第81話 『酒呑童子』討伐・海の陣 一
七星家家臣団がうち一人は、視界の端で水たまりが発生するのを見た。
この大江山に入ってからというもの、散発的に続いている化け物の襲撃、その前兆である。
最初のうちは姿のおぞましさ、斬っても斬っても出てくるゆえのキリのなさに心が折れかけたものの……
(……私が今生きているのは、氷邑梅雪のおかげ、だよなぁ)
『性質、狂にして暴たる無能道士』という前評判は、誰でも知っている。
特に七星家においての梅雪は人気がなかった。何せ当主後継・織の元婚約者なのだ。
どこの家でもたいてい後継者というのは愛される(梅雪は例外)。織もまた七星家では愛された娘であり、わがままで小物で重要な時に重要な役割から逃げたりするのだが、その愛らしさゆえに深刻に嫌われることがない……そういう立場であった。
その織が怖がって婚約の破棄をした梅雪という存在。
七星家の姫を怖がらせたというのは、七星家に仕える者からすれば大罪である。
ゆえにこの家臣剣士もまた梅雪を嫌っており、これに従わざるを得ない状況は、腹に据えかねるところがあった。
……が。
侍大将・彦一に説かれてから考えてみたら、確かに自分が今生きているのは、梅雪が自分たちを冷静にしてくれたからであった。
この剣士、名を六原左近と言い、七星家家中ではなかなかの家柄である。
彼は六原家当主ではなく、当主子息、ようするに後継者である。
年齢は十代後半。七星家中での名家であるため、幼いころから七星家後継・織のそばで護衛として仕えてきた。それゆえに、織のことを妹のようにみなし、織が参陣するという話を聞き、自らこの『酒呑童子』討伐に志願したのである。
父には渋面をされたが、『未来の主人である織が危険地帯に行くのに、その臣たる自分が行かぬなどと不忠である』と強い発言をしてまで同行を願い出たわけである。
……その彼が籠の中で梅雪の家具にされている織の様子を見ればまた意見が変わったかもしれないが……
ともあれ、若いだけあり、他の家臣団よりも柔軟な思考をしていた。
若さゆえの真面目さで、彼は報告する。
「敵襲!」
だが、声と裏腹に、彼の動きは鈍い。
海魔というのは大したことがないヤツなのだ。
だから、彼の思考はまだ戦闘に切り替わらず、この大江山であったことを回想などしていた。
(確かにいかにも傲慢な口調だが、神威量も相当らしいし、こういった本当の戦いで冷静でいられるのは指揮官として大きな素養、か。……あるいは、織姫様の伴侶としてうまくやることも、ありえたのやも)
とはいえ、それは、もう訪れない未来である。
梅雪は後継者として指名されているし、織も今は七星家の後継となっている。
どちらかが後継者としての立場を撤回しない限りこの二人が結婚することはありえない。そして、後継者としての立場を撤回するというのは、後継者本人ではなく親が決めることだ。
(……あるいは、今回の梅雪殿の働きを上げれば、お方様が織姫様の後継を撤回し、再び縁談を……ああいや、だめだ。梅雪殿はすでに夕山様を正室に迎えている……いかな帝の血筋とはいえ、側室に置かれることになるなど七星家の沽券が許さぬか)
どうでもいいことをつらつら考えながら、彼は刀を抜いて構える。
視線は確かに水たまりを見ているし、意識は周囲に張り巡らされ、構えた刀の切っ先にもブレはない。
相手が海魔であればまったく問題のない備えである。
海魔ごときであれば。
(帝都騒乱で帝内地域も騒がしい……熚永もやらかしたし、氷邑と七星の縁を強めることは、帝内の、ひいては帝の、クサナギ大陸の安定に……)
政治に対する妄想が好きな者は存外多い。
人間は誰でも『ぼくのかんがえたさいきょうの〇〇』を妄想することが好きであり、彼もまたそういった普通の感性を持つ者であった。
その妄想の最中、水たまりの中からごぼごぼと何かが形になる。
彼は切っ先を持ち上げて、振り下ろす構えをとった。
七星家で多くの家臣に教えられている剣術(いわゆる秘伝剣術とは別物)は、片手剣の流派であった。
振り上げた刀を持つ手は利き手一つであり、もう片方の手は袖に拳まで入れるようにして顎の前あたりにおいてある。
この袖の中には金属の糸が含まれている。剣士の剣を受け止められるほど丈夫ではないが、刀の鎬を叩きながら拳の回転によって絡めとるように流すために必要な拳の保護を担っている。
七星家は剣と無手、それから槍の技術を学ぶのが家臣団専用の流派であった。
彼らは武器を持つ前にまず無手の拳法の鍛錬をし、そこで認められてからようやく武器を扱う資格を得られるといったカリキュラムで訓練をしている。
その無手の技術で主に教えるのは防御術と擒拿術……関節技、抑え込み、投げなどの技術だ。
そして防御術の中には化勁と呼ばれる技術がある。衝撃に対して合わせた部位を回転させることで受け流し、相手の体勢を崩す技術である。
七星家の剣術はこの化勁を利用し、『相手の攻撃を受け、受けることによって崩し、崩すことによって生じた隙に斬りこむ』という流れを基本術理としている。
これは、七星家家臣団の戦いの想定が『天眼行使中の主人を守る』というものであるための専守防衛思想であった。
そして攻撃には発勁と呼ばれる術理を用いる。
これは振り上げや剣を引くなどといった予備動作をなしで力を発生させる術理であり、これを極めるとどのような体勢からでも全力に近い一撃を放つことが可能になる。
もっとも、基本にして極意なので、極めるには長い修練が必要だ。
侍大将の彦一などはまったく動いているように見えぬまま大木をえぐり取ることが可能であるが、家臣団はそこまでいかず、振り上げた刀を下ろす際に力を乗せる程度の運用が限度であった。
……とはいえ、ここに連れられた家臣団は七星家の中でも上澄み。
今は梅雪により冷静さも取り戻しているので、海魔の相手であれば考え事をしていても可能である。
そもそも七星家の剣術は人型の相手を想定している。
だから海魔というのは相性がいい相手と言える。
ゆえに、
「……え?」
水たまりから湧いて出た『ソレ』が人型ではないのを見て、一瞬だけ戸惑った七星家家臣、六原左近は……
その困惑の声を最後に、積み上げた技術の一切を発揮できず──
「七星家家臣団に命ずる」
──風。
一陣の風が吹き抜けると同時、水たまりより出でて、左近を右から薙ぎ払おうとしたタコだかイカだかの足のような触手が両断される。
その触手は地面に落ち、斬られたことなどまったく気付いていないかのように跳ねていたところを、氷漬けにされとどめを刺された。
その触手にとどめを刺した『風』が告げる。
「俺に服従せよ。俺に従う彦一にではない。この俺に命をあずけよ。さすれば……」
左近は、『風』を……
声を発する者を見た。
そこにいたのは銀髪の後ろ姿。
刀を抜き、いつのまにかそこにいた……
「貴様ら全員の生還を保障してやろう」
氷邑梅雪。
籠にこもりきりで歩こうともせず、もちろん戦おうともしなかった男が、参戦する。




