第225話 ワ・ライラ 六
懐かしい瑞々しさが口の中に広がった。
「梨太郎や、本当に行くのかい?」
一瞬、ここがどこだかわからなくて、周囲を見回す。
ここは──
砂漠に設置されたテントの中。
異界の神威とクサナギ大陸の神威がぶつかる影響で植物が生えなくなり、異常気象が起こり、年々砂漠は拡大していた。
つい先日まで森の深い場所だったここも、今では砂漠化してしまっている。
……異界の怨異のせいだ。
「うん、おばあさん。オレはやっぱり……許せないんだよ」
梨太郎はしゃくりしゃくりと梨を食べる。
この瑞々しく甘く、わずかに酸味もあって、それ以上にコクのある風味の果実は、砂漠における最高のごちそうだった。
食べれば寿命が千年延びるとも言われている、神仙の果実。
……実際に、そのような効果があるわけではないのだろう。
このあたりがもっともっと自然豊かだったころ、梨作りが盛んだったらしい。
おばあさんの夫──おじいさんも、若いころにはたくさんの梨を食べたそうだ。
でも、先日、死んでしまった。
……老いて、目を閉じて、『かつての豊かだった自然』を思いながら、死んでしまった。
それは異界の怨異どもがはびこるこの時代において、『良い死に方』に分類されるのかもしれない。
でも、土地の急激な砂漠化がおじいさんの寿命を縮めたように、梨太郎には思えた。異界の神威──瘴気とも呼ばれるものは、確実に、この土地に住む人たちの寿命や健康を削り取っている。
倒れていた自分を拾ってくれた、おじいさんと、おばあさん。
そして、村のみんな。
……彼らの願いは、『かつての自然豊かな村を取り戻すこと』だった。
それは怨異に奪われている。連中はこの世界に来るだけで環境を壊す。……それだけなら『どうしようもない、仕方ないこと』と思う道もあったのかもしれないけれど、連中の多くが意図して侵略に来ているのだ。許せることではなかった。……たとえ、自分の出自もまた、異界なのだとしても。
「梨太郎、恨みがお前を行かせるなら、わしは、お前を止めねばならん」
恨み? と梨太郎は目を丸くした。
そして、気付いた。確かに、『許せない』なんて出し抜けに言ったなら、それは、怨異に対する恨みで動こうとしているように思われるな、と。
だから、言葉を付け加える。
「違うよおばあさん。オレが許せないのは、オレ自身なんだ」
「……お前になんの咎があろうものかい」
「罪があるから許せないんじゃない。オレは、行動しないオレを許せないんだ。……『許せない』じゃないか。この気持ちは……うん、『落ち着かない』だ」
「……」
「ねぇ、おばあさん。オレは結構、いろんな人を助けたよね。頼まれるままに、なんとなく、人から行動原理を与えてもらって、いろんな人を助けた。……でもそれは、『自分で決めて、自分で進んだ』っていうのとは、違うと思うんだ」
「……それは、」
「良いことだと思う。自意識がどうかはともかく、結果的に人助けをしてるのは、良いことだとは、思うよ」
「……」
「でも、善悪じゃないんだ。正邪でもない。……オレは、自分で何かを決めて行動したことがない。いつでも『人のため』を理由にしてきた。それはさ、『生きてる』って言えるのかな──って思ったんだよ」
「頑固者め。つまり、どうしても行くんじゃな」
「うん」
「あの狐っ子はどうする」
「……連れては行けないなあ。あの子は、戦いに巻き込まれるべきじゃないよ。おばあさんの仕事も覚えてるんだろう? だったら、あのまま弟子にしてあげてくれないかな」
「仕方なく面倒見ておるだけじゃ。そもそも、あの狐っ子とて、異界の怨異の一種じゃろ。それを……」
「…………ああ、そうだったんだ」
梨太郎は、思い出す。
……これは過去の記憶だ。
記憶を失い倒れていた自分を、おばあさんが拾い、おじいさんが育ててくれた。
そうして困らされている村の人たちに言われるまま戦い、結果として勝ち続けた。
だが、自然環境はどうにもならなかった。
砂漠化はどんどん進んでいく。
