DLCシナリオ-自転と林檎第一話
宗教改革の時代、ルターはこう語ったという。
「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私は今日、林檎の木を植えるだろう」
マッシュはその言葉を思い出し、静かに吐き捨てた。
林檎を植えたとして、何になるというのか。世界の壊滅前くらい、有給を使わせてもらいたいものだ。
だが、強いて言うなら、世界が終わるという予言は今のところ百パーセントの確率で外れている。
どうせ外れる予言で騒ぐ狼少年になるくらいなら、自主的に避難訓練をするだけでいい。横暴で無茶な話を聞く必要はない。
マッシュはそう気楽に、宗教改革の時代を怠惰に生きていた。
その一方で、フィルとリミナは結婚していた。周囲の状況を考えれば、めでたいというより「ハレルヤ」と神に祈るような心境だったが。
しかし経営は常にぎりぎりで、街は壊滅的な被害を受けていた。商品は根こそぎ、あの忌わしい竜に奪われたのだ。
花畑は荒れ果て、フィルの力の大部分は消失していた。
武器そのものは手元にある。だが、立て直しのための栄養が枯渇しており、今は刀を抜いたところで意味がない。
それでも、わずかに残った花畑の中で、彼はリミナの膝に頭を預け、昼寝をしていた。
静かで、穏やかで、どこか楽しげな光景だった。
最近、リミナは無人の教会に通うことが多い。
外部の人間でありながら、総本山に近いほどの敬虔さを持つ彼女。年下の彼女が、あの場所で祈る姿を見れば、誰でも少しはただならぬものを感じるだろう。
マッシュは、ある花の都の話を聞いた。
肥やしが大量にある、というだけの花の都ではない。花の都より花の都らしいウィーンでもない。
花に関して、面白い方法がある――と、自分はそれを提案したかった。そのために、彼は歩いてきたのだ。
外で作業するフィナに、マッシュは声をかけた。
陽の光が強く、彼女の髪が金に揺れていた。
土の匂いと湿った風。鍬を置く音が乾いた空気に混じる。
その姿は、花を育てる者というより、ひとつの風景そのものだった。
マッシュは一歩踏み出した。
目の前の女性が、端正で、そして絶世の美を湛えていることを理解した。一瞬、何を言いに来たのか忘れそうになる。
だが彼は、すぐに頭を振った。
天文台のことは思い出さない。
星の動きよりも、今はこの街の光と水を見ていた。
「水位を操作すれば、日照時間を延ばせる。夜を短くすることも、できるだろう」
マッシュはそう言った。
理屈の話だけをする。計算の話はしない。
花の影が二人の足元をかすめ、風が少しだけ冷たくなった。
フィナは笑う。どうしても面白かったらしい。その笑みは風に揺れる花のようで、声に出さずとも柔らかかった。
マッシュが少し戸惑って立ち尽くすと、彼女は足元に置いてあった籠から花束を一つ取り上げ、静かに差し出した。
「今回はタダでいいわ。でも、この子たちもゆっくり眠りたいの」
花束の中で、白と淡い紫の花弁が微かに揺れた。
土の香りが混じった風が通り抜け、花の影が二人の間をゆらめかせる。
「お昼寝も楽しいけど、この子たちは、ずっと起きて虫を見張って、探して、守って、生き延びるの」
フィナの指が花の茎を撫でる。
その指先には、土と水と陽の温度が染み込んでいた。
彼女の言葉の途中で、遠くの鐘の音がゆっくりと響く。
「この子たちはすぐに死んでしまうから、頑張って生きてる……だから、今はそっとしてあげて?」
マッシュは何も言わなかった。
ただ手に受け取った花束を見つめ、重さよりも温かさを感じていた。
「お疲れ様、花束の子たち。花畑での戦いは、おしまい。巣立ちの時よ、大切にしてもらいなさい……後は、ゆっくり楽に過ごせるからね」
フィナは花に顔を近づけ、まるで祈るように目を閉じた。
静かな時間が過ぎていく。陽の光が少し傾き、花の影が地面に広がった。
惚れ込んだマッシュは、暫くのあいだ呆然としていた。
花束を受け取った手の中の温もりが、離れなかった。
風が止まり、花弁が一枚、静かに彼の肩に落ちる。その軽さが、何かの区切りのように感じられた。
