第87話 『酒呑童子』討伐・海の陣 七
氷邑梅雪、『神の手』との接敵まで、残り五秒未満。
頭の中でプランが組みあがっていく。
環境──三人も横並びになればいっぱいになってしまうような山道。
路面は土であり全力で駆けると踏み込む強さに負けて沈み込む。
そこらに張り巡らされた樹の根が極めて危険。土だと思って踏み込めばその感触の違いにバランスを崩すであろう。
左右から張り出した木の枝も極めて危険。回避を誤れば、当たり所によっては取り返しのつかない被害を被る。
状況──進路上に『手』が六つ。
三人も横並びになればいっぱいになってしまう山道。しかし、中空の水たまりから湧いて出るその青黒い水かきつきの『手』は、縦軸の利用もできる。ゆえに『飛び越える』という手段も使えない。極めて邪魔。
あの『手』の質についての推測。
タコだかイカだかの足を斬り捨てた時、神の風をまとった梅雪の剣は確かに『感触』を覚えた。
空断の風の刃によってヤマタノオロチを斬り捨てた時は、あの太く巨大な首を八本まとめて斬り捨てても感触はほとんどなかった。
つまりあの手は『神の加護』が素直に通らない、なんらかの神性であると予想できる。
『手』の特性。
まずは精神汚染。
梅雪はその我の強さゆえにある性質を持つ精神的負荷には滅法強い。
これは忠義の心が強く、何かに強烈に傾倒している者──言ってしまえばすでに信仰対象がいる者もまた耐性を持つ様子だった。
ただし彦一やウメ、アシュリーなどのような比類なき忠義心が必要である。
この状況になってもまだ主家や梅雪のために命懸けになれない者は数人いた。そういった者は発狂し狂乱し、そして海の化け物に変えられている。まあ、そいつらは倒せば消えるので問題にならないが。
そして出現と同時に、あの手から『何か』の力が送られてくるのを感じた。
梅雪も『中の人』も、この剣桜鬼譚世界における、あの『手』についての知識はない。
だが梅雪は神威の流れを見る目を持っている。ゆえに青黒い手からこぼれるものが、どろどろとあたり一帯を満たし、鼻や口から入って呼吸器を侵そうとしているのが理解できた。
(おぞましい。磯臭いナマモノ風情が俺の舌に乗ろうなどと。身の程を知れ)
当然ながら神威によりカット。
さほどの消費もなく遮断できることから、この呼吸器への攻撃は弱いか、そもそも、あの『手』にとっては攻撃でさえないものと判断。
恐らく後者であろうと想定しておく。
備えるべきは、『触腕』を上回る耐久性……神の加護への耐性。
それから、あの『手』が攻撃として放つ何か。
どう見ても神に類する何かの手である。
それが『攻撃』として放つものは恐らく、予想もつかないとんでもない効果を秘めているに違いなかった。
梅雪は相手を侮らない。
だが、それでもなお──
「一切合切、問題なし」
すべて撫で斬りにするという確信のもと、刀を振るう。
梅雪の剣の動きに合わせて、氷の礫をまとった嵐が吹き荒れる。
それは水っぽい『手』に大量の穴を空け、ボロボロにしていった。
『手』は明らかに何かをしようとしていた。
だが、遅すぎて何もさせてもらえない。
もしも相手が神の力でもって、この山全域を水中としていたならば、梅雪の速さを封じ込めることが可能であった。
だが、戦いについての解像度が低い者は、状況の構築を怠る。
とにかくパワーでぶん殴ろうとするばかりで、相手の動きを奪い、攻撃の気を逸らし、戦いそのもの以外で対応力を飽和させようとし、さらに自分側に有利な状況を作り出そうという……言ってしまえば、補助と妨害を軽視し、怠るのだ。
ゆえに氷邑梅雪、『手』の四体を撫で斬りとし、礫をまとった嵐により、ボロボロに破壊することに成功。
横を見ればウメもまた抜刀術によって指を斬り落とし、『手』の破壊を完了していた。
こうして『酒呑童子』討伐一党、殿もまた問題なく■■■■■の鷲掴みへの対応を完了し──
◆
すべてにあっさりと対応された小物がいた。
そいつは臆病にして卑劣。他者を見下すことを常態とし、自分に恐怖や劣等感を覚えさせる存在を絶対に許さない。
そして、運がよかった。
運よく失敗しなかった。運よく生き延びた。
ゆえに、幸運に恵まれ続けた女は、言う。
「海神よ。我らの崇める深海に眠るお方よ。ええ、わたくしが求めましょう。すべて差し出しなさい。わたくしの気に入らぬすべてを圧し潰し、蹂躙し、すべてを私の意のままとするために」
それはただの要求だった。詠唱ではなく、神を称える祝詞でもない。
海神の信者たちが編み上げ、継承し続けた、狂った者にしか意味のわからぬ、言語のようで言語でない何かでさえない、あまりに平易な言葉であった。
しかもその顔には傲慢が浮かんでいる。
あろうことか、この女は、神に対し、『差し出せ』と要求しているのだ。
差し出せ。
「差し出せ。何もかもを、私に差し出せ。だって、私はあなたに愛されているのですから。愛ゆえに、私にすべてを捧げなさい。……海魔を使った。口髭を使った。『鷲掴み』も使った。だっていうのに、あの憎き銀髪のガキに、傷の一つさえつけられない。……ねぇ、ねぇ、ねぇ」
ごぼごぼ、ごぼごぼ、杖で床を叩き、鈴を鳴らす。
それは神に捧げる神楽の節回しではない。
ただ、苛立って手近なものに当たっているだけだ。
神に語り掛けるにはあまりにも不敬。
巫女を名乗る者としてあまりにも不埒。
だが、それでも──
「──ねぇ、なんで、この世界は私の意のままにならないの?」
この女はもはや、海神の巫女という体裁さえも、気にしていない。
幸運に恵まれ続けた女は、叫ぶ。
「私のために浮上しろ! 神よ! その庭ごと全部、私に寄越せ! 私を追い詰めるすべてを! 私を苛立たせるすべてを! 私の人生に立ちふさがる不安要素すべてを! お前の力でどうにかしろよ! 神だろ!」
……神が運命を転がす。
精神力、不適格。
神威量、不足。
幸運、低迷。
ただし、運命は幸運と出た。
もはや信者でもなんでもない、『自分の運命に立ちふさがる者はすべて神がなんとかすべきだ』と思い込んだ狂信者によって……
神性、大江山に顕現す。




