第177話 中間報告
「先手大将討ち死に! また、続く先手勢、相争い、混乱の渦中にあるとのこと! 一時は混乱が収まったとの報もあったのですが、先ほどの偵察ではまだ争っている模様で……」
「坂道より攻めさせていた槍足軽の軍勢、音信不通! 偵察に向かわせた者も帰還しておりませぬ!」
「忍軍は何をしている!?」
「北東の林より攻めさせた忍軍頭領、交戦中の模様! 林の周囲に遣わした斥候が敵機工忍軍との交戦報告を上げて来ておりますが、林内部で何が起きているかは不明! 童女の笑い声が響いているとの報告も──」
「愚か者がァ! 怪談ではないのだぞ!? 一世一代、熚永の興亡を懸けた戦である! 何一つ……何一つ、戦勝報告どころか、まともな報告さえないではないか!」
熚永本陣。
氷邑領都屋敷の北西に構えられた、陣幕もないその場所には、世にも奇妙な情報が飛び交い、首脳陣が混乱の渦中にあった。
その中で、赤毛を後ろになでつけた美丈夫──熚永平秀は、押し黙り、思考を巡らせていた。
(なるほど、氷邑家が野戦を経ずに領都屋敷まで招き入れたこと、油断ではなく、慢心でもなく、それこそが必殺の計であった、ということか)
現在の当主の氷邑梅雪、家中での信頼が高いとは言い難い。
そういった状態であるから、下手に支城から兵を出させてこちらを遅滞させるよりも、一気に領都屋敷まで招き入れて子飼いのみで対処しようということ、だったのだろう。
もちろん、ここまで無抵抗で招き入れたとあらば世間からの印象もいい。
少なくとも帝内地域は戦争をしなくなって久しく、『どこかの家に兵を率いて攻めた』とくれば印象が悪い。
この先を見据えるのであれば、氷邑家は印象を少しでもよくしておく必要があり、それゆえの専守防衛。必殺の計略と世間の風評を鑑みた政治と、二つの得をとる合理的判断であるのだろう。
(だが、解せぬ。……氷邑家当主梅雪、その行動は印象を気にするようなものではなかった。ということは家臣団が? しかし梅雪が風評通りの悪童であるならば、軍師の献策など聞かぬと思われる。一体、どういうことなのだ。氷邑梅雪……冷静で世間の風評を鑑みる合理的な人格と、悪評をまったく気にせず意のままに振る舞う人格、二つの人格でもあるというのか?)
法や制度、民の利得よりも『当主の意向』が強く出やすい現在のクサナギ大陸の風潮では、『当主の人柄を読む』というのは、戦争時に必要なことである。
だが、その『当主の人柄』がわからない。
合理的なのか、我欲を重んじるのか。
人間の心というのはバランスだ。領民の女をさらって凌辱するような領主が、我が子には甘い父親だということもよくある。戦において先陣を切る勇敢なる者が、家では妻子にまったく頭が上がらないということもある。
ある者が戦場で臆病な振る舞いをすることもあり、また別の戦場では勇敢な振る舞いをすることもある。
人というのは『こう!』と定めた画一的な面だけで構成されているわけではない。だから、どう考えても評判を気にしない行動ばかりしてきた梅雪が、戦争という特殊な状態になって、ようやく評判を気にする振る舞いを始めた──なんていうことも、あると言えばあるのだろうが……
平秀が困り果てていると……
「お困りのようですね」
やかましい本陣の中に、耳から入って背筋を震わすような、なまめかしい女の声が響いた。
大きな声ではなかった。だが、その一声で混乱の渦中にあった本陣が静まり返り、誰もが声の方向に視線をやった。
そこにいるのは、黒い装束をまとい、黒い目隠しをした、蜂蜜色の髪の美しい女──
「剣聖か」
シンコウであった。
黒い二刀を腰の左に携えたその女は、同じく左側やや後ろに、黒髪の少女を従えている。
名は桜であったか。シンコウのお気に入りの内弟子だ。
平秀は真面目くさった顔で剣聖を見つめ、口を開く。
「困っていない──と意地を張りたいところではあるが。もはやそう格好つけている場合ではない。……力を貸していただけるか?」
「武家の沽券、というものもありましょう。そのように下手に出るなどと、なさらなくとも。わたくしから、伏してお願い申し上げます。参陣をお許しください」
熚永家は剣聖を頼り、これを戦力にしようと画策はしていた。
だが、それはそれとして、武家の沽券というのが確かにあって、剣聖に先陣を任せて突撃させるなどということはできなかった。
あくまでも熚永家と氷邑家の戦いである。
