第269話 耳川の退き口 三
勇者は言葉をしゃべれなかった。
ただ、すさまじい速度で学習した。
勇者には常識がなかった。
だが、一を見て十を知る力があった。人の所作から、文化の成立や礼儀作法の意味まで察する能力があった。
勇者は、その当時、『勇者』ではなかった。
勇者が大きくなったころ、勇者はどうやら、ヴィヴィアナの声を聞いたらしい。
勇者は、『本物の勇者』だった。
勇者任命の精霊ヴィヴィアナは多くの者に気まぐれに声をかけ、勇者を量産する。
そのせいで精霊に堕とされた彼女には、『本物の勇者』を任命する権限がない。彼女のやることは『命運の決定する場面で選択肢を発現させるスキルの付与』でしかない。本物の勇者は、神々が選ぶ。
そうして、神々が選んだ勇者は、各国の教会にお告げが降る。
勇者は、各国の教会がお告げを受信する、本物の勇者で……
異世界人だった。
勇者というのは、『文明のリセット機構』だ。
平和に暮らしていたところ、神様がある日、言うわけだ。『お前たちの文明は充分に円熟しました。しかし、我々神は、お前たちの文明を「これじゃない」と思いました。そういうわけで、勇者を遣わし、文明をリセットします』と。
教会は神から降る『滅びのアラート』を受信し、人々に伝え、『勇者狩り』を行わせるための組織だった。
どうにも厄介なものを抱え込んだらしい。
彼は厄介なものを抱え込むことに疲れていた。かつてやってた山賊稼業が、恵まれない境遇、報われない環境にいる同胞や、同胞でなくとも社会から排斥された者たちを集めてやっていたものだった。
それは滅ぼされた。
だからもう、厄介なものを抱え込まず、ゆるく老後を過ごそうと思っていた。そうして始めたのが、奴隷商人だ。人の御機嫌をうかがう術を連綿と継承したゴブリンたちは、実のところ、『自分がゴブリンより上だと思っている連中』の心を読む技術を身に付けている。それをうまく利用すれば奴隷商人というのは楽な仕事だった。少なくとも、彼にとっては。
だから彼は、勇者をどうするかを考えた。
捨ててしまうのが、一番いい。
勇者は自分を信じている。この世界で生きるいろは、言葉や常識に至るまで、自分に教えられたと思っている。空腹で倒れそうなところに、パンを二切れぽっち恵んだところから始まった縁の中で、勇者は、異常とも言えるほど、自分を信じ、慕っている……
曇りのない信頼。
命じられればなんでもやる、善悪という価値観のなさ。
そして、力。見るべきところなどなかったはずなのに、めきめきと、あらゆる実力がついていく。
なるほど、これは、世界を滅ぼす存在だ。
生きた厄介事。さっさと手放してしまった方がいい、呪いのような存在。
だから、手放してしまおう。いわくつきの精霊なんかを奴隷にした時と同じだ。長く在庫として抱えてもろくなことにならない。だから、さっさと手放すべきだ。それが、正しい。そうせよと、直感も言っている。
だというのに、こんなにも悩んでいる時点で、彼の中で答えは出ていた。
彼は、勇者を手放さなかった。
彼は利己的で、自分に自信があって、向上心が強くて、多少、人を見下したところがある。
だがそれは、信頼に応える仁義がない、ということを意味しない。
無垢な信頼には、庇護を以て返す。
そこにリスクだのリターンだのは、関係ない。
……もしも関係があるなら、そもそも彼は最初から奴隷商人をやっていただろう。山賊なんぞやらずに。
こちらを見下し、舐めてくる者は、信頼させるべき相手だ。
常に『下』の立場であるゴブリンにとって、敵こそこびへつらうべき相手だった。すべてを差し出しているように見せかけ、信頼を得て──その後、騙すべき相手だった。
だが、こちらを見下さず、無垢な信頼を預けてくる者は、信頼すべき相手である。
信頼し、最後まで味方すべき、相手だ。
……その果てに破滅があろうとも。無垢に尽くす、無償の信頼をおいてくる相手を、裏切るべきではない。
そのゴブリンにとって、『それ』は生きていく上での最低ラインだった。
たとえ世界が敵に回ろうとも貫き通すべき信念だった。
だから彼は、勇者とともに、世界に反旗を翻した。
『世界』というものを相手取るにはどうすればいいか、弱者の立場で考えて、実行した。
奴隷商人であったから、『まずは、奴隷を解放して回ろう』という思考になった。
奴隷というのは首輪で自由を縛られ、『主人』に服従するモノだ。
だから、不満が溜まる。首輪をつけた状態でどんなに良くしてやっても、真の忠誠など得られるはずがないことを、多くの人間はわかっていない。
最初から押し付けられた『お前たちより下』という立場の者の中に、忠誠は生まれない。
なぜなら、自分で忠誠を発見できないからだ。いくら良くされようとも、最初から決めつけられた『仕えるべき』という立場が邪魔をして、本心から仕えることなど、できない。
『現状』に対して人は、何も思わないか、反発を抱くことしかできない。
