第175話 熚永平秀の乱・四
氷邑領都屋敷、南──
氷邑湾まで真っ直ぐに伸びる長い、長い坂がある。
これは湾からその幸を領主様へと献上しようという目的で整備された道であり、平時であれば商人の駆る大きな騎兵車が行き来し、往来する人へ向けた商店が威勢よく声を上げ、賑わっている場所であった。
しかし現在は夜である。朝には熚永からの宣戦布告があったこともあり、周囲住民の避難はすでに済んでいて、あたりの静けさは平時では考えられないほどだ。
この坂道を進む軍勢、熚永家の槍足軽隊である。
充分な広さの道を五列横隊二組並べて、槍を構えて進んでいく。
特別な索敵能力を持った者がよくよく目を凝らせば、その部隊の先の道を確かめる斥候が、建物の隙間や木々の間を行き来し、氷邑家がどのように待ち受けているか調べている様子がわかるだろう。
ざっざっざっざっと固められた土の地面を大量の人間が踏んで歩く規則正しい足音には、一定の心地よさがある。
もしも彼らの持つ槍の穂先と無関係にこの音を聞いていられる者があらば、目を閉じて揃った足音の音曲に耽溺するであろう。
熚永家の弓隊が陰にして必殺の戦力であるならば、槍足軽は表の必殺戦力である。
槍の熚永──そうなってから歴史は浅いと言えば浅い。だが、それでも百年を超える積み上げがあるのは事実。
御三家名門であるからもとより集う兵の質は高い。そこを丹念に鍛錬し、しかもこの戦いは家の興亡のかかった一戦。必然、足音には乱れなく、眼差しにはゆるみなどありようはずもない。
だが……
この部隊を率いる重装槍兵、斥候からの報告を聞き、思わず言葉を失う。
というのも……
「……すまぬが、もう一度、言ってくれないか」
「は。この先、少女が一人いるのみです」
「………………」
「いかがなさいますか?」
いかがも何も、何も知らず夜の散歩でもしている民間人であろう──としか思えない。
戦時中である。宣戦布告もした。何より熚永家、氷邑家を滅ぼしに来ている。
だが、熚永家にとってこの戦いは、あくまでも『商人をさらい、その財産を不当に奪おうという、帝を騙した悪辣なる氷邑家を、誅罰する』といった属性のものである。
『軍の前に立っている民間人』の扱いには慎重にならねばならない。
それは世間体的にもそうだが、そもそも、熚永家の自認は『正義』であるので、正当なる戦いに身を投じる気高い軍人として、そういった民間人は──たとえ放置しては氷邑家になんらかの情報を与えてしまうとしても──『道にいるのが悪いから轢き殺せ』というわけにはいかない相手であった。
……彼らは氷邑家の悪辣さを見誤っていたとも言える。
非常に当然すぎて誰もいちいち確認しない話ではあるが、戦争で民間人に偽装した兵士を配備し不意を突くというのは、重大な卑劣行為である。
これをされてしまうと相手軍は民間人も皆殺しにしなければならなくなるからだ。どのような軍隊でも、戦争のあとのことを考えるのであれば、やらないように気を付ける。
だがしかし、この軍勢の前に立つ少女、そもそも氷邑家の所属ではないのだ。
いわば傭兵のようなものであり──
その少女の服装、とても戦いに赴くとは思えない、ソフトボールウェア風和服である。
おまけにたった一人で道の真ん中にぽつんと立ち、傍目にはなんら武装もしておらず、索敵から隠れようという様子さえないというのは、どう考えても民間人にしか思えない。
この世界に戦時国際法なるものはないが、決まりとしてではなく倫理として『兵に民間人偽装をさせてはならない』というものはある。
氷邑家がこの紳士協定を順守する姿勢を見せようと思うならば、そのソフトボールウェア風和服をまとった少女──サトコに、氷邑の印が入った鎧か旗の一つも持たせておくべきであったのだ。
だが、しなかった。
それは梅雪が軍議の際に言った通りの理由。
この戦い、熚永家も氷邑家も、ともに相手の殲滅が目標である。
ゆえにこそ──
『相手の卑怯を証言する者が遺らない』。
熚永が弓を用いて大義ある戦いを名乗ったことに対する応報。
それこそが、元荒夜連18番、現在は傭兵として梅雪の子飼いになっているサトコという存在である。
相手がただの少女だと思っている槍足軽の軍勢、ついにサトコと互いに視線を交わせる距離まで近付く。
そして、隊の将である重装槍兵、このように告げた。
「そこな少女! 現在、我ら熚永家、悪逆なる氷邑家を誅罰すべく戦っている最中である! この戦に関係なき者に危害を加えるつもりはない! 即刻、その場からどき、安全な場所へと向かうべし!」
とても紳士的な勧告であった。
だからサトコ、腰から黒いボールを一つ取り出し、こう応じる。
「関係者だから大丈夫ですよ」
声音は冷たく、平静であった。
あまりにも乱れがない。武装した軍勢にたった一人で向き合う少女の声ではなかった。
