DLCシナリオ-自転と林檎 第二話
湿った夜の空気が低く流れ、花畑がざわつく。花の香りは濃く、甘い。風が動くたびに花粉が揺れ、月の光を受けてぼんやり白い靄になる。
その靄の中を影が一つ、走った。
草が裂け、花が散る。何かが跳ねる音、羽音、甲殻が石に擦れる鈍い音。影は低く身を伏せ、土を蹴り上げる。
閃きが一度、空気を裂く。刃が敵の腹に刺さり、押し込まれた。もう一本の刃は腰の後ろに留めたまま。刺した方の柄に細いロープが結ばれ、引き戻される勢いで甲殻が裂けた。
短く息を吐く音、地面に落ちる重い塊。花の香りに焦げた金属の匂いが混ざる。
影は一歩引き、倒れた虫のような影を確かめもせず腰のナイフを抜いた。光の反射が一瞬だけ顔を照らし、頬の輪郭が見える。
誰かが花を踏まずに立っている。花弁が音もなく散り、風に混ざる。その動きは街の戦士たちのそれとは一線を画し、一切の無駄がなく洗練されていた。
花畑の空気が重く沈む。倒れた虫の体を中心に白い鱗粉が渦を巻き、月光の中で濃い霞のように漂っている。
遠くで鳴く鳥の声が途切れた。風も止まり、代わりに低い羽音が周囲を包む。地面がわずかに震え、花の茎がしなる。音の方向が定まらない。右からも左からも羽の擦れる音がして、何かが空を掠めていく。
影が飛び込んだ。花を押し潰す重い音。
鋭い脚が地面を裂き、土が跳ね上がる。姿を現した虫は一回り大きく、殻の色が濃く艶を帯びていた。さっきの鱗粉を浴びたせいか、体表が白く光っている。
刃が閃き、甲殻を弾く金属音が夜に響いた。勢いのまま足を払うと、花が粉々に砕け、地に散った花弁が踏み固められる。
敵の動きが速い。羽の振動で土が舞い、視界が霞む。
刃を横に払う。手応えがある。片方の翅が千切れ、粉が飛び散る。粉は熱を帯び、肌に刺さるように痛い。匂いが強い。喉の奥に甘い膜が張る。幻覚の匂いだ。
足元から別の影。刃を構える間もなく、地面の下から顎のような器官が飛び出す。土が割れ、根が弾けた。
体をひねって避ける。刃がその顎をかすめ、赤黒い体液が花畑に広がる。液体は花の根を焦がし、煙を上げた。息を吸えば焦げた匂いが肺に刺さる。
次の瞬間、風が逆流した。鱗粉が再び舞い上がり、光を反射してあたりが白く染まる。影が何体もその中を飛び交い、位置が掴めない。
耳を澄ます。羽音の高さが少し違う。空気の裂ける音。上だ。
身を沈める。風が頭上を掠め、花弁が顔を打った。
刃を引き、地面に突き立てる。反動で体を止めると、土の感触が掌に伝わる。ぬるい。体液が混ざっている。
視界の端で光。反射的に踏み込む。刃先が閃き、硬い手応え。飛び散った粉が熱を放ち、光が歪んだ。敵の体が崩れ、羽音がひとつ途切れた。
だが、止まらない。
さらに奥の花畑が動いた。花が一斉に傾き、風が吹き抜ける。そこに蠢く影が三つ、四つ。全てが羽を広げ、地面すれすれを滑るように迫ってくる。
夜がうねり、空気が焼ける。
刃を構え、姿勢を低く。
次の瞬間、花と風と音が爆ぜた。
花畑が燃えるような音を立てて揺れた。風が逆巻き、白い鱗粉が巻き上がる。その中に光が散って、夜気がゆらめく。
飛び込んできた影が一つ、刃が空気を割く。甲殻が砕ける音が乾いた。砕けた破片が月光を反射して、金属よりも柔らかく光る。砕けた体液が花弁にかかり、花がそのまま透ける。
風が切れる音。敵の数は減らない。動くたびに空気が乱れ、粉が舞う。
目を凝らすと、光の揺らぎの中で銀の鎖のようなものが見える。それが軌跡を描き、刃を引き戻すたびに花畑が閃光を散らす。
息の音が短くなる。鋭い動きのたびに髪が揺れ、輪郭が露わになっていく。細い指、光を弾く頬、振るう刃が手首の動きに吸い込まれるようだ。
花弁を踏んだ甲殻の破片が滑る。足元で砕けた虫の羽が光を拾い、紫と青の間で瞬く。血の代わりに散った液体が地面に広がり、夜の花を染め上げる。
焼ける匂いと、湿った香りが混ざる。視界の端で粉が形を変え、もう一体の影が生まれようとしている。
影が跳ねた瞬間、刃が逆光を受けた。ひとつはまっすぐ、もうひとつは斜めに振られ、ロープが引かれる。肉が裂け、甲殻が外れる。飛び散った粉が月光を受けて星のようにきらめいた。
風が通り抜け、白い光と血の色が入り混じる。その動きは舞のように整っていて、刃が止まるたびに夜が息を止める。
花畑の上で、粉と破片が光を返す。虫の体液が細かい糸になって宙に散り、まるで雨のように落ちる。彼女の髪がそれを受けて滑らかに光る。目の端に光が走り、呼吸のたびに肩が上下する。
