第233話 或る一つの終わり 三
ここが、二千年の旅路の終着点だ。
「────A」
梨太郎は久方ぶりに、思考が明瞭になる感覚を覚えた。
「────は」
ぼやけた視界がはっきりとしてきて、目の前には、自分の全身甲冑に良く似た、しかし色違いのものをまとった人物がいる。
その人物は……その人物の名は──
「ひ、む、ら」
誰かが、彼にそう呼びかけていたのが、聞こえた。
「ばい、せつ」
「己を見つけたか、梨太郎」
まだ幼さの残る、しかし傲慢で、風格のある声だった。
梨太郎は貼りつくような喉に唾液を流し込み、声を発する。
「氷邑、梅雪」
「そうだ。俺が、氷邑梅雪だ。……で、貴様は?」
「オレは──」
なんと名乗ろうか、考えた。
だが、笑いがこみ上げて、考えるのをやめた。
「好きに呼んでくれ。君がオレをどう呼ぼうと、オレが何か変わるわけじゃない」
「……」
「『砂漠の亡霊』『梨太郎』『マキビ』──他にもいろいろあった気がする。どれもオレだよ。……自分を証明するために、自分に一番いいキャッチフレーズをつける必要なんかないだろ。人に紹介する時には必要だけど、自分で自分を証明する時には、別に、誰かにわかりやすくする必要なんかないんだ。だって、オレの人生は、一言にまとめられるほど、短くないから」
「饒舌になったものだな」
「オレはもともと、しゃべるのは好きだよ。ただ、長らく誰かとこんなふうにしゃべってなかったから、ちょっと声の出し方を忘れちゃっただけなんだ」
「で、どうする? 俺に降るか?」
「そういえばそんなことも言われてたな……うん、答えよう」
梨太郎は、大剣を空に掲げるように振りかぶり──
「断る。……オレの戦いは結局、全部、オレのためのものだったんだ。今さら人のために戦うなんて、出来ないよ」
「では、そうして俺に剣を向けるのもまた、貴様の意思での戦いか?」
「うん」
「桜に操られ、俺と敵対したから、完遂するのか? 桜の願いを叶えるために」
「いいや、違う。オレは何も背負わない。オレは誰かのためにどこまでもは行かない。君とこうして向かい合うのは、オレの願いだ」
「どういった願いだ?」
「君が自分を『最強になる』って言ったの、響いたよ」
「……」
「でも、最強はオレだ。……君が最強になるなら、オレはいずれ立ちふさがる。なら、今でもいいだろ?」
梨太郎の気配が膨れ上がる。
それは背筋が震えるほどの圧力だった。だが、神威量が増したわけではなく、何か凄んでいるわけでもない。
二千年戦い続けた男が、自分の意思で『戦う』と決めた。
天下無双の英雄が、己の天下無双を自負して、戦うと決めた。
だからこそ膨れ上がるのは、『二千年の戦い』そのものの重み。
氷邑梅雪にとって──
紛れもなく、最強の敵が、そこにいた。
「オレはオレを一言では言えないし、言う必要もないと思ってる。でも、君に、オレのことを紹介するなら、こう言う。『天下無双』と。オレは、天下無双の梨太郎だ。最強を目指すすべての者の前に立ちふさがる──史上最強だ」
「……っは」
梅雪の口からこぼれた吐息は笑みだった。
天下無双。最強。
大抵の者が自己紹介としてその言葉を使えば、どこか空虚さがにじむ。
だが、目の前の男は、等身大、何も驕ることなく、何も誇ることなく、ただただ自然に史上最強。
梅雪は理解する。
『最強』は──
──『これ』を越えねば、名乗れない。
「……よかろう、『史上最強』。ならば踏み越えるまでよ。新たな最強として史上に名を刻むのは、この俺だ」
恐ろしい。腹の底が冷える。包み込むような圧力に足が下がりそうになる。
だが退かない。『ここ』こそ、退けない。ここで逃げれば、何も成せない。
もう少し先延ばしにすることも、きっと、出来るだろう。