だから、演出が必要になる。『現状を打破する英雄』『奴隷という立場から解放されてなお仕えたい相手に見せる』という演出が。
勇者はそういった演出が、抜群にうまかった。
というより、本心から、無私で他者を助けていた。だから、その行動には裏がなく、その『無私』は真の無私──自分の命さえ顧みない、無償の献身だった。
彼がするのは、その無償の献身をする勇者を、『搾取対象』ではなく『英雄』に仕立て上げる演出だけだった。
演技指導など必要ない。自分の命や人生など顧みずに人助けができてしまう勇者は、天然で、勇者だった。世界の権力機構──『空気』におもねることなく、ただ成したいことを成す、英雄だった。
……その英雄を、『己を犠牲にしてでも守りたい』と思ったのは──
たぶん、山賊団を壊滅させられた過去も、無関係ではないだろう。
『今度こそ』という想いがあった気もする。
今度こそ、自分が拾い上げ、育て上げた者を、滅ぼさせない。
死の運命に捕まろうとも──生かしてみせる。
だから彼は、ある時提示された選択肢で、『死』へ続く道を選んだ。
ある王国が、『勇者の味方をしたい』と言ってきた。
これは勇者が救った人たちの心情を慮って、また、戦力について考えて、無視できない誘いだった。
だから、勇者ではなく、自分が行った。
自分がそこで、勇者にされるべきもてなしを受けて、剣と盾を受け取り……
その国の、おぞましき尖兵となった。
聖剣に蝕まれた精神で勇者と対峙したあの時、ちょうど、今のように、頭には過去を回想する余裕があった。
肉体の機能はすべて戦いに使われている。彼の人格を無視して体が動いている。だから、彼本人は、言ってしまえば暇だった。彼の『人間的』な部分は一切合切必要とされていなくて、ただ暴走して駆動し、仲間だった者を蹴散らす己のことを、どこか客観的に見ているだけだった。
結局、自分は、聖剣に操られておぞましく暴走し、仲間になっていたヴィヴィアナにとどめを刺された。
末期の一瞬、勇者に抱きかかえられ、会話する時間が、残された。
──師匠。
そういえば、そのように呼ばれていたことを思い出す。
──なんでだよ、師匠。どうして。
聖剣が人格を蝕むという情報はすでに持っているはずだろう。
だから、勇者が問うたのは、『なんで、本来は勇者が渡されるはずだった「暴走を強いる聖剣」を、代わりに受け取ったのか』という意図の質問だった。
信頼されていた。親愛も向けられていた。
気付けば勇者は、ゴブリンにとって、我が子のような存在になっていた。
だから『お前をこの剣に暴走させられたくはなかった』とか、『お前を殺すよりも、お前に殺される方がマシだった』とか、そういうことを言うべきだったのだろうが……
信頼されているから、嘘をつくことにした。
──お前と違って偽物だったけれど、俺も、かつて、勇者だったことがある。
──だから、勇者用の聖剣を持つべきは、お前じゃなくて、俺だと思った。
──その結果が、このざまだ。
なんの意味もない嘘だった。
だが、勇者は嘘を見抜く。なんの意味もない、本心ではない嘘をついたという事実は、見抜く。
見抜いた結果、今の勇者には、思考バイアスがある。
だから、
──師匠にそんなことを言わせるんだな、その聖剣は。
──そんな剣で、俺たちを操って、引き裂こうとしたんだな。
──わかったよ。もう、誰に何を言われようとも、止まらない。
──あの国は、俺が消す。
予定通り、心を操ることができた。
勇者の後ろでヴィヴィアナが笑っている。
あの性悪精霊は、人の死にざまを好むのだ。生きる選択肢を提示されてなお、それでも死の選択をする──その瞬間の『ヒトの輝き』を、あの精霊は好んだ。あえて死の道を歩む者の心理の動きを、あの精霊は何よりの甘露としていた。
悪霊め。
だが、勇者に必要な存在だ。
だから彼は最期に、勇者に祝福を、そして、ヴィヴィアナに呪いをかけることにした。
──生き残れ。
末期の最後の吐息を使って、勇者に願いをかけた。
勇者は、人の願いとともにどこまでも行く異常者だ。
だからきっと、生き残る。自分の末期の願いは、無下にされることはないだろう。
これでヴィヴィアナは、勇者が『あえて、死に続く選択』をとる姿を見ることはない。
それは自分の人生に希望と絶望をもたらしたヴィヴィアナへの、ささやかな復讐だった。
真の主人とは、誰か?
暗殺者が行動の原理、己の芯としている『尽くすべき相手』とは、誰か?
それは龍ゾン寺ではなく、今の主人である、ヴィヴィアナでもない。
そして勇者でさえないのだ。
彼は結局、彼自身の満足のために行動している。
勇者には『嘘』として述べた言葉が、後年になって──死後になって、案外、真実だったことに気付かされる。
ようするに──
彼はまだ、『主人公』の座から降りたつもりはない。
老年どころか死後になってなお、向上心は、死んではいなかったらしいのだと、彼は笑った。




