第208話 ワ・ライラ 二
「熚永家のしたことは、許されることではない」
呼び出し、二人きりになったところで七星彦一はそう切り出した。
あまりにも単刀直入である。あまりにも直球である。
鳥取砂漠の夜は昼とうってかわって空気が澄んでいるものだから、遠く、本陣を照らす篝火の明かりがここまで届く。
その中で腕を組んでいかめしい、獅子のような顔でそんなことを言うものだから──
ヨイチは、つい、笑ってしまった。
『お前は相変わらずだな、彦一』だなんて、言いそうになってしまった。
この幼馴染が幼いころからずっと変わらず、まっすぐで不器用で、強面のくせに人一倍繊細で、頼られるくせに自分に自信がない、そういうところまでずっとずっと変わらないことに、嬉しさのあまり吹き出しそうになってしまったのだ。
……けれど、思い出すことができた。
今、自分は『ヨイチ』であって、熚永平秀ではない。
熚永家は滅んだのだ。最後の当主平秀の死と同時に。
だから顔を抑えて、そこにある竜の仮面の感触を確かめ、ヨイチはこう答えた。
「まったくもって仰せの通りにて。熚永家の悪逆、許されることではございません。我が主人・梅雪も、あの謀反については大層な怒りを──」
「そうではないッ! ……そうではないのだ。私の言いたかったことは、そうではなく……」
「……」
「謀反、これは許されることではない。帝がお心を痛められているのは、私もわかっている。氷邑家の梅雪様のお怒りも、ごもっともだ。だが……私の知る熚永平秀は、ただの乱心、虚栄心、思い込みで、あのようなことをする男ではない。私は、平秀にも、あいつなりの考えと……事情があったものと、思っている」
「……ふ」
本当に不器用で実直な男だった。
謀反が許されるべきではない──というのは、紛れもなく彦一の本心なのであろう。
だがしかし、それはそれとして、平秀という男にも事情や彼なりの考えが……
『物語』があったのだと。
自分は信じている。自分は、そう考えている。
自分は……他の誰もがお前を責めようとも、自分は、そこに事情があったことをわかっている。きっと、事情があったものと、信じたいと考えている──
彦一の言葉はこういう意味なのだ。
こういう意味の言葉を、『平秀だということがわかっているが、平秀だとおおっぴらには言えない相手』を前に、こう言うしかないのだ。
もっと他にやりようがあった。
そもそも、言葉にして直接伝えるというのは、悪手であろう。
だが、そうせずにはいられなかった。
それが七星彦一という男なのだ。
ヨイチは、
「……彦一様。鳥取砂漠の夜には、死した者の亡霊が出ると言います」
「…………うん?」
「これからあなたが見るのは、『亡霊』ということで、一つ」
仮面を外した。
……もちろん、驚きはない。
仮面の下の顔が平秀であったことへの、驚きはない。
けれど、彦一は、こんな言葉を口から滑らせた。
「……お前が『お役目』をゆるがせにするとは思わなかった」
平秀は笑う。
「確かに正体を隠すことは主命なれど……お前な、このような場所に呼び出して、あの奥歯に物が挟まったような言葉をかけておいて、それで『正体を隠したまま別れよう』というのは無理のある話だぞ」
「……むぅ」
「それに私は、それほど杓子定規でもない。主命とはいえ、必要性を感じれば、言葉の通りに従うばかりではないさ」
「嘘を言え! 若いころのお前は、私以上に杓子定規であったぞ! 私は未だにお前と『平正眼』でもめたことを忘れていない!」
平正眼というのは、剣の構えの一つだ。
七星彦一の得物は鉄鞭であるが、どの武家の子も基本として剣術はやる。
そういう時には様々な構えを教わるのだが……
平正眼。
これはいわゆる中段構えの一種であり、通常の正眼が『刃を相手の方へ向けて構える』のに対し、平正眼は刃を寝かせる、すなわち平突きがやりやすい構えである。
で、これの何で揉めたかと言えば……
「お前は『平正眼は突きを出す構えなのだから、左足はもっと下げて、体は半身に近くすべし』と言っていたな、平秀」
