DLCシナリオ第三話-屈辱と敗北
「ならば――奪うだけだわ」
イザベルのその言葉が、引き金だった。
今まで花畑を揺らしていた夜風が、ふと止まる。濃密な花の香りがその場に澱み、空気が皮膚に張り付くような緊張に満ちた。
リミナが連れてきたサンドリヨンとシャルロッテが、息を飲む気配だけがした。
フィルを挟んで対峙する二人。その静寂を、最初に破ったのはフィナだった。
金属が擦れる微かな音。空気を切り裂く高い風切り音。
フィナの懐から放たれたスローイングナイフが、直線的な軌道を描いてイザベルの足元に迫る。
だが、イザベルはそれを予測していたかのように、あるいは舞台の段取りを知る役者のように、一歩も動かない。抜き放った片手の剣の腹で、まるで鬱陶しい虫でも払うかのように、ナイフを弾き返した。
甲高い金属音。ナイフはあらぬ方向へ飛び、土に突き刺さる。
その一瞬。フィナはすでに次へ移行していた。
腰に提げた愛用の剪定鋏。その支点にある留め具を、彼女は指先で弾く。カチリ、という乾いた音が響く。一つの道具だったそれが、瞬時に二つの刃物へと分解された。
彼女の両手に握られる、二振りの反りのある刀身。それは農具ではなく、枝を落とすためではなく、明確な殺意を持って研ぎ澄まされた、異形の二刀流だった。
「――素敵」
イザベルの唇が、初めて楽しそうに歪んだ。
彼女もまた、腰に佩いたもう一振りの剣を抜き放つ。これで彼女の手にも、二振りの黒い剣が握られた。
四つの刃が、フィルを中央に挟んだまま、同時に動いた。
激突。火花が散り、夜の闇に一瞬の光を描く。
フィナの剣術は、徹底的な合理性の塊だった。剪定鋏が不要な枝葉を最短距離で切り落とすように、無駄な動きを一切排し、人体の急所だけを狙う冷徹な軌道。時折、もう片方の手から放たれるナイフの投擲が、イザベルの行動範囲を限定しようと試みる。
対するイザベルの剣術は、まるで観客を魅了するための演舞だった。華やかで、予測不能。回転、跳躍、体幹のしなり。全ての動きがフィナの合理的な予測を超えてくる。ナイフは彼女の回転に弾かれ、剪定鋏の刃は、彼女の舞うようなステップに空を切る。
二人の実力は、拮抗していた。
だが、戦いの様相は明確に異なっていた。
フィナは、その場から一歩も動かない。彼女の足は、まるで大地に根を張るかのように、フィルを守る最後の防衛線として固定されている。
イザベルは、動き続けている。フィナの守りの剣戟を受け流すたび、その回転の遠心力を次の攻撃に上乗せし、一歩、また一歩と、確実に間合いを詰めていく。
火花の散る回数が増え、金属音が連続して響き渡る。
フィナの呼吸が、わずかに乱れ始めた。
攻め続けるイザベルが、守りに徹するフィナを、徐々に、しかし確実に、押し始めていた。
その光景を、フィルはただ立ち尽くして見つめるしかない。本編の戦いで力を失った彼には、この神話的な剣戟を止める術がない。
「やめろ、二人とも!」
彼の声は、鋼が奏でる不協和音の中に、虚しく吸い込まれて消えた。
少し離れた天文台の影。
マッシュは、この街に来て初めて目にする「本気の戦闘」を、冷静に観測していた。彼には、何故この二人が、弟(あるいは結婚相手)一人を巡って、これほどの命のやり取りを演じるのか、その動機が理解できない。
だが、彼の目は、その戦闘の「理屈」を正確に分析していた。フィナが投擲するナイフの初速と放物線の軌道。イザベルが回転する際に生まれる遠心力が、いかに剣の切断力を増大させているか。フィナの剣術が「効率」と「防御」を重視しているのに対し、イザベルの剣術は「魅力」と「撹乱」、そして「エネルギーの転換」を重視していること。
その分析の最中、イザベルが初めて、フィナに向かって声を放った。
「――それだけ?」
剣戟は止まらない。
だが、イザベルが放ったその言葉は、鋼の刃よりも鋭くフィナの思考に突き刺さった。
「貴女の剣は、守って、整えるだけの剣。そんなもので本当に大切なものが守れると?」
イザベルの黒い二刀が、フィナの剪定鋏の刃と火花を散らしながら、さらに速度を増す。それは単なる煽動ではない。彼女の剣術そのものが、その言葉を体現していた。
フィナの剣は、街を、弟を、秩序を「守る」ための合理的な動き。無駄がなく、隙がない。だが、それは常に「守り」から逸脱しない。
イザベラの剣は、欲しいものを「奪う」ための能動的な動き。華やかで、予測不能。彼女は自らが「舞台」の中心であり、そのための喝采を求めるかのように、リスクを恐れずに踏み込んでくる。