その姿は戦いの最中にあるのに、まるで舞台の上で踊るように美しかった。
刃が再び振われ、粉が弧を描く。砕けた虫の翅が空に舞い上がり、夜空の星に溶けた。
花畑の風向きが変わる。鱗粉が流れを読み違えたように逆巻き、夜気を切り裂いて広がった。月明かりが滲み、空が白く霞む。
花の香りが一瞬で濃くなり、喉に重たく沈む。遠くで、羽音が二重になった。低くうなるような音と、金属を擦るような高い音。
増えている。
風に乗って、別の方角からも響く。
呼び寄せるだけじゃない――鱗粉が、何かに“見つかっている”。
刃を構える手が汗を帯びる。
視界の端で、花の茎が一斉に震えた。根元から押し上げられるように、地面が膨らんだ。
花を弾き飛ばして現れたのは、さっきまでとは違う、黒に近い緑の殻。節が太く、脚が長い。動きが重いのに、速い。
空気が変わった。羽音が一瞬止まり、次の瞬間には四方から響いた。三体、いや五体。花の奥で揺れる影。上空からも光の粒が落ちてくる。
粉が濃い。鼻の奥に甘い刺激。舌に苦味。呼吸を整えようとしても肺が重い。
ひとつ、正面から突っ込んでくる。
刃を振るう、弾かれる。甲殻が硬い。
足をずらし、地面を蹴る。花を踏み砕き、粉が上がる。
もう一体が横から滑り込み、翅で視界を遮った。
鱗粉が肌に触れるたび、視界が揺れる。
色が変わる。白い花が青く見え、空が赤く染まる。音が遠く、重く響く。
だが、その太刀筋に乱れはない。
姿勢は崩さず、呼吸も乱さない。刃の先で粉を払うようにして前へ出る。
ひと振りごとに、風と花と粉が形を変え、夜が揺れる。
花の間をすり抜け、刃が閃く。切断面から飛んだ粉が光を返す。
美しい。
それでも、敵は減らない。
空に白い帯が走る。鱗粉が軌跡を描いて渦を作る。
その中心で、彼女は息を一度だけ吐いた。
まだ終わらない。
夜が、動いている。
花畑がざわめいた。風が一方向ではなく、円を描くように流れる。粉が目に入り、頬をかすめる。体を覆う鱗粉が微かに光を放ち、皮膚の上で熱を帯びていた。
視界の端に黒い影。上にも、下にも。四方八方から羽音が重なる。空気が歪み、音がひとつの塊になる。
彼女は一歩引き、冷たい目で敵の数を数えた。指先の動きは正確、呼吸も変わらない。肩が上下せず、顔には汗一つない。刃を構える姿勢も崩れない。
涼しい顔で、ただ目だけが鋭く光っている。
地面が裂けた。花の根が弾け、粉と土が混ざって宙に舞う。視界を遮る白の幕。敵の翅が音を立て、光が乱反射する。花が押し潰され、香りがさらに強くなる。
その瞬間、少年の声が響いた。
「伏せて!」
反射的に体が動いた。地面に身を沈め、ドレスの裾が土に触れる。湿った泥が布に染み、花弁が張り付いた。思わず顔をしかめる。
次の瞬間、空気が切れた。
甲殻が砕ける音が、上下からほぼ同時に響く。光の線が二重に走り、虫たちの体が真っ二つに割れた。
一拍の遅れのあと、風が爆ぜる。
粉と体液が夜空に散り、花畑が銀色の雨に包まれる。
静寂。
倒れた影がいくつも重なり、残った羽音がすぐに途絶えた。
息を吐き、顔を上げる。ドレスは土と体液で汚れている。
指先で裾をつまみ上げ、舌打ち。
「……これ、あとで落ちなかったら殺すわよ」
それでも、唇の端が僅かに上がった。
声の主の方を見た。姿はまだ見えない。だが、その力強さと鋭さに、胸の奥が熱を帯びた。
「……いいわ、そんな力を持つなら」
立ち上がり、花の残骸を踏みしめる。
花弁と粉が舞い上がり、夜風に散る。
「都市まで行ってやる」
その目には、怒りと興奮が同居していた。
泥に汚れたままの足で、光の方へ歩き出す。
その背に月の光が落ち、粉が尾のように流れた。
フィルの剣は相変わらずの高威力であった。
もはや敵がどうこうというより、あの一撃を受けてなお形を保つ山を称賛してやりたいくらいだ。
彼の力は、いまだ解明されていない。というより、そもそも自分の管轄外だ。学者としてどう分析すればいいのかも分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
この場所の日照時間を伸ばすこと――それには確実に価値がある。
天文学を手放しかけてなお、理屈と体裁を保ち続ける。星を測る目と、地を歩く足とを同時に使うような仕事だ。
それでも、少しだけ誇らしく思う。
荒れた土地に光を引き寄せる術があるのなら、この街はまだ生き延びられる。