やがて彼は、少し息を吐いて気を取り直した。
言葉を探しながら、ゆっくりと顔を上げる。
「私はマッシュ。天文学者で……逃げてきた人間だ。争いに巻き込まれるのが、どうしても嫌になったんだ」
声は穏やかだったが、どこか疲れが混じっていた。
それでも、正直さだけは隠せない響きだった。
フィナは花束を抱えたまま、ほんのわずかに首を傾げた。
その仕草の柔らかさに、マッシュはまた言葉を失いかける。
「……マッシュさん……ですね。ええ、分かりました。私にはどうにも出来ませんが、後で聞いてみますわ」
その言葉は拒絶でも受諾でもなく、ただ静かに状況を受け止める者の声だった。
マッシュは肩をすくめ、わずかに笑う。
「……心底ありがたい。学者らしく野垂れ死ぬのも嫌だからね」
冗談めいた口調に戻ったその瞬間、遠くで鳥の鳴く声が一つだけ響いた。
空は静かで、二人の影が花の間に長く伸びていた。
天文台を建てることになった。
フィナが指示を出し、マッシュはその中心に立った。
丘の上は風が強く、地面にはまだ石と木片が散らばっている。遠くから見れば、ただの廃墟の再利用にしか見えなかった。
天文台の骨格となる木枠を見上げ、カンナが腕を組んで呟いた。
「星を見るのに、こんな風の強い場所を選ぶとはね」
「風がある方が、雲の流れが読める」
マッシュが答える。彼の目は空ではなく、地面の勾配を見ていた。
クレアは手帳を抱え、建設の手順を淡々と記している。
「資材は足りそうですか?」
「最低限はある。問題は人手と時間だな」
マッシュは杭を打つカンナの動作を見ながら言った。
その言葉に、クレアが小さく頷く。
「空を見上げるより、地面を固める方が大事ですものね」
マッシュは少しだけ笑った。
「それもまた、重力の理屈さ」
作業の合間、スレアの夫が丘を登ってきた。
無口で、作業場にはあまり顔を出さない男だ。だがその日だけは、珍しく足を止めてマッシュを見つめた。
「……見覚えがある顔だと思ってた」
低い声でそう呟く。
マッシュが顔を上げる。
帽子の影から覗いた目が、わずかに細められた。
「昔、どこかで会いましたか?」
男は少し間を置き、曖昧に笑った。
「いや……かつて星の話をしていた、誰かにな」
風が再び吹き抜け、木枠の幕が揺れた。
マッシュは視線を空に戻した。
雲の切れ間に、昼の星が一つ、微かに見えた。
丘の下では、別の穏やかな騒ぎが起きていた。
花畑の脇に置かれた木のベンチ、その上でフィルとリミナが並んで座っている。空は夕方の色に変わり始め、まだ完成していない天文台の影が長く伸びていた。
「キャラが被ってるじゃないですか、あの人! しかも完全な上位互換……!」
フィルが思わず声を上げる。手にした名物の花ジュースが小さく揺れ、隣のリミナが笑いを堪えきれず肩を震わせた。
「……あの女! 弟には恋愛するとうだうだ言う癖に、速攻で……!」
リミナが小声で言いながら、グラサンを少し上げて目元を隠す。
二人は同じストローで花ジュースを飲み、甘い香りが風に溶けた。
「こんなに甘かったですかね?」
「お菓子作ったから一緒に食べましょ? 試食しちゃったのがバレるから口封じよ」
軽い笑いがこぼれた。
花畑の奥では、建設の音と木槌の響きが続いている。
リミナは視線をそちらに向け、ジュースのカップを両手で包んだ。
二人の笑い声が丘を越えて、作業中のマッシュたちの耳にほんのり届いた。
マッシュは木槌の音の合間に微かに眉を上げ、「……賑やかな街だな」とだけ呟いた。
マッシュは翌日、早速“洗礼”を受けた。
一つ目――超早起きな住民たち。
まだ空が青白い午前五時、街のどこかで鍬の音が鳴る。気づけば外はすでに人の気配だらけだった。
五時起きからの、作業。
朝飯、作業。
討伐、作業。
撃退、作業。
昼飯、作業。
準備、販売、作業。
討伐、作業。
夜食、作業。
風呂、作業。
睡眠。
まるで、呼吸の合間に「作業」という単語を挟む訓練でもしているかのようだ。
天文学者にとって夜は活動時間だが、この街では夜は“虫退治”の時間だ。星を見る余裕などない。
マッシュが望遠鏡の角度を直そうとすると、背後から「鍬の貸し出しは後で返して!」と誰かの声が飛んでくる。
