第27話 氷邑トモリ
『魔境』より戻って数日後。
剣聖を本格的に指名手配するための評定がようやく終わり、氷邑家において剣聖シンコウは指名手配犯となった。
剣聖シンコウ──剣の聖女。
氷邑家においては『後継者の剣の師匠役を任されたはずがその役目を途中で投げ出し、奴隷を一人さらって逃亡した』という意味でまぎれもなくその行為は犯罪的である。
だがしかし、剣聖の名声・さらに彼女がもたらす『実』には無視出来ないメリットがある。
彼女は『剣術』を配り歩いている。
剣術というのは同格の能力を持つ剣士同士の戦いでは相手を倒す決め手になりうる兵器、その設計図なのだ。もちろんしっかりした家柄の剣士には家伝の剣術があるけれど、引き出しは多い方がいい。のみならず、『相手が愛神光流を使っているのに、その配り歩かれているはずの太刀筋を知らない』という事実を避けるためにも、『全国どこでも配られているものをうちだけ配布禁止にします』という方針は示しにくい。
また、この世界は戦国モチーフである。
どこにいても電話一本で警察を呼ぶことが出来て、その警察がしっかりと被害者のための事件解決に乗り出してくれるような時代ではない。
領主大名は一応警察機関も兼ねてはいるのだが、『被害を訴え出るのに数日、訴え出られた被害を解決するために兵を差し向けるかどうか評定に数日、被害を受けた地に向かうのに数日。しかも訴え出た被害がそもそも取り沙汰されるかどうかさえ不明』というのが、この世界の『治安』である。
そういった治安の中で、『誰彼かまわず誰にでも使えるような剣術を教える存在』というのは、領内の治安維持においても高い効果を発揮する。
その効果の実際的なところは『棒さえあれば素人でも一応抵抗を試みるようになるし、術理が上手くハマれば相手を倒しうる可能性もありうる』ぐらいのものだが、『剣術をやっている俺が抵抗の意思をあらわにするぞ』という心構えがあれば未然に防げる被害というのは確かにあるのだ。
そもそも『抵抗そのものが危険な相手』へは、最初から抵抗しようがしなかろうが『皆殺し』という結果に変わりないので何をしても無駄である。
そういう訳で剣聖すなわち愛神光流を配り歩く存在を、領内で指名手配するというのは、治安、それから民心といった方面でかなり慎重にならざるを得ないことであった。
おまけに『剣聖指名手配』の発案が『あの』氷邑梅雪であるから、家臣団は全く乗り気ではなかった。
しかし奴隷を奪って逃げ、銀雪の指揮する兵を潜り抜け……
何より銀雪が『殺す』と決意したのもあり、評定はようやく動き出し、このたび正式に剣聖が氷邑領で指名手配になったと、そういう訳だった。
……梅雪もこの『評定』を見ていることを許された訳だが。
(ぶち殺すぞゴミめらがァ……!)
当然のようにキレていた。
評定というのは意見のすり合わせの場である。
また、氷邑家をはじめ大名家は武家であるのだが、帝内地域において、武家というのは長らく戦争をしていない。……つまり、『意見が分かれたら強い者が発言力を持つ』という時代性ではなく、むしろ、軽々に暴力を振るう者を『野蛮』と一段低く見る向きがあった。
このあたり、梅雪が軽んじられていた理由でもある。すぐにキレて、キレていることを看破されるような男など、話し合い・合議によって物事を決める現代の風潮から見れば『態のいいカモ』なのである。
梅雪は『中の人』によって客観的な視点を得るに至り、子供みたいにキレちらかすみっともなさ、格好悪さを学んだ身ではある。
しかし、それはそれとして、ねちねちと見下すような感じでこちらを見る視線、あからさまに『子供の癇癪には付き合えない』という理由で剣聖指名手配を渋る連中、剣聖を指名手配させないことで梅雪に対するなんらかの留飲を下げようと試みる者ども……
全て憤怒の対象であった。
梅雪は『殺す』と述べたならば必ず殺すことに決めている。
先ほど怒りを抱いた連中は氷邑家家臣である。これを片っ端から殺しては氷邑家が立ちいかなくなる。というか、多分だが、剣桜鬼譚の原作梅雪は癇癪に任せてそういうことをして氷邑家を弱体化させたんだろうなというのが分かるので、同じ蹉跌など踏んでやるものか──という思いがある。
思いがあるが、
(どうにか殺さずに分からせる方法はないものか……何、多くは望まん。ただこの俺に土下座し、永遠の忠誠を誓い、これまで俺にしでかしたことを自宅の壁じゅうに書き募って全裸で反省行脚として領内を回るぐらいで許してやってもいいのだが……)
寛大な処置のつもりであった。
『自分の怒りを収める』『氷邑家の将来を潰さない』という二点を満たす見事な折衷案である。
ただ、罰を降される者の世間体が終わる以外にはなんの問題もなかった。
そのように廊下をドカドカ──というほど足音を立てずに、ただわずかに隠しきれない怒りがこぼれる程度の歩き方をしていると、梅雪の進路上で、壁に背中をつけるように一礼をしている奴隷を発見する。
ウメだ。
ウメはいまだ奴隷身分である。なので、当主一族が廊下を通るなら、ああして頭を下げて横にどけるのが普通だ。
しかし、遠い。
梅雪があそこまで行くにはまだまだ時間がかかる。流石にこんな距離からあのようにへりくだらなくともよいのだが……
そう考えながら歩いていると、ウメが頭を下げている理由が、向こう側から歩いてくる。
それは──
妹の、はる。
…………それから。
はるの、母。
燃えるような赤毛は、氷邑家と並ぶ御三家たる熚永家の縁者である証拠。
血統で言えば梅雪の母よりずっとずっと確かな家柄の婦人である。
その婦人の燃えるように赤い目が梅雪を捉え、瞬間、眉間にシワが寄った。
「…………」
「……チッ」
気分の悪い時に気分の悪い相手に会ってしまったものだ。
(離れに引きこもるように父上から仰せつけられている女が、なぜ本邸にいる)
さりとてここから道を変えてやるのも気分が悪い。
とはいえ梅雪は位階として、はるの母が道を通るならば、ゆずらなければならない立場ではある。
進むも退くも胸糞悪い。
もう突撃でもしてやろうか──とキャパオーバーになった怒りの感情に任せて捨て鉢な選択肢がよぎったところで、いよいよ声を交わさねばならない距離まで接近し、
「梅雪殿」
「……は」
わざわざ、気に入らない女が足を止めて声をかけてきた。
梅雪は礼儀として足を止めて軽く頭を下げ、はるの母──トモリの言葉を待つ。
トモリは、
「少し、お時間をいただけませぬか。……話があります」
梅雪にとって最高にイラつく申し出をしてきた。
(斬り殺すか?)
それは積みあがった苛立ちのせいで瞬間的によぎってしまった『愚かな選択肢』ではあった。
しかしこの瞬間の梅雪にとっては紛れもなく選びうる選択肢でもあった。
……愚かだと理解していても。その先に破滅しか待っていないと分かっていても。どれほど忍耐しようと心掛けても、どうしようもなく虫の居所が悪いタイミングというのはある。
そういう時にこそ『魔が差す』訳だが。
意外なことに──
梅雪が凶行を思いとどまる理由もまた、義理の母であるトモリからもたらされた。
「あなたの母から、あなたに伝えてほしいと授かった言葉があります。……今のあなたにならば、伝えてもいいでしょう」
「……はい」
冷や水を浴びせかけられたような心地になった梅雪は、つい、検討もせず、反射的に返事をしてしまった。