フィナの呼吸が、さらに乱れる。
イザベルの言葉が、フィナの合理性にわずかな「迷い」を生じさせた。本当に、守るだけでいいのか。この街は、この弟は、守るだけでは手に入らないのではないか。
その一瞬の思考の遅れを、イザベルが見逃すはずがなかった。
「――遅い!」
イザベルの回転が加速する。
今までフィナの守りを崩せなかったはずのイザベルの剣が、フィナの剪定鋏の刃を強引に弾き飛ばした。
遠心力によって増大した一撃が、フィナの防御の「理屈」そのものを力で捻じ伏せる。
ガキン、という鈍い音。
フィナの片手の刃が、あらぬ方向へ弾き飛ばされる。体勢が崩れる。フィナが驚きに見開いた目の前に、イザベラの黒い剣の切っ先が、二本、突きつけられていた。
勝負は、決した。
イザベルは、汗ひとつかいていないようだった。彼女はフィナの喉元に剣を突きつけたまま、その視線だけを、ゆっくりと、未だに動けずにいるフィルへと向けた。その瞳は、獲物を仕留めた獣のようでもあり、あるいは、最高の演技を終えた舞台女優が観客の反応を待つようでもあった。
「――ねぇ、フィル」
イザベルの声は、勝利の昂ぶりに濡れて、甘く響いた。
「貴方は、どちらの舞台に立ちたい?」
その問いかけが響く。
彼女の剣先は、フィナの喉元に寸分違わず固定されている。勝利を確信した舞台女優の、完璧な「決め」のポーズだった。
フィルが、動いた。
それは、歩き出すとか、駆け寄るといった、予備動作のある動きではなかった。
今まで立ち尽くしていたフィルの姿が、そこから消えた。ただ、それだけだった。
次の瞬間、イザベルの身体が、くの字に折れ曲がっていた。
彼女の視線が、信じられないものを見るように、自らの腹部へと落ちる。
そこには、いつの間にか移動していたフィルの、振り抜かれた足の裏があった。
「――ぁ」
イザベルが、声にならない息を漏らす。
時間差で、轟音が響いた。
フィルの蹴りを受けたイザベルの身体は、物理法則を無視したかのように真横に吹き飛び、そのまま花畑の先にある石造りの建物の壁に、叩きつけられた。
爆発音ではない。純粋な質量が、音速に近い速度で叩きつけられたことによる、衝撃音。
石壁が、イザベルの身体を中心に、蜘蛛の巣状に砕け散る。建物が半壊し、粉塵が夜の闇に舞い上がった。
その場にいた全員が、息を止めた。
剣を突きつけられていたフィナも、観客だったリミナも、物陰で観測していたマッシュも、今、目の前で起きた現象を理解できなかった。
だが、最も理解できていないのは、フィル自身だった。
彼は、イザベルを蹴り飛ばした姿勢のまま、ゆっくりと自分の足元に視線を落とした。彼の顔から、表情が抜け落ちていた。それは怒りでも、悲しみでも、焦りでもない。まるで、自分ではない何かが、自分の身体を乗っ取ったかのような。
戦いの最中に、彼が時折見せたという、あの「災厄」そのものの無機質な形相。誰も見た事のない、感情の読めない、冷え切った顔だった。
彼は、自分の足を見る。さっきまでの、あの圧倒的な力は、もうどこにも感じられない。
ただ、粉塵が晴れていく向こう側、瓦礫の山となった建物の下で、イザベルがピクリとも動かないのが見えた。
イザベルの剣の切っ先が、フィナの喉元に突きつけられている。勝利を確信した女優の、完璧な静止だった。
「――ねぇ、フィル。貴方は、どちらの舞台に立ちたい?」
その問いかけが響く。
だが、フィナの目は死んでいなかった。
乱れた呼吸を整えながら、彼女は自分に突きつけられた剣先と、イザベルの瞳を冷静に見返す。
イザベルの瞳。そこにあるのは、獲物を仕留めた者の純粋な殺意や、勝利の昂ぶりではなかった。それは、自らの演技が観客にどう映っているかを確認するような、計算高く冷めた光だった。
(…演技だ)
フィナは瞬時に見抜く。
本編での無数の戦い。幻覚を見せる胡蝶、擬態する虫、裏切り続けた人間たち。フィナの経験が、イザベルの放つ「芝居がかった殺意」と「本物の殺意」の違いを明確に切り分けていた。
この女、殺す気がない。目的は、別にある。
フィナがその本質に気づいた瞬間、イザベルもまた、フィナが演技を見破ったことを察知した。あるいは、それすらも台本の内だったのか。
イザベルの身体が、爆発的に動いた。
フィナから剣を引き、その勢いを殺さず、フィルの元へ突進する。速い。
だが、フィナはその速度を見切っていた。この女の次の狙いは、フィル本人。
(怒りに任せて、フィルを人質に取るか、あるいは――!)
