第179話 熚永平秀の乱・七
(私は、どうすべきか)
熚永平秀は、静まり返った本陣にて考える。
赤い瞳を向ける先には、篝火でかすかに照らされ、夜の闇の中に浮かび上がる武家屋敷があった。
氷邑領都屋敷──
戦の『本陣』として、ここまで主戦場が目と鼻の先にあるというのも珍しい。互いに本陣の位置が近すぎるこの戦い、今にして思えば『誘われている』ようにしか思えなかった。
(なんの疑問もなかったわけではない。なんの危機感もなかったわけではない。氷邑家を侮っていたということもない。だが、どこかで、勝つことを前提に──自分たちが負けるわけがないという思い込みがあった)
敗北するつもりで戦をする者などいない。
勝利することが家のために必要であったし、それを成し得るだけの軍、個人が熚永家にはまだ存在した。
第一、当主大名が家臣の力を信じずにどうするというのか? 不退転の覚悟で挑んだ決戦である。負けの可能性など検討しても仕方がない──と人に言われたのであれば、『確かに、その通り』と述べるであろう。
ただし、今になって、平秀はこうも思うのだ。
(私のやりようによっては、こうまで惨い戦にはならなかったはずだ)
たとえば……
先手大将が討ち死にしたという報を受けた時点で自分が出ていれば、きっと、先手部隊は同士討ちなどというわけのわからないことにはならなかったのではないか。
南の坂の部隊からの音信が途絶えた時点でそちらに自分を含めた増援を送っていれば、あるいは今なお音信不通であり、向かわせた増援部隊の音信まで途絶える、なんていうことにはならなかったのではないか。
隠密頭たちを向かわせた氷邑領都北東の林。思えば隠密頭は弓に対するこだわりが強い人であった。あれに任せず、自分が弓を持って出向けば、今頃、氷邑梅雪の狙撃が成っていたのではないか──
(教本を基に考えれば、私の采配に大きな瑕疵はなかった)
大将が戦場近くの本陣で控えて情報収集に大きなラグがない状態を維持し、それぞれに指揮権を持つ必殺の人材を揃え、多数方向から攻めかかる。
それぞれの部隊も人数が少なすぎるということもなく、人材が弱いということもなかった。軍事教本に則って、家臣も交えた軍議で導き出した、『正解』の采配である。
瑕疵はなかった。絶対に。
完璧であった。開祖にも誇れるほどに。
だが、平秀はこう思う。
(そもそも、我々の『完璧』が古かった。我々の戦争は開祖の時代から進んでいなかった。クサナギ大陸統一のための、土地をとる戦のつもりでいた。だが、相手の戦は……本陣に軍を招き入れ、時に門を捨てるような動きをし……人材削りを優先している。我々が『占領戦』のつもりで軍を動かしている中、相手は『殲滅戦』のつもりで軍を動かしており……これは、相手の認識する通りの殲滅戦であった)
熚永は、帝への忠義をこそ旨とする。
忠義の形はいろいろとあろう。熚永の忠義は『忠実』であり、『絶対服従』である。
軍事が盛んであった時代、頭たる帝の祖の命令にいちいち疑義を呈さず、その戦の善悪可否を問わずただただ従うという即断力が重要であった。
帝の祖の軍事は電光石火。神速の用兵と常識にない戦術によって数々の軍を蹂躙した。
それまでの『軍は平地を走らせるもの』という常識を覆した鵯越えに代表されるように、帝の祖の軍略は戦場においてリアルタイムで生み出される前衛芸術だった。祖の時代の熚永は、この戦場芸術家が勝利を描くための道具に徹すればよかった。そうして成功した。
だが、現代……
(否。否、否。時代ではない。私の問題だ。立場の問題だ。私は、帝の忠実なる家臣。しかし……私は、一つの家の当主であった。ならば、過去に正解を求めるべきではなかったのだ。目的の整理、立ち位置の認識、そのための最適解の創造。私がすべきはそれであった。……家臣とともに家を盛り立てるのだから、家臣とよく話し合って重大な決定をすべき──では、なかった。独断が必要であった。家のために『不正解』を呑ませ、そのために家臣や家中から蛇蝎の如く忌み嫌われようとも、誰に理解をされずとも、真実、家のためになる独断が必要であったのだ)