「ああ」
「私は『突きを出す構えとはいえ、即座に他の剣筋も出来る構えなのだから、あまり左足は下げず、体の正面を相手にしっかり向けるべし』と主張し……二人ともに譲らなかった」
「……ああ」
「ところがだ! 当時の熚永家の剣術の師匠に言われた途端、ころりと主義を変えおって!」
「結果的にお前に和同したのだから、構うまいよ」
「それまでさんざん理詰めでねちねちねちねち、嫌味にこちらの陥穽を責めて来た男が! 師匠の一言でころりと意見を変え、『これまでずっとそう信じておりました』みたいな態度をとって、構わんわけがあるか! なんだったのだ! 我々がそれまでにしていた、平正眼にまつわるやりとりは!?」
「そもそも、剣の話なのだから、剣の師に言われたならば、それに合わせるのが当然と考える」
「それまで『熚永家は伝統的にこのような平正眼である』と言っていたお前が言っていいことではなかろう!」
「伝統は変わるものだ」
「それだけではないぞ! 武芸のみならず、歴史、軍略、煎餅の食べ方に至るまで! それまで私とさんざん激論を交わしておきながら、上の者に言われればすぐにころっと変えて、しかも! 変えたことさえ覚えていないかのような、『最初からこうだった』というような態度! 幾度私がその態度に曰く言い難い感情を覚えたか!」
「武士として目上の方に従うのは当然だ」
「受け入れるまでが早すぎるのだお前は! 私に言われた時には何一つ変えなかったくせに!」
「なんだ、気にしているのは『そこ』か?」
「『そこ』だけではないが! ……ああ、思い出したぞ平秀。お前は本当に、いけ好かない男であった!」
「そう言われてしまうと、こちらもお前のことは、声が大きいカタブツだと思っていた」
「何を!」
「事実であろう」
彦一と平秀はにらみ合い──
それから、どちらともなく、笑った。
彦一が、夜空に向けて声を発する。
「……懐かしい日々であるな」
「そのようだ。……やれやれ、こうまで懐かしいとは。まだまだ若輩者だと思っていたが、やはり私も歳をとっているということか」
「あの日々から二十年以上、もう、三十年か? ……三十年。言葉にしてみても、いまだに実感がない。だが振り返れば確実に、変化は起きている。お家は様々なところで世代交代が起こり、織様は嫁へ行き、そして……」
「熚永家は消え失せた、と」
「……お前は昔からそうやって、皮肉気に笑う男だったな。思い出したぞ」
平秀も夜空を見上げた。
そして、笑って、目を閉じた。
「私は変わった。……熚永家の滅びを待つまでもなく。伝統と歴史に信念を譲り渡し、それまで激しくこだわり続けたことも、『上』に言われればあっさりと変え──気付けば、最初にどのような自分として生きていたのかも思い出せなくなっていた」
「……」
「悪いことだとは思わん。時代によっては、それが最適な『武士の在り様』であった。ただ、そういう時代ではなかった。……否。そういう時代ではなくされてしまったと言うべきか」
「氷邑梅雪様」
「左様。……彦一。自信をもって言おう。私は何も間違えていなかった。帝へ現状を訴え、氷邑家の悪行を世間にしらしめ、この『悪』を討つべく兵を興した時でさえ、何も間違えていなかった」
「……」
「だが、私の『正解』が古びていた。……どうにもこの世はな、絶対なる存在が『正解』『不正解』を判断してくださり、正解である者に加護をお与えくださるといった性質のものではないのだ。熚永家で教育を受けていたころの私は間違いなく熚永家的正解であった。だがそれは、この時代の正解ではなかった。それだけだ」
「やれやれだ。困った世の中になったものよ」
「最初からこの世はそういう世の中だった。……硬直的な『忠義』。『伝統』『歴史』。そういった基準で私は正解し続けていたが、それだけだった。そして、自分自身で正解を求め、周囲から何を言われようとも確信し、反対があっても振り切って生きねばならぬ瞬間を超え──その瞬間に失敗した経験を経てもやはり、『自分自身で正解を見出す』ということは、出来そうにもない」
