第254話 九十九州大氾濫 四
「でかばいせつ!」
「……?」
何らかの方言かな? と氷邑銀雪が声のした方向を振り向けば、そこには寅柄ビキニアーマー姿の白黒頭の女の子がいた。
島津イエヒサである。
銀雪はイエヒサや島津の面々とは初対面である。かつて九十九州に来た時も、大友領以北でだいたいの用事が済んでしまったため、島津領のある九十九州の南側には行っていなかったのだ。
なので軍を率いてこちらに走って来る九十九州人など、警戒してもよかった。
だがしかし、銀雪はイエヒサとその軍に対し、刀も抜かずに接近を待った。
イエヒサも銀雪に襲い掛かることなく、
「でかばいせつ!」
「……『でかばいせつ』とは私のことかな?」
「でっかい、ばいせつ!」
「……なるほど」
大きい梅雪。
確かに息子の身長はかなり伸びたとはいえ、まだ銀雪を追い抜くには至らない。
髪は銀雪の方がだいぶ長いが、それでも親子だから容姿には似たところがある。なので、梅雪を知る者からすれば『大きい梅雪』という印象にもなるか──
「君は息子を知っているようだね。……ああ、その格好と旗印は、島津か。なるほど」
「島津イエヒサだ!」
「氷邑銀雪だ。……ところで君の目的も、アレかな?」
銀雪が肩越しに視線で示す先──
桜島。
その火口から上がる黒いモノは噴煙にも見えるかもしれない。
だが、違うのだ。あれこそはあふれ出る異界。特に魔界の濃い瘴気が混じった、紫がかった黒い神威である。
震動はだんだん強くなり、今にもその震動の原因──魔界から溢れ出した異界のモノどもが、こちらに押し寄せて来るだろう。
ここは桜島と本土とを結ぶ唯一の陸路である。
乾いた白い地面。敵が陸路を通るのであれば必ず通るその場所に、氷邑銀雪は立っていた。
イエヒサは猫の手グローブのはまった手をかざし、桜島をじっと見て、
「おおー! アレだ! アレ、すっごいびんびん来るな! あたしが追ってたのアレだったのか!」
「……」
独特な表現方法を用いる子だな、と銀雪は思った。
「でかばいせつは、なんでここに?」
「……前兆を感じたのでね」
「ぜんちょー?」
「昔、海異襲来と呼ばれるものが、地元で起こったことがある。『海』の異界との大きな穴が開いて、異界の連中が止めどなく湧き出した事件だ。……その時と同じ気配を感じたので来てみれば、これだ」
「あれ、ヤバいよな!」
「そうだね。放っておけば九十九州も無事では済まないだろう」
「そうなのか!?」
「……君はどうしてここに来たんだ?」
「なんかヤバそうな気配があったから!」
銀雪は若いお嬢さんとの会話に苦手意識を覚え始めていた。
そんな時、イエヒサの率いていた軍勢から、アシュリーぐらいの年齢の子が出て来る。
「イエヒサねーちゃん、お話、代わります」
「トヨヒサ!」
まだほっぺも赤い女の子(島津なので寅柄ビキニアーマーを着ている)が、すっとイエヒサの横に立ち、銀雪を見上げる。
その小さい女の子の目には理知的な感じがあった。
「銀雪様。お初にお目にかかります。島津一族衆末妹のトヨヒサと申します」
「……よろしく」
「イエヒサねーちゃんはこう言いたいのです。『不穏な気配があったので、気配のある場所に駆け付けた。けれど、何が不穏な気配の原因かわからなかった。それが、銀雪様のお言葉によって、明確になった。厚く御礼申し上げます』と」
「そうだそうだ!」
「……礼には及ばない。ところで、そちらはどうする? 原因の確認に来ただけであれば、戻って家に報告すべきだと思うが」
「ヤバいよな!」
「イエヒサねーちゃんはこう言いたがっています。『すでに異変は家中の者全員が感じ取っているはずで、姉たちはこの雰囲気を前になんの備えもせぬような者たちではない。それゆえに、今はこの場に残り、あれが異界の者たちの大規模侵攻であれば、ここに残ってそれを止めることこそ、真っ先に現場に駆け付けた自分ができる最高のことである』と」
「そうだな!」
「なるほど」
「銀雪様はどうなさりたいのかと、イエヒサねーちゃんがそろそろ気にします」
もうそれはトヨヒサの意見であって、イエヒサは絶対そこまで考えてなさそうだよ、と銀雪は言いたくなった。
だが体裁というものもあるのだろう。九十九州の武家は帝内地域とはちょっと違いそうな感じだが、相手の家の体裁を『話が遅いから面倒なひと手間を挟まないでくれ』と言うほど、銀雪は礼を失しないつもりだった。
「私は、アレを止める」
「どのように行うのか、方法をうかがいたいと、イエヒサねーちゃんがこの先思います」
「別に原因に干渉して異界の穴を閉じるなどということができるわけではないよ。ただ、この場に立って、来る者すべて根切りにするだけだ」
銀雪は刀を抜く。
長刀『銀舞志奈津』が、うっすらと青い輝きと冷気を帯びた刀身をあらわにした。
「私がここに立つ。ゆえに、私の後ろには一匹も通さない」
桜島の方向へ切っ先を向けるように、腰だめに刀を構える。
氷邑一刀流。槍から発したこの流派は、自分の後ろに何者をも通さない──帝の祖より『盾の』という名を賜った氷邑家、その『盾』たる術理である。
「銀雪様は恐らく九十九州の方ではないと思われますが、なぜ、九十九州の危機にそこまでなさるのでしょう? あれら異界は、稀人入管センターの先には進めないので、本土には影響が及ばないものと思われますが。……と、イエヒサねーちゃんが将来的に思うかもしれません」