異界の怨異が出て来る限り、環境は壊れ続ける。
だから、『生活』なんかしている暇がなかった。本気でこの砂漠化を止めて、昔の自然豊かな鳥取を取り戻したいなら、人を辞めて戦い続けなければならない。
……記憶は失われ、戦う理由も思い出せなかった。
けれど、願いだけは残っていたはずだった。
怨異を殲滅する。
異界の者を、クサナギ大陸に入れない。
……それが願いだと思い込んでいた。
けれど、違ったんだ。
「おばあさん」
過去の幻影に話しかける。
おばあさんは、あの日のままの顔で、「なんだい」と応じた。
「オレには記憶がなくってさ。幼いころのことも、生まれたころのことも、両親のことも、なんにもわからない」
「……」
「おばあさんとおじいさんのことは、親のように思っている。でもね。……あなたたちが生まれ育った故郷の景色を、オレだけは共有出来ないんだ。……故郷を共有出来ない、郷愁に共感出来ない。それがなんだか、寂しくってさ。だから……オレは、この砂漠に、あなたたちの見ていた『思い出の景色』を取り戻したいと願ったんだよ」
砂漠化、緑化。
大事な問題ではあるのだろう。成し遂げればきっと、世界中から賞賛されるような偉業ではあるのだろう。
だが、そんなことに興味はなかった。
怨異の殲滅にさえ、興味はなかった。
ただ、『故郷』を分かち合いたかった。
故郷を分かち合って、同じものを懐かしんで、同じもので胸を打たれ、同じ場所で安らぐ……
「オレは、家族になりたかったんだ。……誰かと」
その対象はあるいは、自分を拾ってくれたおじいさんとおばあさんでなくても良いのかもしれない。
ただ、どこかに『根付く』ことをしたかった。誰かの心に寄り添っている時間が欲しかった。
緑豊かな鳥取を見たい。
それが、おじいさんとおばあさんの、思い出の中の景色だから。
……願いはそんなものだった。
戦わなければ、生き残れない。
だが、戦いは目的ではない。
この戦いはもともと、孤独を埋めるために始めたものだった。
いかに優しくされても付きまとう、自分の中にしかないであろう不安。それを消し去って、胸を張って『家族だ』と言えるようになりたかった。そのために始めた、自分のための戦いだったのだ。
「神仙の果実が実る最後の場所から、オレの人生は始まった」
梨から生まれた。
……梨太郎の原初の光景は、すでに成長した肉体で見た、梨の果樹園なのだ。
「本当にすげえ感謝してるんだ。でもさ……幼いころの思い出とかはなくって、おじいさんとおばあさんが、『かつての鳥取』を懐かしんでる時とか、結構、寂しかったし、悪いとも思ってたんだ。……オレはあなたたちの本当の子供でも孫でもない。拾われた、出自も知れない、どこかの誰かなんだ──って、あなたたちは言わないけど、オレの中にはずっと、そういう気持ちがあるんだ。だからさ」
立ち上がる。
梨太郎の体にはすでに、甲冑があった。
体にぴったりフィットするようなこれは、機工甲冑。
梨太郎は『騎兵』である。甲冑に搭乗して戦う騎兵なのだ。
「オレは懐かしい気配を探しに行くんだ。……たぶんオレも怨異だからさ。同じ故郷の景色を知ってる誰かが見つかるかもしれないなーって」
懐かしい気配に会いに行きたい。
おじいさんやおばあさんの言っていた『緑豊かな鳥取』を取り戻したい。
最初の願いは複雑に絡み合うものだった。
戦いのたびに悩んだ。
でも、果てしない時間の中ですり減って、気付けば異界の気配を狩り取るという単純なことしか出来なくなっていた。
「願いって、矛盾するものをいくつも抱いたりするんだな。……そうだったよ。ようやく思い出した。ああ、でも、違うか。根底は一つなんだ。オレが叶えたいのは、たった一つの願いなんだ」
梨太郎の願い、それは、
「『故郷』が欲しい。本当の故郷でも、おじいさん、おばあさんの見た景色を実際に見て心に刻むのでもいい。オレは……前に進むために踏みしめる地面が、どんな色だったのか、知りたいんだ」