だから、一瞬、重装槍兵は、何を言われているのか理解しかねてしまう。
サトコはしばらく中空を見たあと、再び重装槍兵に向き直って、こう声を発した。
「死合開始」
理解を求めるのが面倒くさくなったサトコが戦いを開始する。
黒いボールが投げられ、地面にぶつかる。
瞬間出てきたもの、それは──
「行け、雪女」
サトコらの扱うボール──離苦罹球形浄土は、基本的に、自分で捕らえた妖魔しか降霊できない。
しかし、これには抜け道がある。
『トレード』だ。
サトコ、荒夜連を出る前に、雪女と氷邑湾の海魔とを交換していた。
ボールから白い靄が出た瞬間、あたりが吹雪に包まれる。
吹雪の中より現れるのは、白い着物で真っ白い肌を包んだ、白髪の美女──雪女。
極寒の冷気を纏った、かつての『東北百鬼夜行の乱』における幹部の一人。
マサキとの融合から解放されてなお強壮なその雪女、目の前に重装槍兵を見て、笑って、声を発する。
「マジヤバなんだけど」
その白い頬に赤みが差し、その白い瞳が爛々と、肉食獣のごとく輝く。
「うっそー。マジ? ねぇサトコちゃんマジ? マジで──あのイケメンたち、まとめて凍らせていいの? やば。コレが都会で有名なビュッフェ形式ってやつ!? とても良いんですけどー!」
「……男の趣味悪くない?」
「はー? 男は筋肉じゃんね。サトコちゃんアレ? 王子様が好き系?」
「……まぁなんでもいいから、やっちゃってよ。残したやつは石投げて倒すから」
「おけまるー! いやー、陰キャに同化させられてマジ禁欲生活してたから渇いてるわー超渇いてるわー。渇いた心に筋肉集団が染みわたるわー。……ってわけでえ──」
雪女が爛々と輝いた目を向ける。
その存在感? あるいはまくしたてるような意味不明な言葉遣い? ともかく圧倒されて動けなかった熚永家槍足軽部隊は、ようやく目の前の妖怪と少女に対し、槍の穂先を向けるといった行動をとることができた。
それで、終わりだった。
「──アタシと一緒に、死んでくれる?」
雪女の目が、男たちを捉える。
その瞬間、男たちが足元から凍り付いて行く。
この雪女、マサキの術式を継いではいない。
だが、マサキと最初に融合し、その後、妖怪たちを吸収し、さらにマサキと融合中に妖怪としての成功体験を積んだことによって格が上がり……
さらに、マサキの術式からヒントを得て、その伝承道術を強化している。
すなわち、『浮気判定強化』。
そもそも雪女とは、雪山で迷った男を助け、男が自分を一心に思っているうちは何もしない。
だが、男が他の女と結ばれた際には、裏切った男を凍らせて連れ去るという能力を持つ。
それを曲解・強化した雪女。
自分と死んでくれない──自分を一心に愛してくれない、自分と死んでくれと言った時に一瞬でもためらった男のすべてを無理やり凍らせる。
強い神威によって抵抗が可能ではあるが、マサキに数多の妖怪を融合させられ強化された雪女の道術に抵抗できる神威量の持ち主、この世にそう多くない。
ゆえに、足元から凍らせられる男たち……
何もできずに、氷像になった。
雪女は、悲しい顔をする。
「マジぴえんなんですけどー!? 一人ぐらいアタシの告白オッケーしてくれてもよくない!?」
「いきなり『一緒に死んでくれる?』は無理でしょ」
「アタシ重い女だからしょうがないじゃん! でもさあでもさあ、こう見えてめっちゃ尽くすよ!? っていうか婚活のために力貸すことにしたじゃん!? そりゃ求めるのは永遠にともに生きてける最愛っしょ!?」
「……敵、後ろの方が残ってるね」
「暗いかんね」
雪女の伝承道術、目が合わないと効果がない。
暗闇の中では効果も半減、といったところである。
だが、氷の壁に阻まれてこちらに接近できない、遠間の敵──
肉壁に隠れてその背後から投石をする戦術を鍛え上げてきた荒夜連の乙女にとって、ただの鴨である。
「じゃあ、ここからは私がやるから帰っていいよ」
「こんだけイケメンがいるのに!? ひどくない!?」
「……出てるだけで力を食うんだけどなぁ。まあいいか」
ルウとの戦いを経て、サトコは意思疎通と連れ歩きの大事さを知った身である。
降霊する妖魔に対する深い理解と対話こそが、荒夜連のイタコの新しい可能性を開く鍵であろうという認識である。
ゆえに雪女を顕現したまま、投擲を開始する。
(……人間なんだよねぇ)
相手は人間。
妖魔ではなく、マサキでもなく、プールで倒したような神威の塊でもない。
だが……
(指先細部に至るまで、なんら異常なし。……なんかもう、とっくに覚悟できてる自分が怖いや)
その投擲用白球のキレにいささかの衰えもなし。
サトコはとうに、覚悟していた。
その覚悟、梅雪とともに生き、彼の陣営で先発をする覚悟であった。