そう思った矢先、その光の中を、あの女優がやってきた。
しかも、ずいぶん早く――だ。
イザベルは花畑を踏み、香りを吸い込んだ。
枯れた薔薇の匂いよりも生きた花の香りの方が強い。息をするだけで喉が甘くなる。
少し離れた丘で、男が剣を振るっていた。
斬撃が風を裂き、花を散らす。その余波だけで空気が震える。
イザベルは目を細めた。
「なるほど……観客が息を呑むのも無理はないわね」
彼女は裾をつまみ、ゆっくりと近づいた。
土埃が舞う中、黒いドレスの裾が月光を拾い、銀のように光る。
フィルが振り向く。
「……あの一撃、見事だったわ」
イザベルの声は柔らかいが、目だけが笑っていなかった。
「その剣、私の脚本でも使いたいくらい」
「脚本?」
「ええ、人生の、よ」
フィナが彼女の言葉に気づき、眉を寄せる。
「何のつもり?」
イザベルは微笑んだ。
「花を求めて来たの。でも、今は花よりも彼に興味があるわ」
「……弟は婚姻済みよ」
ほんの一拍の静寂。
イザベルの笑みは消えず、そのままわずかに深くなる。
「ならば――奪うだけだわ」
風が止まった。
花が音もなく傾き、空気が冷える。
フィナの目が光を帯び、イザベルの黒い瞳がそれを映した。
舞台の幕が、静かに上がる音がした。
リミナが、二人の女を連れてやって来た。
砂塵を踏まぬように歩くその姿は、まるで案内人というより舞台の支配人のようだ。
後ろに並ぶのは、サンドリヨンとシャルロッテ。華やかな衣装の裾が風に揺れ、花の香りが濃くなった。
「中央まで来たわ。彼女が例の――」
リミナが言いかけた瞬間、イザベルが半歩前に出る。手にはまだ剣。黒い刃が光を反射し、空気が緊張する。
サンドリヨンが慌てて前に出た。
「イザベル! 落ち着いて!」
シャルロッテも続くように頭を下げた。
「ごめんなさい、この人、ちょっと勢いがありすぎるの!」
イザベルは眉をひとつ上げ、刃先を軽く振った。それだけで花弁が散り、空気が震える。
「勢いがある方が舞台は華やかよ」
フィナが無言でナイフを構えた。金属の光が刃の先で弧を描く。
だが、リミナが小さく息を吐き、鉄球を手の中で回した後、静かに腰へ戻す。
「やめましょう。ここで壊すのは舞台じゃないわ」
リミナの声に、フィナもナイフを下げる。
「……分かったわ」
そのとき、足音。
フィルが姿を現した。状況を見て、苦笑を浮かべる。
「……また面倒なことになってるな」
近づこうとしたが、その瞬間、両脇から腕を取られた。
右にフィナ、左にリミナ。二人にしっかりと組まれ、文字通り“両手に花”。
「ちょ、ちょっと、これは……!」
「動かないで」
「逃げたら後で説教よ」
フィルは肩を落とし、観念したようにため息をつく。
「……まるで罪人の護送だな」
イザベルはそれを見て小さく笑った。
「いい構図ね。英雄と二人の花、観客はもう拍手しているわ」
風が吹き、花畑が揺れる。
舞台のように、すべてが照明の下に晒されていた。
マッシュは少し遅れて丘を下り、花畑の中央に目を向けた。
視線の先では、黒と赤と銀が交錯する――イザベル、フィナ、リミナの三人。それぞれが武器を収めた直後でありながら、空気に残る圧だけは消えていない。
マッシュは思わず足を止めた。
「……あれは、近づかない方がいいな」
ぼそりと呟き、身を引いて木陰に身を潜める。
花の香りが濃い。それがかえって緊張を増す。
三人が一列に並ぶ光景は、一歩間違えれば芝居でも戦でもない、処刑にすら見えた。
彼女たちはただの住人ではない。
吟遊詩人にスパイが混じるように、穏やかな顔の裏に“卓越した何か”を隠している。歌うように話し、踊るように動き、任務を遂行する。
その優雅さがむしろ恐ろしい。
今まで虫との戦闘を見ていても思った。あれは戦術ではなく芸術だ。
花を媒介にする能力、そしてあの反応速度。もし敵として相対すれば、勝ち目などない。
そして――花そのものが、彼女たちの側にある。
この土地の花は生き物のように反応する。戦えば花粉が舞い、香りが味方にも力を与える。
それが分かっていて、なお無防備に見える彼女たちの動きは、熟練を超えた確信の上に成り立っている。
マッシュは木陰の中で小さく息を吐いた。
「……いや、問題はそこじゃない」
自分の名が一度も出ていない。
だが、だからこそ嫌な予感がした。
観測者はいつか観測される側になる。天体も、人も、視線を向ける者を見返す。
「どう考えても、次は――俺だろうな」
その一言だけが、冷たい風に消えた。