それをする、勇気がなかった。
……あるいは、熱意がなかった。
過去を繰り返しているだけでいつか認めてもらえる、だなんて夢が、いつの間にか心の根に巣食っていた。
忠義という甘い夢に酔っていた。
己で何かを生み出す覚悟。
誰の理解も必要としない確信。
現代、未来において誰にも認められなくても、自分の独断が家を存続させればそれでよしとする勇気。
足りないものだらけであった。
(……ああ、熚永は、滅ぶのだな)
戦況がどれほど相手有利に傾こうとも、どこか信じ切れなかった未来予想図が、今、不意に、腑に落ちた。
熚永は滅ぶ。
熚永平秀は、敗軍の将となる。
同格たる御三家の氷邑に戦争を仕掛け、帝へ反旗を翻した逆賊として名を遺す。
(もう、何も間に合わない。気付くべきであった。だが、私を含め、誰一人として気付かなかった。熚永の敗因は……アカリを嫌うあまり、新進の者をすべて忌み嫌い、新しいものを──過去に類のないものを発することのできぬ空気を蔓延させてしまったことにある、か)
必要なものは、反省による停滞と後退ではなかった。
アカリよりも新しくという気概であったのだ。
平秀は──
「く……」
顔をうつむけ、肩を震わせ、
「く、ふ、ふ、ふ」
次第に全身を揺らすようにしながら、
「ふ、は、はは、ははは、はははははは……!」
笑った。
剣聖の投入から奇妙に静まり返っていた本陣。
そこにいる者どもの注目が、平秀に集まる。
平秀は後ろに撫でつけた赤毛をぐしゃりと握りながら、体を揺らし、笑う。
周囲の目が『敗色濃厚を感じ取って気でも狂ったか』という疑いを帯びてきたころ……
平秀は、空を見上げるように胸を反らせた。
その赤い瞳には理性のきらめきがあり……
覚悟の炎が灯っていた。
「各々方」
本陣に残されたものたちへ、声をかける。
首脳たる老人がいた。
手柄を挙げる資格なしとされた若輩、弱卒がいた。
これは総力戦であった。だから、末端の一兵すべてに至るまですべてが戦に駆り出されている。
最終的には総力でもって突撃。たとえ討ち死にしたとて熚永の忠義を帝に示す──否。命を賭して忠義を示すというつもりで、すべての兵が集められていた。
平秀は、彼らに告げる。
「三十歳を下回る者に告ぐ。逃げよ。この戦、熚永の敗北である。……我らは悪逆の賊となるであろう。ゆえに、熚永であったことを忘れ、逃げよ。ただ身命と家族の無事のみを使命とし、落ち延び、泥をすすっても、道草を食んでも、なんとしても生き延び、天寿をまっとうするのだ」
その命令は、歓迎されなかった。
覚悟を決めてここにいる。……誰もが『家のために悪逆たる氷邑を倒す、倒せずとも華々しく散る』というためにここにいるのだ。
その道は、
「ここで死ぬること、生き延びることよりも楽であろう。ゆえにこそ厳命する。逃げよ。……二十代というのはな、なかなかどうして、やり直しが利く年齢だぞ。もはや家とともに滅びる以外に道はなし──などというのは甘えにしかすぎん。貴様らに熚永家を背負う必要もなく、資格もなく、責務もない。ゆえに、逃げて、やり直して、新しい人生を生き切れと命ずる」
納得を得られている気配はなかった。
明らかな不満が、命じられた者たちの目には浮かんでいる。
ゆえに熚永平秀──
刀を抜いた。
平秀がもっとも得意とするのは弓であり、次に得意なのは『槍の熚永』として訓練に励んだ槍。刀の腕前はそれほどでもない。
しかし平秀、名家熚永を継ぐ見事な血統の剣士である。それが武器を構えたというのは、多くの者にとって脅威となる。
平秀の姿が霞んで、消える。
次の瞬間には一人、さらに次の瞬間にはまた一人と、本陣の中にいる者が倒れていく。
それは、熚永が『逃げよ』と命じ、しかし不満をあらわにしていた、三十より下の若者どもである。
「当主の命に反抗的であった。ゆえにこの者らを熚永家より除名する。目が覚めるまで寝せておけ。……さて、三十より上の者らに告ぐ。我とともに死にたい者あらば、付いて来い。生き残りたい者あらば、逃れよ。ただし、生き残りたい者ら、己が熚永であったことを忘れるべし。報復、追い腹はもちろんのこと、熚永の立場で氷邑へ反抗的であることも禁じる」