「……そうか」
「人はな、『正解を見出せる者』と『見出せない者』がいる。そして、見出せない我らは……『正解を見出せる誰か』を信じるしかない」
「……」
「信じる相手を誤らぬことが、我々に出来る唯一のことだ」
「それが、氷邑梅雪様だと?」
「わからん」
「……わからんのか」
「何一つ確信など出来るものかよ。それでも我らは生きていくしかない。だからな。気持ちよく死ねる場所を選んだつもりでいる」
「……」
「彦一、この時代はな、死なぬと思っていたものが死ぬぞ。たとえば、熚永家のように」
「……」
「だから、満足して死のう。熚永平秀は──死して家のすべてを守った。『家の存続』を手放し、家族や親族を守った。これは素晴らしい死にざまだ。そして」
平秀は竜の仮面を被る。
ヨイチに戻った彼は、七星家侍大将彦一へ、
「今の私は、氾濫を射抜くことに、命を懸けると決めております。……そしてもう一つ。我が矢がこれを滅すること適わずとも、我が一矢が必ずやその目的を成す者の助けになるよう、そのために命を懸けるのです」
「……」
「先ほどから難しい顔をして黙り込んでしまわれておりますな」
「……幼きころ、若きころ、私はただ、主命に従い、言われるがまま、教育されたままに振る舞えばよかった。だが侍大将になり……己で考えて決めねばならぬ局面が増え、そうしていった『決断』の影響が大きい立場に立たされている」
「……」
「口も重くなろうというものだ。迂闊に放った言の葉が、若者の『その後』を決めてしまうのだから」
「『正解を見出せる者』であれば、ある種の『確信』に基づいて言葉を発し、それに自信を持てるのでしょうな」
「で、あろうな。……確信、確信か。最近はそういった、ゆるがぬ感触を覚えることも乏しくなった。何かをしたあと、言ったあと……己の言行のあとに必ず、『もう少しうまい言い方があったのではないか』『もっと適したやりようがあったのではないか』という後悔が付きまとう。付きまとった後悔は、その後、結局、何が正解だったのかわからず……『後悔』のまま、己の中に積み重なり、ある時、唐突に脳髄に反響する。眠る前とかにな」
「ふと、思い出してね」
「そうだ! ……ああ、歳も立場も重ねたくはないものだが。そうも言ってられん」
「立場もありますからな。家族も、いるでしょう」
「そうだな。……いや、まあ、その、妻はおらんのだが……」
「…………七星家侍大将、七星彦一殿」
「いや、その、なんだ。血を継ぐのが重要なのはわかっているが、家臣どもへの責任にさえこうして悩まされる日々なのだ。妻や子は……重くてな」
「その前には『未だ未熟の身で精進の必要があり、家庭を持っている余裕はない』と言っていたような」
「その話は『ヨイチ』の知るはずのないものだぞ」
「失礼。風の噂で聞いたのでしょう」
「ぐぬぅ……!」
歯を食いしばりうなっていた彦一が──
不意に、剣呑な顔で、砂丘の向こう側を見る。
同時、ヨイチも同じ方向を見て……
「彦一様」
「ああ」
同時、本陣側へと駆け出した。
直後、砂丘の夜を斬り裂き、真っ赤な何かが現れる。
空から飛来するそれは、気の早い太陽のようだった。
だが違う。小さい。鳥ほどに小さくはなくとも、天体と述べるにはあまりにも小さく……
『それ』が飛翔しながらベルトのバックルにキビダンゴを食わせる。
一つ、
『バックン!』
二つ、
『バックン!』
三つ──
『バックン! マンプクゥ! チョーサイコォー!』
そして、
『最終奥義』
真っ赤なそれが──『キジ形態』になったそれが、翼を広げ、飛翔しながら、弓を構えた。
数百年前、卑怯者の兵器とされた弓。
だが、二千年前から戦い続ける梨太郎にとって、そんな価値観は意味がない。
ゆえにキジフォームの梨太郎は、空を飛び、弓矢を放つ。
その弓矢の、最大の一撃が──
氷邑梅雪の陣幕に向けて、放たれた。