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第221話 備中高松迷宮攻略戦 三

 ゆるりと、二つの刃が噛み合った。


 氷邑(ひむら)梅雪(ばいせつ)と、剣聖シンコウの『影』。二者がともに右剣を相手の首に向けてゆっくりと近付け、その途中で刃と刃を合わせる。


 合った瞬間、状況が弾けた。


 ほんのささいな衝撃は二者の中で瞬間的に何倍、何十倍にも増幅され、二人の動きを一気にトップギアまで引き上げる。


 右剣を弾く勢いで左突き。

 互いの切っ先と切っ先がぶつかり、また弾けるように戻っていく。


 左剣を引く勢いを乗せた袈裟懸け。

 刃と刃が互いの顔の前でぶつかった。


 梅雪が剣を下げる。

 シンコウは剣を上げる。


 梅雪の脛斬りがすかされ、シンコウの首斬りが空を滑る。

 刀に体を持って行かせて軸をずらす。ずらし、踏み、動きを止め、止めた勢いで体を回しての回転技。互いに胴を両断すべく放たれた剣がやはり中間でぶつかる。


 ぶつかった勢いで、さらなる加速。


 愛神光(あいしんひかり)流の神髄は(まろばし)である。これは一度発生した衝撃を殺さず回し続け、ひたすら加速し続ける身体操術、もしくは考え方を指したものだ。

 衝撃を殺さず体を駆け巡らせ続ける。……そうして加速させ続けた衝撃は、もしも止められれば己の肉体さえ破壊するものとなる。


 だからこそ、この衝撃を相手にぶつけるまで──


 どちらかが殺されるまで、転は止まらない。


 回転技で剣をぶつけ合い、逆回転。

 また剣をぶつけ、その勢いでまた逆回転。

 二度、三度、四度と体をひねりながら剣をぶつけ合う。あまりにも息が合っていた。剣の高さが合っていた。狙いが合っていて、まるで事前に相談した手順を踏む演武のようでさえあった。


 だがその殺意は周囲にいる者にさえ伝わるほどだ。


 ……日常において、憎悪や殺意といった強い感情を誰かに向けることは、そう多くない。

 回数は、多い者もいるだろう。だが、持続時間が、多くない。誰かを憎み続けること。誰かを殺したいと思い続けること。そのために出来ることを探し、方法を模索し、己を鍛え続けること。そんなことをする者は多くない。そもそも、出来る者が多くない。


 だが、この二人は、そうした。


 互いに互いを殺したかった。

 互いに互いを想い続けた。


 殺意という名の感情における両想い。神なる天才・氷邑梅雪と、神を殺すことを願い続けた天才・シンコウ。二人が今、死してなお変わらぬ殺意を交わし合う。


 演武のような戦いは次のフェイズへ突入していた。


 第一のフェイズ、細かい動きの確認。

 第二のフェイズ、加速力の確認。


 動きの精彩、そして衝撃をどれだけ加速に回せるかという二つの段階で互角を確かめ合った二人が到達する第三のフェイズ──


『力のぶつけ合い』が始まる。


 その時、愛神光流の達人同士の戦いに、『音』が生じた。


 二人の戦いは動きの激しさからは想像もつかないほど静かだったのだ。目を閉じてしまえば目の前に誰もいないのではないかというぐらい、静かだった。それは、音が鳴る余地もないほど、互いに互いの発生させた衝撃を無駄なく加速に回すことが出来ていたからだ。


 だがここからは違う。回した力を派手に放出し、相手の剣を、あるいは体を叩き、その衝撃で相手の確保した『加速』を殺す、力のぶつけ合いのフェイズ。

 激しく音が鳴るのは、加速を奪われているということ。

 互いに派手な音を立てて剣をぶつけ合うこのフェイズ──


 もしも後れをとれば、取り返しがつかないほど、相手との速度に差が出来る。


「影よ」


 一歩間違えば死ぬ。確実な死が次々に顔の横を通り抜け、剣風となって髪を揺らす。

 梅雪は、呼吸さえ丁寧に調整しなければならないこの状況で、剣聖の影に話しかけるという暴挙に出ていた。


「剣聖の影よ。……貴様は口も利けぬ死者となり果てた。この俺は確かに勝利したのだ。だが、桜の影となり、こうして何度も俺の目の前に現れる──」


 梅雪は楽し気に笑って、


「──いい加減、うんざりだ。ここで終わらせてやる」


 顔とは裏腹の言葉を放った。


 剣聖の影は答えない。

 その姿は、その顔は、のっぺりとしたもの。鼻も目も口もない。『死人に口無し』──死人は感情や意思をあらわにすることなど出来ない。


 だが、梅雪には、剣聖の声が聞こえていた。


 ──あなたを、斬りたい。


 それは殺意(あい)の告白だった。

 生前から一貫して話の通じない女だ。自分の願望を述べること以外に興味がない社会不適合者。

 己の望みに正直過ぎて、それ以外には興味を示さなかった女。


 その女が、死してなお望むのだ。


『あなたを、斬りたい』


 死してなお遺るもの。

 それは怨念である。

 だが、憎悪ではなかった。


 ある意味で永遠の生を手に入れた剣聖の願い。

 言葉を失い、表現力を失い、それでも雄弁に語られる願い。


 それはもはや、愛でしかなかった。


 剣が踊る。


 激しい金属音と火花が散った。

 それはまばゆく、暗闇の迷宮を照らす。


 火花のひとひらひとひらに、互いの修練の日々が映し出されるようだった。


 合わせた剣が重い。互いに勢いを殺そうとし、しかし、殺し切れずに加速していく。

 だが、削られている。……愛神光流の戦いは衝撃の回し合い。もはや減じているのが自分の勢いなのか、相手の勢いなのか、互いの力が互いの体の中を絶え間なく流れるこの状況では、本人たちさえもわからなかった。


