第259話 九十九州大混戦 二
これは、『やり直し』なのだろうか?
氷邑銀雪は、戦いながら、己に問いかける。
こういった無遠慮な侵略者どもへの怒り──もちろん、ある。
九十九州は特殊な地域とはいえ、クサナギ大陸の一部。そこを治める帝に仕える御三家の元当主としての使命感──もちろん、ないわけではない。
だが、自分をこの戦いに駆り立てる一番の動機は、『やり直し』なのではないかとも、思うのだ。
椿。
亡くなった、妻だ。梅雪の母にあたる女性だ。
毛利の縁者であり、本人は医師を志していた。優れた道士でもあったはずだが、彼女が道術を用いて誰かと戦うというところは、見たことがない。
彼女は生存そのものが戦いだった。
肺に『海』を抱えていた。生まれつきだ。
……稀に、あるらしい。人体には神威というものが巡っているわけだが、その神威がどこかの異界と相性がいいと、異界の特徴が神威を通して肉体に刻まれる、とかいうことが。
椿は『海』と相性が良かったようだ。
だから、『海』の異界との穴が、よりにもよって、肺に空いてしまった。
それは海神の巫女として至上の才能であるらしい──というのは、椿の死後にわかったことだけれど。
……だから、『海』は椿を目指して来た。
それを、椿はわかっていた。
だから彼女は、最期に、銀雪に謝ったのだ。
『自分のせいで、あのような大事件が起こってしまい、ごめんなさい』と。
……椿は強い女性だから、『それでも、銀雪との結婚は間違いではなかったし、身を引く気もなかった』と言ってのけた。
だが、対する自分は、どうだっただろう?
自分のせいで、と海異の責任を感じるようなことを言う椿に、何を言ってあげられただろう?
……もう、覚えていない。彼女の言葉しか、覚えていない。
自分が何を言ったのかは、遠い時間のかなたに消えてしまった。
ただただ、椿が自分を責めるのを止められなかったという感覚だけが残るのみだ。
だから。
もし、あの当時──
『どれほどの異界が襲来しても、どれほどの被害がまき散らされそうになっても、自分がすべて斬って、止める』と。その言葉を自分でも心の底から信じて述べることが出来たならば。
……きっと、椿に少しでも安心を与えてあげられた。そういう、気がする。
だからこれは、『やり直し』なのかもしれない。
過去に戻ることは出来ない。椿はすでに故人だ。
これは海異ではない。ここは氷邑領でもない。
だが、もし、ここで、まったく被害を出さずに、あの氾濫を根切りにすることが出来たならば……
(……いいや。なんにもならない。過去は、過去。今は、今。『あの時』の自分の行動は変わらないし、『あの時の自分』に、現在の自分が、遡って自信を与えることなど、出来はしない)
論理的な整合性がない、妄執だった。
それでも、『何か』があるような感触は覚えていた。
後ろに一匹たりとも通さず、連中を斬り、進む。一歩一歩前へ出るごとに、『何か』が近付いている気がする。
「でかばいせつ!」
「!」
イエヒサに呼びかけられて、戦闘の最中だというのに、思考の中に沈んでいたことを自覚する。
間一髪で、何かを避けた。
触手だった。
巨大な──
大柄な銀雪をして見上げるほど巨大な、触手の化け物が、目の前にいた。
構わず剣を振る。
だが、斬れなかった。
細かい触手を束にして、盾にされて、本体には、わずかに刃が食い込む程度の損害しか与えられなかった。
……氾濫というのは、一説によると、『その世界の中でどうしようもない天敵、あるいは世界そのものの権力構造を変える絶大なる強者が出て、それ以外が異界に押し出される現象』とも言われている。
だから基本的に、氾濫は、氾濫発生からの時間が長くなればなるほど、より強いモノが出て来るのだとか。
この見上げるほどの巨大な、触手の束のような、赤黒い生き物は、きっと、これまで蹴散らしてきた触手どもとは、格が違うのだろう。
だから、銀雪も、一刀で斬り伏せることができなかった。
……とはいえ。
「……ああ、うん、まあ、触手のようなものは、海異で出て来た連中にもあったけれど……やっぱり、違うな。これは、全然違う」
この氾濫と、あの時の海異とは、全然違う。
……当たり前だ。わかっていたことだ。
けれど、銀雪は、ようやく、言葉に出して認められるぐらいに、そう実感できた。
「過去のやり直しなんか、出来ないんだね」
──今、いくら強くとも、過去の自分が強くなれるわけではない。
「失ったものは、戻らないんだ」
──今、いくら色々なことが出来るようになっていようとも、過去に失った人は、蘇らない。
「『今、起きていること』は、『今、起きていること』でしか、ないんだね」
──今、起きている、過去と似たような事件があったとして。
それを上手く解決出来ても、過去の事件を上手く解決出来たことにはならない。
「…………そうか」
氷邑銀雪は。
……ようやく、認められた気がした。
「椿は、死んだんだ」
十年以上もかかって何を、という話だった。
とうに認めていたと、思っていた。そんな当たり前のこと、とっくにわかっていた、と思っていた。
だが、全然、わかっていなかった。
やり直しを、したかった。
出来ると、理性では思っていなかった。でも、理性じゃないところで、出来ると信じていたのだろう。
椿は死んだ。
もう、戻らない。
だから、この戦いは、なんの『やり直し』でもないし、過去の自分を慰めるための儀式でもない。
この戦いは──
「『今、生きている人々』のためのものか」
それは、自分を奮い立たせることが出来るのだろうか?
氷邑銀雪は、己のモチベーションがすべて、過去にあると思っている。
過去に根差したことこそ、自分を動かしているすべてだと思っていた。
だから、梅雪の代で家を終わらせるつもりだった。もはや、そこまでしか自分は動けないものと思っていたから。
だが、今。
銀雪は、再び、剣を振る。
巨大触手が、触手を束ねて防御をする。
先ほどはしのがれ、すでに今、本体に刃が食い込んで出来た傷さえ、治癒されている。
けれど、今の一閃、相手を真っ二つに斬り裂く。
「うん。なんだ、まだまだ私も、いけるではないか」
おじさん臭いな、と自分で思った。
……おじさんなのだ。もう、とっくに。恋した妻に先立たれたことにいつまでも浸っていられる年齢ではない。
ようやく、そのことを、心の底から認められた気がした。
「……では、さっさと片付けて、ニニギ迷宮に向かうとするか。……ああ、梅雪」
ここにいない息子を思い、銀雪は、つぶやく。
「再会したら、椿の話でもしようか。お前の知らない、お前の母親の話──迷惑かな、それとも」
過去を語るは老いたる証拠。
だが……
老いてみれば、その気持ちがようやくわかる。
銀雪は、過去の話を……
思い出話を、したかった。
今、人生で、初めて。