外部協力者、それも『どこの家にも属さない』といった方針を明確にしている剣聖を最初から出すなどということは沽券にかかわるし、戦いの属性を歪めかねない。
ゆえに平秀、剣聖に協力を依頼したのは事実だが、あくまでもいざという時の護衛という役割を任せているのみであった。
……だが。
「あなたは武家の争いにかかわらないという方針であったはず。……だが、氷邑家との戦いにはむしろ、乗り気に見える。その心は、いかに?」
「悪しき、力ある者。奴隷を虐げ、領民を苦しめる者。多くを支配し、専横を成す者。これを相手に中立を気取るほど、義侠心に欠けているつもりはございませぬゆえ」
剣聖の語ったそれらは、氷邑家の評判であった。
確かに氷邑家は『悪』だ。特に熚永家からすれば絶対悪。帝を騙し、その妹御を手籠めにし、なんらかの弱みを握っていると思しき有能な部下を使って手柄をあげさせる──そういう男が、当主の梅雪だ。
しかし……
(……剣聖は恐らく、嘘をついている)
平秀とて領主大名。まして熚永家はアカリに端を発した混乱で、多くの裏切者が出た。
その中で人を見てきた平秀には、わかる。嘘をついている者と、そうでない者が。
剣聖の『目』は熚永家など見ていない。
熚永家の協力者ではなく、彼女の性質は……
(氷邑家の、敵か)
確かに氷邑家においてシンコウは指名手配されている。
当主との因縁もあったという話だ。
恨みに思うのは当然だが……
(単純な恨みつらみか? そのように俗な心に惑わされ、切っ先を迷わせる剣聖か? ……何か、私の知らないことがある。だが)
熚永家はもはや、剣聖の目的など気にしている余裕がない。
もはやこの戦力にすがりつくしかないところまで追い詰められているのだ。
平秀は、決断する。
「……参陣を許可しよう。ご配慮、感謝する」
「ありがたく」
「ついては我が近衛を──」
「いりませぬ」
「……」
「わたくしは『将』ではございませんので。ただ、真っ直ぐ、前へ進みます。途中で阻む者あらば、すべて、斬り伏せます。すべてです」
「……そう、か」
言うまでもなく、混乱し相争っているらしい先手軍も含まれるのであろう。
平秀や熚永家には『武家の家臣同士で決着をつけるべき戦いに、部外者を巻き込む』という自覚がある。ゆえに、『相争っているとはいえ、あの者らは大事な家臣だ。どうか、見逃してくれまいか』とまでは言えなかった。
食客はあくまでも食客。
熚永家がその能力を見込んで世話をしているだけで、報恩を求めることはできても、命令を下すことはできない。
平秀は胃の腑に何か重いものがのしかかるような、重圧を覚えていた。
何か、間違えた決断をしてしまったような気がする。しかし、どれほど考えても、ここで剣聖を投入する以上に、熚永家のためになる決断はないのだ。
頭ではそう思うのに、彼の心は、こう言っている。
(剣聖をこの戦いにかかわらせるべきではなかった)
しかしすでに後の祭りである。
「ああ、そういえば、一つ、お願いが」
シンコウの声はあまりにも美しく、その唇は、篝火の中でなまめかしく潤って見えた。
この声で『お願い』などと言われれば、なんでも聞いてやりたくなる。
だからこそ平秀は身構えた。
シンコウは、なんでもないように、こんなことを言う。
「わたくしが氷邑梅雪に最も早く切っ先をつけた場合、その処遇はお任せ願えますか?」
「それは」
認められない、と言おうとした。
言えなかった。
シンコウの左手が、さりげなく、腰の大刀の鯉口につけられている。
まだ柄に手も添えていない。だが、その動作から発せられるメッセージは、明らかだった。
『断られれば斬る』
──途中で阻む者あらば、すべて、斬り伏せます。すべてです。
剣聖の言葉が、平秀の頭の中をリフレインする。
『すべて』。
その中には──
(この私さえも、入っているのか。……つまり、剣聖の目的は、氷邑梅雪の身柄で、我々は……)
利用されたのだろう。
とはいえ、こちらもまた剣聖を利用しようという立場であるのも事実。
(氷邑梅雪の身柄一つで、この無双の剣術使いの助力を乞えるならば……安い、か)
承服しかねる。
だが、納得するしかなかった。
平秀は、苦々しい顔で答えた。
「……わかった。委ねよう」
「重ね重ね、ありがたく存じます。それでは……」
剣聖の目隠しに隠された『目』が、氷邑家領都屋敷を見据える。
ぺろり、と唇を舐め……
「氷邑梅雪に、会いに行くとしましょうか」
剣聖シンコウが、参陣する。




