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第89話 ■■■■■の顕現 二

 どこまでが幻で、どこからが現実なのか。


 氷邑(ひむら)梅雪(ばいせつ)は海にいた。


 あまりにも濃い神威(かむい)と、その姿を見せるだけで精神を汚染する神の御業なのか。あるいは、信仰に応える神という存在が、本当に山を海に変えてしまったのか。


 曖昧な中、しかし、梅雪が感じる息苦しさだけは本物だった。


 ごぼごぼと形のいい唇から気泡が抜けていく。

 これが出なくなった時が最期だと、知識よりも本能が先に理解した。冷えていく体。抜けていく空気。この体温と息こそが自分に残されたタイムリミット。

 だけれど抵抗のしようもない。上も下もわからない宇宙のごとき水の中で、ただただもがいて終わりを待つことだけが、今の梅雪にできるすべてだった。


 さすがの梅雪も混乱し、手足で水を掻く。


 その耳に……


『声』が、届く。


「ひとつになろうよ」


 それはほんの幼い子供の声だった。


 また別の声が、届く。


「ひとつになろうよ」


 今度は老人の声だった。


「ぼくは、きみだ」

「わたしは、きみだ」

「きみは、わたしだ」

「きみは、おれだ」


 あらゆる角度から、あらゆる人間の声が届く。

 深海の重苦しい沈黙に満ちた耳に、その声だけはやけに明瞭に届いた。


 声は奇妙に頭蓋の内側を反響して、酸欠で尽きかけた意識をゆさぶる。

 そのゆさぶりのなんと心地良いことか……


 上も下もわからない真っ暗な海の中で、どんどん体温が下がっていくのを感じながら、残りわずかな息を吐き出さぬようにこらえるこの苦しみ。

 この声の言う通りにすれば、この苦しみがなくなるのがわかった。


 それどころか、もがいているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。


 そもそも──最初から自分は、海の一部であったのだ。


 脳裏によぎった考えはあまりにも唐突であった。

 だが、よぎると同時に確信がある。長年抱いていた疑問が氷解するような心地よさ。


 そう、海だった。


 海の一部だった。自分は、いや、地上にいるすべては、海から分かたれたものだった。すべてのものにとって海に還ることは喜びであり使命である。この息苦しさをすべての者が感じているのであれば、この苦しみから救うことこそが、自分が海の一部と思い出した者にとっての使命なのではないか?


 すべてを海に還そう。


 まずは、自分が海に還ろう。


 どうしようもない確信。この世の真理。すべての生き物が生まれつき持ち、しかし忘れて育つ、生命としての真の使命。

 それこそが、海への帰属。


 梅雪は、確かに、そう確信した。

 海に還るべきなのだと、強烈に思った。


 だから、


「有象無象に物申す」


 鼻で笑う。


 ごぼごぼと空気が抜ける音。

 自分の言葉はあまりにも遠く、海への帰属を薦める声が、あまりにも近い。


「なるほど人は海から産まれたのだろう。俺の知識はそれを間違いと断ずる。だが、俺の感覚は『確かに』と感じる」


 息が抜けていく。

 ここは海中。もう、息はない。


 だが、梅雪は、大きく息を吸い込んだ。


 ……もしも、ここが、ただ暗く静かなだけの海であったならば、梅雪を……その『我』を殺し得たやもしれない。


 だが、声をかけてしまった。


 海へ還れ。

 海に還ることこそが生命の使命。

 なるほどすさまじい説得力だ。梅雪は確かに納得した。そうすべきだと心の底から感じさせられたのだ。


 だから、


「生まれ持った使命がそうだから、それがなんだと言うのだ。……この俺から、『俺』を奪う気か? 最初、海で産まれようが、山で産まれようが、そんなものを持ち出して俺から簒奪(さんだつ)を試みんとするその品性、極めて許し難し」


 梅雪は、足元に地面の感触を覚える。


 暗い暗い深海の中に、風が吹く。


 それは梅雪の周囲を満たす青黒い神威の海を切り裂き、押し広げていく。


 梅雪は、胸いっぱいに息を吸う。


「磯臭いナマモノ様に申し上げる。……神だか、故郷だか、元だかなんだか知らんが……俺が生きて、俺が積み上げたものを奪おうとするなァ! 神の分際でこの俺に不敬であるぞ! どこから産まれようが! この俺の人生は! この俺の力と意思で積み上げたものだ! それを奪うなど、海だろうが、神だろうが、父であろうが! 許せるものかよ!」


