあった。
イザベルは、そのフィナの顔を見て、剣を構え直す。
「追撃か、フィナ」
「いいえ。交渉よ」
フィナは、イザベルの前に立ち止まる。その距離は、剪定鋏の間合いよりも遠かった。
「貴女の力は惜しい」
フィナは、淡々と切り出した。
「剣術、カリスマ。そして、人を意図的に操るその『武器』。全て、この街の外へ出て、野放しにしておくには、あまりにも危険すぎる」
イザベルは鼻で笑った。
「危険? だから排除しに来た、というわけ?」
「違う。危険だからこそ、この街の監視下に置く。それが、私と、この街の『理屈』よ」
フィナは、イザベルを上から下まで見据え、その屈辱に満ちた顔を見て、言葉を続けた。
「貴女の剣は、私と同等以上の速度を持つ。鍛えれば、虫どころか、軍隊をも上回る戦力になるだろう。この街には、貴女を鍛える土壌がある」
それは、街にとっての利益。だが、フィナが本当に言いたいのは、次の一言だった。
「そして何より。貴女の『武器』は、フィルにしか効かない。我々の街の、最も人間的で、最も脆弱な部分を直撃する。その弱点が、貴女と共に街の外へ出て、他の誰かの手に渡ることは、この街の存在そのものに関わる危機だ」
フィナの言葉は、完璧なまでに論理的だった。イザベルを留める理由は、彼女の力を利用するためだけではない。彼女の持つ**『危険性』を、外部に漏らさないため**。その言葉の前に、イザベルの反論の余地はなかった。
「貴女の選択肢は二つよ」
フィナは、最後に静かに問う。
「一つ。今すぐ、この街から追放される。そして二度とここへは戻れない。ただし、我々は貴女の持つ『武器』の危険性を、世界中に喧伝する」
「二つ。この街の『住民』となる。二度とフィルに手出しはしないと誓い、その力を、この街の理屈に従い、花と防衛のために使う。監視はつく。だが、それ以上の自由は保証する」
イザベルは、顔の血を拭うこともせず、静かに剣を地面に突き立てた。
彼女は、フィナの論理が、これ以上ないほどに正しいことを理解していた。街の外へ出れば、彼女の『武器』は、いつか必ずフィルを奪うための足枷となる。そして、彼女の屈辱的な敗北は、単なる逃亡で終わる。
だが、もしこの街に残るなら。この、自分の剣術とカリスマを「惜しい」と言い切った、冷静な経営者の隣で。この「理屈」の街で、もう一度、新しい「舞台」の幕を開けることができる。
イザベルの唇が、ゆっくりと、しかし歓喜に歪んだ。
「・・・貴女の芝居は、なかなか、悪くないわ」
彼女は、フィナの目を真っ直ぐに見返す。
「いいでしょう。この街に、新しい『女優』が加わるわ。私は、この街の住民になることを誓う」
フィナは、その言葉に微動だにしなかった。彼女は、ただ冷徹に、その契約の成立を確認した。
「結構。では、その剣は私に預けなさい。明日から、カンナの工兵隊を手伝ってもらう」
「ええ、ご自由に」
イザベルは、そう言って、あっさりと剣を手放した。フィナは、屈辱に震えるサンドリヨンとシャルロッテを一瞥すると、剣を回収し、静かに踵を返した。
彼女の背中は、もはや一抹の躊躇も見せなかった。