 二人は力を回し続ける。


 失敗はなかった。疲労はなかった。

 相手の失敗を待つとか、道術で不意を突くとか、もしくは環境を利用するとか──そういうことに、興味はなかった。


 これは剣術の比べ合いだ。

 結果として死ぬだけで、殺し合いではなかった。


 シンコウの唐竹割を、梅雪は左剣の鎬をこするようにして滑らせた。

 滑ってズレたはずの剣が、梅雪の右肩に迫る。


 光断(ひかりたち)──


 それも、体ごと宙返りするような派手な衝撃の返却ではない。

 体の中を回し、最小の動作で、最大の一撃を返す、光断の完成形。


 幼いころの梅雪から左腕を奪った一撃が、今、右腕に迫っている。


 その剣を梅雪は肩で受け、


「喜べ剣聖──」


 受けた衝撃を──攻撃にどうしても混ざる神威を、その身で回し、


「──これは、貴様のための技だ」


 右肩を後ろ引くように回転しながら、左右二刀で剣聖の腹部を、断つ。


 ──聖断(ひじりたち)


 剣聖との殺し合いの中で、剣聖にあって、自分にないものを見つめた。

 同時に、自分にあって、剣聖にないものも、探した。


 身体操術のセンス、剣聖がやや上。

 目の良さ、剣聖がやや上。


 剣士でもないくせに。道士でもないくせに。なんの才能もないくせに、自分を上回る女。

 ハラワタ煮えくり返る思いだった。当時の梅雪は、己より上である者を許せなかった。己より上である要素を細かく洗い出していく作業は、己に発狂を強いる苦行だった。


 その苦行を超えたからこそ、わかったことがある。


「俺は神威操作において、貴様より上だ、剣聖」


 技量、覚悟、経験。

 劣りに劣っていた。何も勝てる要素を見つけられなかった。

 いや、見つけようとするたびに、『相手の方が優れている点』ばかりが視界の中に立ちふさがった。


 いつもそうだった。

 自分に自信がなかったから、相手の優れている点ばかりが見えた。見えてしまうと、我慢ならなかった。自分が劣っているという事実を受け止めるだけの(はら)の深さがなかった。


 だが、努力とは、己の足らぬを認めるところから始まる。


 そうして、努力を続けるうちに……


 自分の優れたるところを、発見出来た。


 梅雪は剣を振り切った姿勢で剣聖を見る。

 見えているのは、後姿。技の中で回転し、剣聖の胴を断ちながら彼女の背後に立っていた。


 その背中は、細い。

 今となっては、小さい。


 迷惑な女だった。

 厄介な女だった。

 十歳児に欲情する救いようのない女だった。


 だが、今、振り返れば、こう思う。


「……貴様には、様々なことを教わった。貴様の狼藉なかりせば、俺は恐らく……ここまで昇ることはなかった。この俺の向上心を支え続け、この俺に他者の優れたる点を呑ませ、己の優れたる点に気付く肚の深さを与えたのは、貴様だった」


 思い出補正で美化をしているかもしれない。

 だが、言葉にしてみると、嘘も誇張もないように思えた。


「さらばだ剣聖。安心して地獄に堕ちろ。貴様のすべて、この俺が受け継いだ」


 ざらざらと剣聖の影が崩れて消えていく。

 最後に影は梅雪を振り返った。

 やはり表情はわからない。桜の影となった彼女には、『口無し』──表現手段がないのだ。


 だが、やはり、梅雪にはわかってしまった。


「救いようのない変質者め。……地獄に堕ちろと言われて、なぜ笑う」


 ふん、と鼻を鳴らす。

 梅雪が刀を納めるころ、周囲の襲撃も片付いていた。


「生まれは変えられない。変えられるのは生き方だけ、か」


 梅雪はつぶやく。

 果たしてその考えは、誰を見ているうちに思いついたものであったのか?


 剣士でも道士でも騎兵でもない、村娘としか呼べぬ身に生まれ、迷宮の露払いとして短い生涯を終えるはずだった女。


 ……それが剣聖と呼ばれるようになるには、生まれに依らない生き方が──


「……くだらん感傷だな。俺の生き方は俺が見出し、俺が決めた」


 鼻で笑ったのは、剣聖のことか、それとも、死者を美化しようとしすぎる、感傷に浸る己の心か。


「ご主人様」


 ウメが横に並ぶ。

 梅雪は口の端を吊り上げるように笑った。


「剣聖は殺した。もう出ない。……行くぞ。桜の首を獲る」


 歩き出す。

 発言に根拠はないが、確信があった。


 剣聖シンコウ──


 これにて完全に、殺害を完了した。

 二度と会うこともないだろう、と。

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