 自我を侵し海への帰属を迫る『ささやき』。

 神直々の勧誘。


 だが、そんなものはクソ喰らえ。


 氷邑梅雪の我が、これを跳ね除け……


 風が、海を切り裂き、消し飛ばしていく。


 そして梅雪が見た光景は……



 ──洞穴。


 薄暗く湿ったその場所に梅雪は立っていた。


 状況確認。


 正面にはゲームで見たグラフィック通りの大辺(おおべ)がいた。

 濃紺の髪に濃紺の袴の巫女装束を身に纏った、目の細い女。

 そいつが驚きに満ちた顔で、錫杖を片手に梅雪を見ていた。


 その後方──


 死んだように暗い目をした、イバラキらしき姿があった。

 小柄な半鬼(ハーフドワーフ)の女。


 ただしゲームではいかにも山賊という風体、ざんばら髪に粗末な服の上に胴具足だけを身に着けた恰好だったというのに、今は……

 エロゲーみたいな恰好をしている。


 尻の左右が出るような細い前垂れで下半身を隠すのみ。上半身の服装から予想して、どうにも改造巫女装束なのだろうか。

 帝都騒乱の時に見た小汚さがなくなって身ぎれいにされているのも含め、恐らく大辺の趣味であろう。


「馬鹿な」


 大辺が震える声で呟く。

 梅雪は、そちらを見る。


「確かに海魔に成ったはず……! お前は、お前は私に逆らえない、醜い化け物になったじゃない! だっていうのになんで、元に戻ってるの!?」


 梅雪は現状をよくわかっていない。

 だが、大辺の言葉からおおまかなところを察し……


 嘲るように、笑った。


「はぁ~ん? 何やら頭の不出来な小物が乏しい想像力で導き出した『絶対の真実』を覆されて狼狽する様子が見えるなァ? 貴様、理解しているのか? そうやっておたおたしている間に、すでに何度もこの俺が殺さずに見逃してやっているのを。この距離で貴様ごとき、相手にもならんぞ。だというのに、俺はこうして慈悲をくれてやっている。貴様の貧困な想像力で正解を導き出してみろ」


「……余裕のつもりか?」


「百点満点で二十点だ。……というか、誰もかれもそうだが、この俺に楯突く連中というのは、社会常識というか、人間として当然のことというか、そういうのがない大人ばかりで困る。しょうがないから、愚かな貴様に優しく教えてやろう」

「……」

「貴様はこの山で俺にずいぶんと色々してくれたようだが……こうして、俺は、貴様の前にたどり着いてしまった。とくれば、貴様にはすべきことがある。ここまで言って、まだわからんか?」

「何を……」

「命乞いに決まっているだろうが」

「………………は!?」

「貴様の前に、選択肢は二つある」


 梅雪は手の中にあった剣の感触を確かめる。

 この身体、指先隅々まで万全。

 くだらない洗脳の影響もない。海ごとき、梅雪の自我を沈めるには浅すぎる──


「一つ、俺が思わず感心するような、面白い命乞いをして、楽に死ぬ道。そして」

「……」


 じり、じり、と梅雪が近寄るごとに、大辺が下がる。

 だが、梅雪は洞窟の入り口側に立っており、大辺は奥側にいた。


 大辺の背が、岩壁につく。

 梅雪は刀の間合いで足を止めた。


「この俺の計画──戦術にてイバラキと遊ぶ予定を、無能そのものの足引きでさんざんに邪魔をした罪を償うべく、苦しんで死ぬ道。どちらがいい? 俺は慈悲深いからな、選ばせてやろう。さ、面白い命乞いをしてみろ。笑えるほど無様であれば、あるいは見逃してやる可能性も……」


 梅雪はハッ、と笑い、


「……まあ、ないか。うん、貴様が選べるのは死に方だけだ。よかったな、それだけでも選べて。で、どうする?」


 追い詰められた大辺は、頬をぴくぴく痙攣させ……


 細い目を開き、叫ぶ。


「イバラキ、こいつを殺せェ!」


 深海の神威が満ちていく。

 泡立つ神威から触手が伸びる。


 梅雪は、


「なるほど。ならばお望み通り──苦しんで死ねェ!」


 嵐を纏い、応じる。


 散々な邪魔を乗り越え、ようやくここに……


酒呑童子(しゅてんどうじ)』討伐、大詰め。

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大人しく神に殺して貰えば良かったのに欲出すから…(まあ小物だし仕方ないか
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