side 氷邑の花嫁 三
銀雪の決断にはやはり多くの反対と抵抗があった。
とても一人では乗り越えられない、こまごまとした調整もあった。
だが、そういう中で、椿という女性はやはり強力に立ち位置を確保し、人を魅了していった。
地味な苦労、無責任な噂話。礼儀作法。大名家正室、一つの大きな貴族家の奥方としての振る舞いなどは、椿の物覚えの良さと根気、それから意地──度胸がなければ、決してのりこえられなかっただろう。
「あの時の私は甘かった。君が君でなければ、到底、私たちの婚姻は成らなかっただろう。本当に感謝している」
様々な障害の果てに銀雪と椿とが夫婦となったのは、銀雪とトモリとの結婚が披露宴まで終わり、その後一年の夫婦生活を送ったのちのことになる。
それまで『厄介な居候』でしかなかった椿は、家中で人々と交わり、すっかり『奥方』として認められるまでになっていた。
先に銀雪の妻となったトモリは、これをまったく支援しなかった。
それはトモリが大人になるにつれ、『あとから来た平民女』を厄介視し始めた──というわけでは、ない。
「お姉さまであれば、成せると思っておりました」
無垢なる信頼ゆえだった。
……もう一つ理由を挙げるならば、トモリは、『熚永家の自分が後押しし銀雪の妻として認めさせる』ということをしては、椿の立ち位置が『自分のオマケ』『自分の腰巾着』というものになると理解していた。そして、敬愛する『姉』である椿がそのように扱われるのを我慢できず、そうならぬように一切の手助けをしなかった、というのがある。
もちろん信頼なくしてできぬことだ。
ともあれこうして厄介なあれこれをこなして結婚となった二人ではあったが、銀雪は巨人を征伐しに北条へと出向してもいなければ、この時点での椿は毛利家に戻ってもいない。
そもそも銀雪の成人前後で当主教育が激化していたうえ、地味な政治的活動が多すぎて北条まで出向く余裕がなかったのだ。
もっと言えば、この時点での結婚は『内縁』、銀雪の愛人扱いであり、まだ正式に氷邑家に入ったわけではなかった。
ようやく、正式に──椿を毛利に戻せたならば、正式に家中に認めさせられる。その下地が整った、という段階である。
銀雪の約束した『正室に』という誓いはまだ果たされていなかった。
だが銀雪は椿に『気休め』は言わない。
必ず暇を作って北条の巨人討伐へ向かうつもりでいた、のだが。
……想像だにしない、
否。前兆はあった問題がついに起こり、北条へ行くまでもなく、帝からの綸言をいただくだけの活躍をすることになるのだ。
氷邑湾の海異襲来である。
◆
海異襲来についてはとにかく激しい戦いであった。
海から無限に湧き出す『海神の使徒』ども。『地上を海に還す』というわけのわからない目的のために狂信的に活動する信者ども。
加えて利害関係──金や名声ではない、これも各々の狂信的な想いによる利害関係──によって海神の信者どもに協力する連中までおり、氷邑湾周辺はこの戦いによって壊滅的な打撃を受けた。
どうにか脅威を退けることに成功したものの、この戦いの中で氷邑家の当主・桜雪もまた致命傷を受け、さらになんらかの呪いによってその命を縮めることになる。
その時に海異討伐の功により、銀雪は帝から綸言を引き出すに至るのだが……
綸言を要求したのは、銀雪ではなく、父の桜雪であった。
桜雪もまた家中では椿の嫁入りにあまりいい反応を示していなかった者である。
このいかめしい、いかにも武人らしい武人がいったいどうして、帝からの綸言を引き出してくれたのか。
銀雪はその事情についてはっきりした言葉を賜ることはなかった。
だが後年になって思い返せば、『もしかして、あれが』というような言葉は聞いたように思う。それは……
「強すぎるお前には、同じように強い伴侶が必要であろう」
それは剣士として優れた才能を持つ熚永……その時すでに氷邑家に嫁入りしていたため、氷邑トモリとなっていた彼女のことかと、言われた当時は思われた。