フィナは、それが計算された「怒りの昂ぶり」の演技であると誤認した。
「やめなさい!」
体勢を立て直しながら、フィナもまた、イザベルとフィルの間に割って入ろうと動く。
だが、イザベルの動きは、フィナの予測よりもさらに速く、そして、その「軌道」が決定的に違った。
彼女はフィルを攻撃しなかった。人質にも取らなかった。
突進する勢いのまま、驚きに目を見開くフィルの両頬を、華奢な両手で強く掴み、固定する。
そして、その唇を、速攻で奪い去った。
「―――っ!」
それは戦闘の文脈にはない、あまりにも情熱的な、深く長い口付けだった。
フィルの身体が硬直し、その目から光が失われていく。イザベルから流れ込んでくる、未知の「熱」。フィナの合理的な世界では、マッシュの観測する理屈では説明のつかない、純粋な情動の奔流。
イザベルがゆっくりと唇を離す。
フィルは、その熱にくらむように膝から崩れ落ち、糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏した。
フィナは、呆然と立ち尽くす。
彼女は、弟が、初めての「敗北」を喫した瞬間を目撃した。それは剣によるものではない。力によるものでもない。ただ一つの、情熱的なキスによって。彼女が最も警戒し、最も理解できない「理屈の外」の攻撃によって。
夜の静寂が戻っていた。
だが、それは先程までの、剣戟が始まる前の静寂とは異質だった。濃密な花の香りに、イザベルが放った熱の名残が混じり合い、空気がねっとりと肌にまとわりつく。
倒れ伏したフィルを、イザベルは満足そうに見下ろしていた。
フィナの絶叫が、静寂を引き裂いた。
合理性と冷静さを常に纏っていた彼女の瞳が、今は純粋な怒りで燃え上がっていた。弟を守れなかった後悔と、弟を理解不能な手段で蹂躙された屈辱が、彼女の理性を焼き切っていた。
フィナは、弾き飛ばされた剪定鋏の片刃を拾うより早く、腰のナイフを抜き放ち、イザベルの心臓めがけて突進しようとする。
だが、その刃がイザベルに届くことはなかった。
突進するフィナの眼前に、重厚な盾が割り込んだ。
いつの間にか移動していたラヴェルが、その大盾でフィナの進路を物理的に塞いでいた。
「フィナ、止まれ」
ラヴェルの声は、氷のように冷たかった。
「離しなさい!」
「合理的ではない。相手の土俵だ。これ以上は、街の損失になる」
ラヴェルは盾を動かさない。フィナは怒りに震えながらも、その絶対的な「守り」の意思の前で、足を止めざるを得なかった。
ラヴェルが騒動を阻止したのを見て、イザベルは楽しそうに肩をすくめた。
フィナとの剣戟で、彼女の衣装のあちこちは切り裂かれ、腕や頬には無数の浅い切り傷が走っていた。血が滲んでいる箇所もある。だが、イザベルは平然としていた。その傷すらも、舞台化粧の一部であるかのように。
「あら、残念」
イザベルは、フィナとラヴェルの睨み合いには興味を失ったように、ゆっくりと仰向けに気絶したフィルのそばに屈み込んだ。
そして、熱にうなされるフィルの顔を愛おしそうに両手で包むと、その唇に、再び吸い付いた。一度だけではない。角度を変え、確かめるように、味わうように、繰り返し口付けを落とす。
「―――っ!」
フィナが息を飲む音がした。
その、あまりにも背徳的で一方的な光景に、流石にイザベルの仲間たちが動いた。
「イザベル!」
「やりすぎよ!」
シャルロッテとサンドリヨンが慌てて駆け寄り、フィルの上に覆いかぶさるイザベルの肩を掴んで、強引に引き剥がした。
「もう、満足でしょ!」
「帰りましょう、フィナさんが本気で怒ってる!」
イザベルは、名残惜しそうに唇を離すと、不満げに立ち上がった。
その時だった。
一連の騒動を、フィルから少し離れた場所で静かに見つめていたリミナが、拍手こそしないものの、満足げな笑みを浮かべて前に進み出た。彼女の手には、いつの間にか用意していた清潔な包帯と、小さな水差しが握られている。
「素敵な舞台だったわ、イザベル」
リミナは、イザベルの腕にある切り傷に目を留める。
「差し入れよ。手当てしないと、傷が残るわ」
「あら、気が利くのね」
イザベルは、差し出された包帯と水差しを素直に受け取った。
リミナは、イザベルが水差しで包帯を湿らせ、自らの腕に巻き始めるのを見届けると、その笑みを、わずかに深くした。
その水差しの中身は、ただの水ではなかった。リミナが、本編の戦いの後片付けで集めていた、あの「源氏焔」の燃えカス。その「灰」が、微量に練り込まれていた。
それは毒ではない。だが、傷口に触れれば、治癒を阻害し、灼けるような痛みを後々まで残す、ささやかな「報復」だった。
リミナは、自らの差し入れが受け入れられたことに満足し、静かに踵を返す。
イザベルは、仲間たちに急かされながら、夜の闇へと悠然と去っていった。
物陰では、マッシュが理解不能な「現象」の連続に、ただ羊皮紙にメモを取り続けることしかできずにいた。
残されたのは、熱にうなされ、意識のないフィルと、その弟を抱きしめ、ラヴェルに制止されたまま、屈辱に震えるフィナだけだった。