それがこの街の日常であり、彼が受けた“最初の洗礼”だった。
しかし、花の恩恵があるからか、意外と苦ではない。
土の匂いも汗の感触も、どこか穏やかで、この街そのものが呼吸しているように感じられた。
ただ――シンプルに全員、カゴに詰め物をホイホイ持っていく力が違う。
屈強な者から年配まで、誰もが軽々と荷を担ぎ、マッシュは腕の筋が引きつるたびに学者という職業の儚さを知った。
それでも、少し笑ってしまう。
星の動きを計算するより、人の動きの方がよほど法則的だと思えた。
二つ目の洗礼は、巨大な虫だった。
昼下がり、地面の奥から湿った音がして、土の塊がひとつ、盛り上がった。
都市では防衛用に香が焚かれ、虫を遠ざけるという。
しかしこの街には、そんなものはない。むしろ、下手に逃がさないよう“準備”までされている。
罠、杭、火打石、そして花の配置。
マッシュは一歩退きながらも、その異様な光景に目を奪われた。
巨大な羽音が過ぎ、土埃の向こうに甲殻が光る。
「……なるほど。香を焚かないのではなく、必要ないのか」
彼は咄嗟に腰の鞄からノートを取り出す。
虫の構造、脚の数、羽の角度――一つずつ記す。その仕草は完全に研究者のものだった。
しかも、面白い資料も多い。
その体表には焦げた痕があり、何かを突き破って地上に出たようにも見える。
空から飛来した可能性もある……。
「調べねば」
マッシュの目がわずかに光った。
汗と土にまみれた中で、それだけが確かな学者の顔だった。
マッシュが見たのは、花畑の奥で繰り広げられる、まるで夢の中のような戦いだった。
空気が歪み、色彩が滲んでいる。
昼なのに夕方のような光、風なのに水のような感触。彼は幻覚を疑ったが、目の前の現実はそれ以上に鮮明だった。
フィルがそこにいた。
花畑の中央、背を低くして構え、地を蹴るたびに花弁が散り、光の粉が舞う。
対峙するのは、一頭の胡蝶だった。
その羽は薄く、透けるほど白い。だが、光が差すたびに虹のような膜が走り、見る者の目を焼く。風が一度吹けば、羽の粉が空に溶け、そこに映る色が、まるで別の世界のように変わっていく。
マッシュは丘の影から見ていた。
音も匂いも歪む。幻覚作用だ。
意識の輪郭が花のように散る感覚――彼は学者として、それを理屈で押さえ込もうとした。
「光の反射か……いや、違う。意識に直接触れている」
フィルが動く。
スコップを振り抜いた瞬間、胡蝶の羽が風に裂かれ、光の線が二人を包む。
彼の足元から花が一輪咲き、その花弁が一斉に舞い上がった。
幻覚の中でも、フィルの軌跡だけは確かだった。
何かを見抜くように、まっすぐ胡蝶の核へ突き立てる。
破裂音。
光の散乱。
風の中で羽が溶け、一瞬だけ、胡蝶の姿が人の形をとった。
その表情は、悲しみとも安堵ともつかない。
そして、静かに崩れ落ちた。
マッシュはその光景を息を殺して見届けた。
ノートを開く手が震える。
幻覚が薄れると、花畑の空気が澄み渡っていく。
「……あれが、“毒翅”か」
「生き延びるためじゃなく、渡すための命……」
彼は静かに記した。
羽の残骸、粉の分布、風の向き――全てを。
それは観測でも記録でもなく、ただ“見た”という事実の確認だった。
胡蝶の羽が散り、静寂が訪れた――かに見えた。
だが、それは幻だった。
大型の蝶だからこそ、ちぎれても飛ぶ。
ちぎれた羽の破片が風に乗り、一枚、また一枚と空中で寄り合い、まるで別の個体のように形を取り戻していく。
マッシュは目を凝らした。
「……まだ、生きている」
幻覚で死んだふりをしているのだと理解した瞬間、興奮が理性を上回った。
彼はノートを掴み、風の向こうへ一歩踏み出す。
だが、その腕を強く掴む者がいた。
大盾が音を立てて地面に突き刺さる。
ラヴェルだ。
片手で盾の柄を押さえ、もう片方で繋がれた鎖を握り締めている。その鎖は盾の持ち手から伸び、マッシュの腕を引き戻した。
「近づくな」
その声は低く、鋭かった。
フィナが隣に立つ。
腰のベルトから小型のナイフを幾つも抜き、指の間に挟んで構える。花畑の光が刃に反射し、光の粒が揺れた。
