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第268話 耳川の退き口 二

 ──なんだ、この坊主は?


 聖剣に侵された精神は、いつでも彼に走馬灯を見せた。

 それは脳の過剰運動。聖剣のもたらす『一瞬に処理できる情報の膨大化』──死の瞬間、人間は時がゆっくり流れているような感覚に陥る。これを強制的に起こさせたことによる、脳に出来た『余裕』。それがとらせる回想だった。


 暗殺者(あんさつしゃ)の記憶は、いつでも壮年期から始まる。


 それまでの人生に思い返す価値があることなど、一つたりとも存在しなかった。


 小鬼(ゴブリン)の人生など、たいていがそんなものだ。価値のある思い出なんか、一つだってありはしない。ただ生まれて、生まれた瞬間、社会の底辺に組み込まれて死ぬまでコキ使われるか、山賊として活動して若くして死んでいく。


 生まれた瞬間に成功体験など一度も積めない人生を約束された種族。


 ……その中にあって、彼は比較的『成功体験』を積んで来た方ではあっただろう。


 社会の底辺の労働力として生まれた。親も、そのまた親も、そうだった。

 でもそれは、ゴブリンの中では幸せな方だった。国によっては、ゴブリンというのは『モンスターの一種』とみなされる──というか、そういう扱いをされる国の方が、多いぐらいだ。


 長く生きて、生きている間に毎日食事を摂ることが出来て、雨風をしのぐ程度の家があって、家族で暮らすことができる──それを『幸福』と言うのなら、彼の生まれた場所は、ゴブリンにとって幸福な場所だった。


 ただ、それで満足できるかどうかはまた別な話だ。


 ゴブリンにチャンスはない。ゴブリンなりのチャンスはあるが、それは、その他の種族が得ることのできるチャンスよりも、かなりみすぼらしく、みじめなものだった。


 弱く、小さく、醜い。増えやすいは、まあ、増えやすい。

 だからこそゴブリンは『誰でもできるが大変なこと』を請け負うしかなかった。生まれつきの奴隷種族。首輪など必要なく、誰かに逆らえるほど強くもないし、誰かに憐れまれるほど美しくもない。そういう生き物が、ゴブリンだった。


 ……彼は野心の強いゴブリンだった。


 そして、頭のいいゴブリンだった。


 ゴブリンの中では、力も強かったのだろう。


 間違いなく特異な個体だった。だから、あの精霊の目を惹いた。


『あなたを勇者と認めましょう。さあ、勇者よ──ゴブリンの勇者よ。その過酷な運命に立ち向かい、ゴブリンという種族を一段上に上げるのです』


 勇者を任命する権能を持つ精霊。

 ……その悪名は都市部の最底辺たるゴブリンにさえも届いていた。『死の女神』『嘲弄する者』『人を呑む湖』『歪んだ像を映し出す波紋』──数限りない異名はすべて、その存在が人の人生と運命を弄び、破滅に導くことを表していた。


 だが、当時の彼は、負けん気が強く、気性が激しいタチだった。


 ──上等じゃねぇか。ゴミみたいに死ぬぐらいなら、せいぜい、劇的に死んでやる。


 当時の彼は、湖の精霊ヴィヴィアナから唐突に勇者と認められ、その『勇者』たる者の末路を知っていたが、それを乗り越えてやると息巻いた。

 どうせクソみたいな人生だ。なら、これ以下はない。だから、やる。


 そうして彼は、『ゴブリンとしての偉業』を積み上げ、積み上げ、積み上げ……

 あらゆる理由で早死にすることが多いゴブリンの中ではかなりの年数を生きた。

 四十年。多くのゴブリンが、都市部での酷使か、山賊暮らしという環境のせいで長くとも三十代半ばには死ぬと言われていた。だが、彼は四十年生きた。


 四十年生きて、一つの大きな山賊団の頭領になり……


 その山賊団は、国軍にあっけなく滅ぼされ、『選択』を誤らなかった彼だけが生き延びた。


 彼の英雄的活躍の痕跡はこうして無に還り、ゴブリンの中ではうまくいった彼の人生は、伝説にもならずに人知れず消えていくこととなる。


 彼の人生が始まったのは、そんな時だった。


 ──なんだ、この坊主は?


 彼とその少年との出会いは本当に唐突だった。

 最初、彼はその少年をよくいる物乞いだとしか思わなかった。それは、そうだろう。ボロボロのみなり。垢じみた髪。うわごとをしゃべりながらさまよう様子は、気の触れた何かにしか思われない。


 その少年に食事を振る舞ったのは、彼の懐事情に余裕があったからに他ならない。


 山賊の頭領としての彼の人生は終わってしまったが、彼は生き延びた。

 生き延びて、奴隷商人となっていた。


 奴隷というものは大々的に取引されるものではない。

 特に、その世界の奴隷は『労働力』として雇用されることがほとんどなく、性的な意味合いも含む愛玩用であったり、あとは『生きたオットマン』としての利用であったり……ようするに、金持ちの嗜好品がほとんどだった。


 そして、人はこれを『賤業(せんぎょう)』と蔑んだ。


 ゴブリンというのは都市部の最底辺で『誰でもできるが、きつくて誰もやりたがらない労働』に従事する以外に生きていく方法がない。

 だがしかし、例外的に、人がやりたがらない賤業であるならば商人のような働きをすることも許された。


 その賤業の代表的なものが『奴隷商人』であり、彼にはそのために必要な渡りをつけること、商品を仕入れること、そして上流階級に仕える者が、見下しながら『まあ、こいつとなら取引をしてやろう』と思う程度に教養のある礼儀正しい振る舞いをすることが可能だった。


 その世界での奴隷商人というのが、精霊やエルフなどの『美しく気高い種族』を主に扱う職業だったというのもあって、奴隷を買う者は『バチ』を恐れるらしい。

 その『バチ』を薄汚いゴブリンが一身に背負ってくれるから、自分たちは綺麗なままでいられる──理解しがたいことに、そういう思い込みがあったのも、彼の商人としての道を開かせていた。


 そういった生業を行っていた時、大口の商談を終えて『商品の仕入れ』に行くところ、途中で少年を見つけ、拾った、というわけだった。


 見るべきところのない少年だった。

 ボロボロだし、美しくもなかった。


 パンを恵んでやると、何かよくわからない声を発し、何かよくわからない動作をし、一心に食べた。

 食べる様子があまりにも勢いがよかったもので、彼はもう一つパンを与えた。

 すると少年は与えられたパンにかじりつこうとして、一生懸命にその衝動を抑え、ボロボロの衣服の内側に、もらったパンをしまおうとした。


 保存して食いつなごうという思惑のある動作だった。

 知恵がある。生きて行こうという意思がある。

 食欲に耐える理性がある。


 ──獣に育てられたわけじゃなさそうだ。


 ちょうどそのころ、彼は事業拡大を狙っていて、手駒が欲しかった。

 だから彼は気まぐれに、そのボロボロの少年を手元に置いておくことにした。


 これが、『勇者』と『暗殺者』との出会いだった。

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