「理由は二つある。一つは、まだ九十九州に用事がある。なので、アレに荒らされるのは困るんだ。そして二つ目の理由だが……」
銀雪は、目を閉じ──
──笑った。
「気に入らないんだよ。ああいうのは」
「……」
「ああ、異界からの侵略者ども。特に、前兆なく──あるいは原因はこちらにあるのかもしれないが、突然やってきて、我が物顔で人の庭を荒らしまわる狼藉者ども。……私が戦った海異とは別口のようだがね。ああいうのに、我が父の死の遠因を作られ、妻は苦しめられた。だからまあ、逆恨みだ」
トヨヒサも、イエヒサも、自然と一歩、銀雪から距離をとる。
その笑顔の後ろにたぎるのは、生々しく、それでいて冷え冷えとし、そばにいるだけで凍り付きそうなほどの冷酷な殺意と、憎悪であった。
「侵略者どもめ。私の目に映ったことを後悔しろ。──皆殺しにしてやる」
シンプルな殺意だが、そこに籠った冷たい感情は、すさまじいものがあった。
銀雪は──
周囲が怯えているのを見て、息を吐き出す。
「……まあ、だから、君たちは避難してくれていいよ。そばにいて巻き込まない自信がない」
「よくないぞ!」
誰もが恐れる銀雪に、一歩踏み込んで意見を述べるのは、イエヒサだった。
「よくない!」
「……何が?」
「一人でいたら迷子になってよくない!」
「…………」
「迷子は怖いんだぞ! だから、あたしもここにいてやるからな!」
「イエヒサねーちゃんがわけのわからないことを言ってしまって、すみません」
トヨヒサが謝罪する。
だが、銀雪は──
「なるほど」
イエヒサの言葉に、何かを見出した。
……あるいは、イエヒサはそこまで考えて言ったわけではなく、ただの妄言の類だったのかもしれないが。
銀雪は、イエヒサの言葉を受けて、思い出したのだ。
そういえば、自分は人の親だった。
……憎悪や怒りのまま刀を振るっていい立場ではない。
復讐心もある。怒りもある。逆恨みだと理解してなお、ああいう大規模侵攻には、心底イラつく。
だがしかし、それに任せてはいけないのだ。
ふと、今は亡き妻──椿のことを思い出した。
彼女が死んでから、妻の姿を思い出すことはなかった。
避けていた。何かを考えることを。何かを回想することを。何かを思って、立ち止まることを。
だから何も考えないようにし、何も行動しないようにしてきた。
どうせ氷邑は息子の代で滅ぶし、それでいいと思っていた。だから、残りの寿命をただ穏やかに浪費できればそれでいい。自分は庭に置かれた石のようになろうと、努めて何もしないようにしてきた。
だが……
親として何か誇れることを出来たか?
……何も出来ていない。
夫として何か、誇れることを出来たか?
……何も出来ていない。
したことは家を畳む準備だけだ。
家を畳む準備をしただけで息子に家督を譲り、そうして隠居して、気ままに、目標を殺すためだけに旅をした。
「確かに、迷子になるのは格好悪いな。……一つぐらい、親として誇れることをしなければ、梅雪やその子供に会わせる顔がない」
氾濫を引き受け止めるのは、誇れることではあるだろう。
だがしかし、『怒りのままに暴れました』というのと、『戦略のために役割を果たそうとしました』とか『背後にいる息子たちを守ろうとしました』というのでは、行動と結果が同じでも、誇れるかどうかがまったく違う。
……怒りのままに暴れたことはなかったが。
怒りのままに暴れていい年齢など、とっくに過ぎてしまった。
「大人の自覚を持って行動しなければならなかった。イエヒサ殿、礼を言うよ」
「? おう!」
「加えて勝手なお願いで恐縮なのだが、君たちの軍を私に率いさせてはもらえないか? 目的は同じだ。指揮系統の最上位は一つの方がいい」
「いいぞ!」
「……言っておいてなんだが、いいのか」
「なんかトシヒサねーちゃんみたいなことすんだろ!」
「……ええと」
「戦術的な動きをしたいのでしょう? とイエヒサねーちゃんは言いたがっています」
「それだ!」
「そうだね。……私が君たちを巻き込まないようにするためにも、『大量の敵』に相対するためにも、戦術と人数は、やはり必要だ。『後ろに通さない』ならば、きちんと備えなければならない」
「任すぞ! あたしはそういうの苦手だし!」
「イエヒサねーちゃんは横入りのカンは猛烈に働くのですが、防衛戦は苦手です」
「なんとなくわかるよ。……では──」
氾濫が迫る。
銀雪が改めて構え、イエヒサが横に並ぶ。
銀雪は、懐かしさを覚えた。
こうして軍を率いて戦うなど、それこそ海異襲来以来だ。
あの時はわけもわからず、父・桜雪の指示に従っていた。
だが今は……
迷子になってはいられない。
望むと望まないとに関わらず、時間は過ぎていき、人は大人になっていく。
中身が大人になっていなくても、体に流れる時間は止まらなくて、周囲は『体なりの大人さ』を望む。
それに反発して、拗ねて、いつまでも子供のままでいたいと望む人もいるだろう。
だが、銀雪は、大人になりたかった。
……すべてを失ったあの日から、前へと進みたいなと、改めて、思った。
だから、
「──一切合切、撫で斬りにしよう。九十九州を、氾濫から守るために」
怒りと憎悪を仕舞い込んで、自分に出来ることを冷静に検討する。
氷邑銀雪による九十九州防衛が、始まった。