だが後年、話の流れなどを思い返してみると、どうにも椿の方の話をしていたように思えてならないのだ。
桜雪は無口でいかめしい顔つきをした武人であり、その内心を吐露することが滅多になかった。
しかし思い返せば思い返すほど、あのいかめしい顔つきの中には、我が子を思いやる優しい心があったように思えてならない。
そうして正式に毛利家に戻った椿は、正室として氷邑家の中で采配を振るうことになる。
この時にトモリは周囲にいわゆる『高貴なる者』をつけた。
それは椿が一度毛利家から絶縁されていたことを知っていたため、椿に対しいい印象を持っていなかった者たちだ。
反対に椿は血筋があまりよくなかったり、わけありだったりといった者たちによく信奉された。
家の中を二つに割るようなことではあった。だが、トモリも椿も、そして銀雪も、これは必要だと考えていた。……どうしても、人は人を見る時に色眼鏡をかける。もともと嫌いな人、もともと不満を持つ相手の、『不満を持っていい場所』を探すため、人は目を光らせる。そうやって目を光らせる者どもが不満ある主人に仕えていてもいいことがない。だから、トモリは椿と『派閥』を分けたのである。
そうしている間に、桜雪が病で亡くなった。
銀雪はこの当時すでに十八歳であった。だが、当主として表に立つにはいかにも若い。
覚悟していたことではあるが、桜雪の死はあまりに大きな衝撃を氷邑家へともたらした。
特に、桜雪のいかにもな武人気質を好んだ人々が、『平民から女を作り、女のために桜雪に帝からの綸言を引き出させた銀雪』──いわゆる『チャラい若いやつ』と目されていた銀雪の軽さを嫌がり、家を抜けたりということもあった。
そのような動乱の中で氷邑家第一子の梅雪が誕生する。
……そして。
時を同じくして……
椿の体調が、悪化を始めていた。
◆
「わたくしの体の中には、『海』があるようなのです」
病床に伏せる椿の声はか細い。
だが、その声には芯があった。若きころよりあった芯だ。それが今、大名家の奥方となり、さらに母となり、ますます太く、強くなっていた。
死病に苦しんでいるとは思えぬほど──強くなっていた。
妻の病床の横に座る銀雪は、ただ、じっと座って、己の膝あたりで拳を握りしめていた。
触れることはできなかった。ただでさえ弱々しい彼女に触れるには、相当な気を遣うのだ。しかも今は、病床、苦しみの中にある。
苦しみの中にある妻の手をとってやることもできない。
……銀雪は、恐れているのだ。
彼女のために、繊細に力を使う『強さ』を志した。
だが、才能がなかった。……奪うべきではない命を奪ってしまうことさえ、まだまだ多かった。
その自分がたとえば、ほんの少し、軽いつもりで椿に触れて……
それがトドメになってしまったら、耐えきれない。
「わたくしの父は『海』の者でした。……先の大戦……桜雪様が亡くなられる遠因となった戦い。銀雪様は、あの戦いが、偶然、氷邑湾で起きたとお考えですか?」
「あまりしゃべらない方がいい」
「気付いておいでなのでしょう? ……あれは、わたくしを目指したものなのです。わたくしが、この領地に──ぐ、っ」
「椿」
「この領地に、災いを招いたのです」
椿の抱える病。
彼女の肺は、だんだんと、水位が上がっている。
『とある神威』の影響を受け、次第に、海水に沈んで行っているのだ。
体の中に、『ご神体』があるのだ。
目には見えないご神体。
椿の父が母に呑ませ、そのまま母を孕ませたために存在する、『海の神殿』。その欠片が、彼女の生命そのものに宿っている。
「わたくしは、この事実を発見した時点で、この領地から去るべきでした」
「椿、無理をしてしゃべるな」
「いいえ、今しかないのです。今、伝えねばならぬのです」
「……椿」
「人にはどうしようもなく、生まれ持ったものがございます。それは──それは、力であったり、しがらみであったり、です」
「……」
「けれどわたくしは、あなたの強さに甘えて、この領地から去るべきだったのに、この領地に残るという、希望を叶えることができた」