『今はそんな場合じゃない』と言って辞することも、出来るだろう。
もっと戦術・戦略で梨太郎を詰んで、弱らせて、剣を突き込むことも出来るだろう。
なんの意味がある戦いだというのか。砂賊糾合事変を解決に来た総大将がこの戦いをする意味は、もはやない。梨太郎は『己』を取り戻し、桜の支配下から脱しているはずだ。だから、こうなった以上、梨太郎に背を向け、桜と戦うウメに加勢すべきであろう。そんなことは当然、わかっている。
だが、しない。
ここで決める。
「……改めて名乗ろう。我が祖、帝の祖に仕えし──」
そこまで言って、梅雪は笑った。
目の前にいるのは、帝の祖が活動を開始するよりはるか以前から存在した『最強』。
何より、もはや『自己紹介』は必要ない。
示すべきはただ一つ──
「……氷邑梅雪だ。最強になる」
「梨太郎だ。オレは負けない」
──『願い』だけで充分だ。
梅雪も剣を大上段に構える。
……静寂が、あった。
ある位階に至った者同士が、互いの命運を決する一撃を放つ一瞬前。そこには『時間の空白』と呼ぶしかない静寂が発生する。
周囲ではまだまだ戦いは続いている。激闘だ。梅雪にとっては、部下どもが命を懸けて行っている戦い。指揮官としてこれを勝利に導く義務がある。
けれど、すべてが消えていく。
もはや目の前の敵しか、意識に残らない。
間。
静けさは永遠に続くかと思われた。このまま見つめ合っているだけで、千年でも二千年でも過ぎそうなほど、互いに『攻め気』がなかった。
だが……
余人にはうかがえない『何か』をきっかけに、二人とも、前へ進む。
踏み込みは一瞬。
剣を振るのも一瞬。
然らば勝負もまた、一瞬だった。
ガギィン! と高い音が響き……
互いに交差するように背を向け合っている中、梨太郎が、ゆっくりと振り返る。
「……オレはやっぱり、史上最強だ」
そして、ベルトのバックルに触れ、それをひねるようにして──
「そして今日からは、君が、史上最強となる」
ベルトを外す。
すると全身甲冑が消え、『中身』が姿をさらす。
黒い着流しを身に着けた、長身で、細身だが筋肉質な男。
ゆるくパーマのかかったような黒髪を襟足まで伸ばし、髪がかかって片目の隠れた青年が、外したベルトのバックルを梅雪へ差し出した。
その体には、左肩から対角の腰まで、まっすぐに切創が刻まれていた。
「オレの遺志を継いで欲しいわけじゃない。ただ、オレが認める君に、長く一緒に戦った相棒を託したいんだ。……頼めるかな?」
梅雪は、振り返り……
「ふん」と鼻を鳴らした。
「そもそも、貴様の『遺志』などというものはあるまい」
手を伸ばし、ベルトのバックルを掴み、
「俺の二度に渡る勧誘を断った罪、その罰として、これは徴収する。……ありがたく思えよ、『元』史上最強。この俺が誰かの身に着けていた物を受け取ってやるなどというのは、人生で二度目だ」
一度目は、竜の仮面──尾庭博嗣の面頬である。
梨太郎は笑った。
「戦い続けるんだろ? だったら生き残れよ。長く生きたら、たまに過去を振り返れよ。……結構、いい景色が見えるからさ」
笑って……
崩れていく。
ざらざらと、黒い粒になって、無数に崩れていく。
永遠を生きる呪いの作用か。あるいは一度は桜の神威に取り込まれた影響か。
梅雪は消えていく梨太郎を見つめて──
「長く生きるに決まっているだろうが。俺はまだ十三歳だぞ」
まだ、振り返るには若すぎる。
まだまだ、進むことだけを考えていい年齢。
梅雪は受け取ったベルトを少しだけ、掲げて、崩れた天井から差し込む光に透かすようにしてから──
身に着ける。
神喰により凍蛇の変形したベルトと、梨太郎のベルト、二つのベルトが合わさり、そして……