「ご乱心めされたか、平秀様!」
声は七十代の老人のものであった。
この老人、先代、先々代から熚永当主に仕えた忠臣。平秀の教育係も務めた『じいや』である。
発言力は当然高く、当主さえもが彼を前には意見を翻すことさえあるほどの人物であった。
平秀、これに薄く笑い、応じる。
「乱心、結構ではないか。そうだな、その通り。熚永平秀は乱心したのだ」
「何を……!?」
「熚永は滅びる。もはや私は熚永家当主ではない。……で、あればな、人としてどうすべきかを考えた。その結果、若き者、戦意なき者の命を助けることにした。それは、それほどおかしなことか?」
「……」
「とはいえ、熚永家当主であることを捨てるわけではない。責任はとるべきであろう? 私の責任は、この戦の終着のために首をとられることであり──最後まで、熚永の勝利の可能性のために行動することである」
平秀は刀をその場に捨て、腰から鞘を抜いて投げ捨てた。
そして、片手を差し出す。
「我が弓を持て」
「ご当主ッ! それは!」
「ここからの『勝利』はどうするか? 先手壊滅、南の槍足軽音信不通。北東隠密頭とも連絡途絶。剣聖が介入し、今、この戦は氷邑と剣聖との戦いになりつつある。では、その状況で熚永が勝利するためには? ──大将首をこの手でとるのが最優先。名誉は二の次。違うか?」
「……」
「で、あれば私は弓を持つべきだ。最低限の勝利目標をとるためにも、当主が弓を使うことにより失われる名誉など気にすべきではない」
弓は卑怯者の武器である。
これによる勝利は世間からの評価を著しく落とす。
少なくとも帝には認めていただけない。……当主が弓を使った果てにある勝利で得られるのは、やはり、家の滅亡なのだ。
だが、それでも──
「己から戦を仕掛け、全力を出さずに敗北するは、潔いかもしれぬ。だがそれは、武家の礼儀にもとる」
「……」
「氷邑家へ礼を尽くそう。最後まで醜くあがき、勝利をあきらめず、全力で……無様に敗北するのだ。……はは、いやァ、しかし、この私が弓をとったのだ。ともすれば勝利してしまうかもしれん。──熚永家の者どもよ。ともに滅亡に進もう。無形のもののために卑怯者のそしりを受けよう。美学のために命を奪おう。大義はもはやない戦となる。誰にも許されん。誰にも認められん。それでもいいという者のみ、この我に続け」
脱落者は──
出た。
若き者、若きとは言えぬ者、当主の行動を理解できず、口惜しそうにその場に立ち尽くす。
あるいは、やってられないと武器を投げ捨て、熚永の旗印を外して去って行く。
だが、もちろん、残る者も出た。
平秀は皮肉げに笑う。
それは彼が当主となるまで、常に浮かべていた……彼の素の性格を表す顔であった。
「じいや、この戦に死に花は咲かぬが、いいのか?」
「もとより年老いた身。自身が花となることなど最初から望んではおりませぬ。しかし、まぁ」
「?」
「あなたの一矢を放つための礎にはなれましょう。……いやはや、坊ちゃん、熚永家教育係としては小言が山ほどありますがな。……男として、あなたの決断を尊敬いたしまする」
「そういうのはいらんよ。我らは敗北が確定となったこの瞬間から、慌てて敵陣に突撃するただの暴徒だ」
「ただの暴徒にも物語はございます。どれほど陳腐でちんけであろうが、誰にでも人生はあるのです」
「……まぁ、『格好つけるな』とは言うがな」
「『格好いい』と思うぐらいはよろしいでしょう」
「口の減らぬジジイめ」
「こまっしゃくれた坊ちゃんの教育をせねばなりませんでしたからな」
老人が刀を抜く。
平秀の手に、弓が運ばれる。
弦を弾いた。……開祖の時代、弓弦を弾く音には魔除けの作用があるとされていた。
びぃぃん、と響く心地よい音。
平秀は、残響するその音に目を閉じて耳を澄ませ……
赤い瞳を、開く。
その瞳の中では、花が燃えている。
「では、氷邑家を襲いに参ろうか」
熚永平秀以下、家臣団──
否。
暴徒が十数名、氷邑家へと進撃を開始した。