マッシュは振り返る。
「観察するだけだ。危害を加える気は――」
「その言葉が一番危ないの」
フィナの声が遮った。
「幻覚を見せられたら終わりよ。次は“死んだふり”じゃ済まない」
胡蝶の破片が音もなく舞い上がる。
光の中で粉が形を成し、新たな翅が生まれるように再生していく。
マッシュは鎖を引かれたまま、その光景を見た。
学者としての好奇心と、生存本能がせめぎ合う。
ラヴェルは盾を前に出し、フィナは構えを崩さない。
風が変わる。
幻覚の匂いが、ほんの僅かに漂った。
大盾は問答無用でものを打ち砕く。
地を叩く音が、花畑全体を震わせた。その衝撃で胡蝶の羽片が散り、粉が煙のように舞う。
フィナより少し縦に小さい、フィルよりは大きい程度の盾。
しかし、力が格段に違う。鎖を介して放たれた一撃は、まるで杭を打つような重みだった。
胡蝶が再び身を起こそうとした瞬間、ラヴェルは次の動作に入ろうとする。
フィナが横で構えを取り、息を合わせた。
――そのとき、マッシュが声を上げた。
「待て、調べたいことがある。この虫、何故脚が少ないのだ? とか……色々気になるのだ」
フィナが顔をしかめる。
「……幻覚見た状態でやれるの?」
「いいや、幻覚はすでに見破った」
マッシュの静かな声に、フィナが訝しげな声を上げる。
「どうやって……?」
「簡単なことだ。異常な現象はすべて無視する。観測した事象をすべて記憶し、論理的にあり得ないものを除外していくだけだ。残ったものが、現実だ」
彼の目は真っすぐ胡蝶を見据えていた。
幻覚の残滓がまだ花の香りに混じって漂っていたが、その視線だけは確かに現実を捉えていた。
花畑の空気はまだ重かった。
幻覚の名残が霧のように漂い、光が少し滲んで見える。
その中で、マッシュが低く言った。
「幻覚で虫の姿を見せているだけで、本当は虫の姿じゃない」
ラヴェルが眉をひそめる。
「……というと?」
「液体でもない。胡蝶の資料を古いものから訳して読んだが、どうも違うらしい」
フィナが息を呑んだ。
「……アレ、翻訳出来たの……。幻覚に惑わされてちゃんと書けなくなるから、記録が残せないのに。治す薬はあるけど、記憶もセットで消えるのよ」
マッシュは頷く。
「でも僅かに記憶は残る。ならば、何度も殺せばデータは集まるかと」
ラヴェルが盾を下ろしながら苦笑した。
「戻してあげましょう。結論が出たみたいよ」
マッシュは胡蝶の残骸を見つめ、静かに言葉を継ぐ。
「……恐らくだが、鳥だ。羽毛が豊富な鳥。それが甲殻を纏い、羽毛に水を貯め、鱗粉を液体で飛ばし幻覚に染め上げる」
少し離れた城壁の上で、ベルの声が響いた。
「ベル兄、メモを!」
「片手なのに無茶言うな」
彼は笑いながら答える。片腕の代わりに強化された聴力で、城壁越しでもこの会話をはっきり聞き取っていた。
鱗粉を吸わずに済む位置――それが、彼の“仕事場”だった。
風が一度吹き抜け、幻覚の名残を散らした。
マッシュはノートを閉じる。
花の香りの中で、胡蝶の粉がゆっくりと地に落ちていった。
一番恐れるべきことは、虫と蝶、異なる種を繋げることだ。
この虫という生物を知らねば、どこかで世界は滅びるだろう。
だからこそ……だ。
マッシュは低く呟くように続けた。
「鳥だから、焼いて食べるか」
その言葉に、一瞬だけ場の空気が張り詰める。
冗談のようでいて、彼の声に冗談めいた色はない。
フィナが小さく頷き、ラヴェルは盾を地面に突き刺してから、無言で周囲の者に合図を送る。
とにかく、被害を最小限にするための備えを始める。
火を熾す者は土を掘り、油と薪を集める。刃物を点検する者は刃を研ぎ、杭や罠を補強する者は駆け回る。城壁の見張りは、鱗粉が舞った場合の退避場所を指示し、ベルは声を張り上げて特定の合図を決める。
マッシュはノートを片手に、胡蝶の残骸を指でなぞるように見つめた。
「出来るだけ、殺したくなるような準備でもしておこう」
その言葉を最後に、彼らは無駄のない動きで現実に立ち戻った。
幻覚が残す余韻を払い、確かな備えを積み上げる――それが今できる、最も現実的な対処だった。




