第88話 ■■■■■の顕現 一
不意に、動きがねばついた。
氷邑梅雪は山道を駆けている。
だというのに海中を歩んでいるかのような錯覚を覚えた。
……いや、錯覚ではない、のかもしれない。
梅雪の神威を見る目には、そこらが青黒いどろどろした力に満たされているのが見えた。
それは先ほど斬り捨てた『手』が垂れ流していたものと似ていた。
しかし、質がまるで違う。神威で身を守ってなお、梅雪の神威を侵して染み入ってくるような感覚。濃さも量も違う。
梅雪の目から見て、大江山はまぎれもなく、海中と化していた。
(何が起きた?)
先ほどまでのぬるいやり口から、一気にレベルが跳ねあがりすぎている。
警戒をしつつ、駆ける足を速める。
先に行く七星家郎党どもの様子が気になったからだ。
その時、梅雪の視界の端で、海のごとき青黒い神威が、ごぼりと泡立つ。
瞬間、梅雪は回避動作をとっていた。
身を低くして避ける。
すると、梅雪の頭部があった位置を、幾本もの触手が通過したのがわかった。
それは一本一本が大人の指ほどの太さしかないものだった。
吸盤がびっしりとついた青黒い、海洋生物の足。
先ほど対応した『手』や『触腕』よりもずっとずっと細い。
だが、その存在の格が違うのが一目でわかった。
……先ほどまでのものは、『神の欠片』だった。
だが、今、この空間から湧きだしてきたものは……
神そのものだった。
「ありえん」
梅雪をして、つい驚いてしまう。
神そのものを使役するなどと、大辺ごときにできるとは到底思えないからだ。
というよりも、人の身に可能と思えない。
梅雪は確かにシナツの加護を得ている。だが、その加護の『主』はあくまでも『神』の側だ。
梅雪が扱っているシナツの力は、シナツの許可する力の一端にしかすぎない。それはシナツの指先ではなく、吐息のようなものだ。
だが、今、頭上を通り抜けた触手は、神の指先そのものである。
あまりにも濃い神威はそばにあるだけで息が詰まる。
景色が青黒い液体に満たされ、陽光がねじ曲がり差し込まなくなっている。
唐突に大江山は海となっていた。
まぎれもなく梅雪らへの害意を理由にした神性の顕現。
だが、ここまでのことを大辺ができるとは思えない。
できるとしたら、それは、
「……呼びっぱなしか、あの愚か者め!」
神を呼ぶだけ呼んで、コントロールしていない。
だから、これからの攻撃は大辺の想像力の範疇に収まらない──
……真相を知る第三者の視点から語れば。
『呼びっぱなし』。否である。
──鷲掴み。
「ッ!」
唐突に足元から湧いて来た極小の手が、梅雪の足首を軽くひっかける。
ただそれだけのことで、速力を上げた梅雪の体勢が崩れる。だが、まだ致命的ではない。まだ持ち直せる──
──触腕。
バランスを取り戻そうとした梅雪の左右から、大人の胴体よりなお太い、吸盤のついた青黒い触手が湧いてくる。
それは『叩く』ではなく、尖った足先で梅雪を貫く軌道で、右から三つ、左から三つ、とっさに跳んで避けることもできない、潜る隙間さえない密度で迫る。
梅雪が選ぶことのできるのは、『前へ進んで避ける』か『止まって避ける』かだけだ。
梅雪、『進む』ことを選択。
バランスが崩れた体を風の力で無理やりに押して、姿勢を崩したまま前へ。
だが、計算外が一つ。
風が弱い。
……失念していた、と言うのはあまりにも酷であろう。
状況の急激な変化、敵の動きの精密さの唐突な変化。これに対応しながら、周囲が深海の神威に満たされていることを意識し続け、それを加味せよというのは酷である。
そもそも梅雪の処理能力を奪う目的で、飽和的かつ波状的に攻撃が行われているのだから。
大辺ごときに神を呼び出し使役することはできない。
これは真実である。
だが……
神が操り手を自ら指名したならば?
その操り手は、梅雪を戦術的に詰みに動いている。
失念していた、失念するように仕向けられていたこと。
深海に風は吹かない。
脆弱なるヒトは、ここがとうに深海のさにわだということを思い知る。
──戦術。
兵卒が一対一で、相手より力や技術で上回る。ゆえに勝つ。
これは最上。だが、戦術家としてこれを期待するのは下の下である。
部隊が人数や装備や練度によって相手を上回り勝つ。
これもまた最上。しかしこれは経済や国力の領分である。戦術家がたとえば相手より兵力で下回る時に、ここに文句を言っても何も始まらない。
彼女の戦術は、頭が悪く、やる気がなく、優れた才能もなく、しかし相手が必ず格上という状況で、弱者から強者への力押しを成立させるためのもの。
弱兵で精鋭を力押しするためにはどうするか?
地形利用、心理利用による分断。
相手がでかい石であれば、握れるぐらいまで砕けばいい。
では、それら地形、心理などの利用を一言で述べれば、どういう表現になるか?
それ即ち、領域を形成するということ。
巫女に呼び出された神が選んだ繰り手は、領域の形成を得意とする。
風の吹かぬ深海。
想定より弱い風により加速が足らなかった梅雪は、力をいっぱいに込めて、不格好に前へ踏み出すしかなかった。
そこには、地面があるように見えた。
だが、とうにここは神のさにわ。深海の神威に満たされた場所。
土に見えるものが、土である保証などない。
踏み込んだ梅雪の足が、ばしゃりと音を立てて沈んでいく。
頭を狙った触手による刺突、足首を軽く掴む程度のことから、触腕、領域の作用、そして海に沈めるまで、四手で詰み。
梅雪であれば、神の力に頼った力押しならばどうにでもなった。
だが、今、神の力は、『相手を殺すため』ではなく、『勝つため』に振るわれている。
勝負にさえ、ならなかった。
「ご主人様──!」
ウメの声が遠くなる。
梅雪は『海』に沈んでいく。
耳に深海の音が響く。
ごぼごぼ、ごぼごぼ……
水面が、遠ざかっていった。