「……」
「あまりに多くのものを巻き込みました。……けれどね銀雪様。わたくし、後悔も、反省も、ございませんの。きっと、わたくしは、責めを負うべき外道なのでしょう。だって……あなたが海異を退け、わたくしを」
「椿!」
銀雪は、手を出しかけた。
だが、できなかった。
上体を起こし、汗を全身ににじませ、口から何かを──唾液ではなく、海を──吐き出しながら。
咳を噛み殺し。呼吸を命いっぱいにして。
それでも最後の言葉を遺そうとする愛しい人に、触れることができなかった。
こんな、力がこもってしまいそうな時に触れたら、それが、彼女を殺してしまいそうだったから。
「わたくしを、ここにいさせてくださったこと。本当に、嬉しかったから」
「……」
「ねぇ、ぎ、ん、せつ、様」
「…………なんだい」
「わたくしを、『ここ』にいさせてくださいませんか」
「…………」
「わたくしの、胸の中で、『海』が、広がって、おります。わたくしを、連れ戻そうと、『海』が」
「……」
「その前に、どうか。あなたの、手で。わたくしを、『ここ』に」
意味は、わかった。
何を言っているかは、わかった。
彼女が何を望んでいるかは──理解、できてしまった。
でも、嫌だった。
彼女の肺が海水に満たされて、彼女の魂が深く暗い『異海』へ連れていかれる──その前に。
我が手で。
我が力で。
彼女を、『ここ』に、留めおく。
彼女を、この手で、殺す。
『海』に殺される、その前に。
「……君を治すと約束したかった」
汗にまみれた顔で、白皙の美女が微笑んでいる。
もともと肌も白い人だった。……その色味は今、さらに、白くなっている。このままあらゆる色が抜けて、透き通って消えてしまうのではないかというほどの、白だ。
「君にどこにも行って欲しくなかった。君は……弱い僕に必要な、強い人だったから」
銀雪の手が動く。
その手が、そっと、椿に触れた。
「でも、僕もそろそろ、強くならないといけないのかも、しれないね」
もう片方の手で、椿の頭を支え……
手を握っていた手が、首に添えられる。
精一杯の力加減で、椿の首に、手を触れさせて、
「君が、好きだ」
「……」
「君と、トモリと、それから、増えた家族と。……ずっと一緒に、陽だまりの中にいたかったよ。だから、せめて──君だけは、僕らのそばで、ずっと」
彼にしてはあまりにも優しく、愛する人の、首を握った。
……苦しみはなかったらしい。一瞬で意識も命も、絶えていた。
「…………」
何かに当たり散らしたかった。
だが、できなかった。なぜなら──『最強』だから。
心のままに振る舞うことさえできない。
この不自由が──最強の男に課せられた弱さだった。
きっと、これからも、この力を押さえつけて、何も感じず、うっかりと力んだり、感情を激しく動かしたりしないように、生きていくしかないのだろう。
その人生の、一体何が──
「──大丈夫だ椿。僕は、人生に絶望なんかしないよ」
それは誓いではなく願いだった。
彼女の前では嘘も気休めも言わないように気を払った。だから、嘘の気休めを言った。
息子がいる。トモリもいる。だから、大丈夫。人生はまだまだ、幸福がある。だから、大丈夫。
大丈夫。
……大丈夫。
大丈夫──だと、思う。
銀雪は立ち上がる。
妻が死んだ。……殺した。
苦しむ妻を見かねたとはいえ、この手で殺してしまったのは事実だ。……信用できる者を呼んで、死体の世話をさせなければならない。
当主として一つの家をあずかる者だ。
悲しんでいる暇もないし──
この悲しみを慟哭にしてはならない。
それはきっと、すべてを壊してしまうから。
きっと、すべてを壊すほど──
この悲しみは、大きなものだから。
……弱い自分では、抱えきれないぐらいに。
sideでした。
明日から九章の『大戦乱孤島九十九州』を始めていきます。
なお、そろそろカクヨムに追いつきますので、投稿ペースも次第にカクヨム準拠(3日に1回)になっていくと思います。
よろしくお願いします。




