第170話 大義名分
シンコウが『主人公』──桜に剣術を教えてから、数か月が経過した。
「桜、あなたを愛神光流皆伝と認めます」
ウメが三年かけた愛神光流を修めるという偉業、桜はほんの数か月で達成。
……梅雪にとって予定外のことだが、梅雪が成長し、これと斬り合うといったことをしていたシンコウ。彼女もまた成長してしまっている。
剣術使いとしてもそうだが、師匠としても、成長している。
そこにきて、すべてを言われたままに吸収する、まっさらな『主人公』が弟子とくれば、多くの者が目録、すなわち『流派の一部の技法を修めた』という程度で止まる愛神光流、皆伝までほんの短い時間しかかからなかった。
「ありがとうございます、師匠」
桜は素直に頭を下げた。
少し真面目そうなところがある顔立ちをした少女である。
年齢は十五歳かそこらであろうが、何分記憶喪失なので実際のところはわからない。
修行の中でも記憶が戻る様子はなかった。
というより、シンコウから見て……
(本当に記憶を失っているのでしょうか? まるで、つい先日……わたくしと出会ったその日に生まれたかのような)
魔境の本土側にいたところもふくめ、『十代半ばまで成長してから記憶を失った少女』というより、『つい先日発生した存在』と考えた方がしっくりくる。
そういう発生の仕方をすると言えば妖魔に他ならない。だが、シンコウの目は、この少女を人間として捉えている。
実に不可思議な存在であった。
ともあれ、実戦経験と呼べるものを経てはいないが、技術は間違いなく皆伝である。
シンコウの見立てによれば、大戦乱孤島九十九州などで実戦の中に放り込む必要もない。すでに常在戦場の心構えはできている。桜は恐らく、戦場に放り込まれようが、日常で過ごそうが、変わらずこのままだ。
生真面目で、ちょっととぼけたところがあって、人の話を真剣に聞いて、何かをやるなら全力で打ち込むという様子のまま──
茶の湯をやらせてもそうだし、人と話させてもそうだし、人殺しをさせても、そうだろう。
ともあれ修行は終わった。
ここでゲーム剣桜鬼譚であれば、主人公が魔境から外に出る動機は、ここまでで仲良くなっていた『まつろわぬ民』たちになる。
クサナギ大陸でも特に差別視される半亜人たち。彼女らがこの危険な場所でしか生きていけない現状を嘆き、安住の地を求めて、主人公は魔境から出るのだ。
だが、現在、この魔境に『まつろわぬ民』はいない。
それらは梅雪が保護し、氷邑領で特産品の世話という仕事を与えている。
ゆえに助け出すべき弱者がいない。よって、主人公に外に出る動機はない。
主人公には、ない。
「桜、あなたには目的もなければ、守りたいものもなく……その力を振るう理由が、ないでしょう」
「はい」
「わたくしはあなたに力を与えました。しかし、力を持つ者が、その力を必ず振るわねばならないとは、まったく思っていません。むしろ……多くの者が力を持ちながらも振るわない世界こそが、わたくしの目指す理想と言えるでしょう」
シンコウの個人的趣味はともかくとして、世界・社会に求める理想は『平等』である。
それも弱者を引き上げての平等。つまりすべての人が等しい力を持てばこの世から奴隷やその他弱者はいなくなるというものである。
加えて言えば、シンコウは基本的に慈悲深い。
弱者を救済する──弱者の自助努力による救済を指導するという方向性だが、努力ではどうにもならない状況にいる弱者であれば、動機さえあれば助けることもある。
そのシンコウの耳に、ある情報が届ていた。
「先日、熚永家より、わたくしのもとへ遣いがいらっしゃいました」
「いつもお野菜とかくれる家ですか?」
「ええ」
魔境は氷邑家の西にあるが、同時に、熚永家の南西でもある。
肉などはこのあたりの妖魔を倒せば手に入る(魔境入り口の妖魔は正確には魔獣、異界の神威の影響を受けた野生動物であり、死体が残る)のだが、野菜ばかりはどうしようもない。
そういったものや、その他の世話を申し出てシンコウに接近していたのが落ち目となっていた熚永家であり、当然、その支援の裏には、シンコウの戦力をいつか役立てようという陰謀があった。
……熚永家が魔境のシンコウに接近できる理由。
それは魔境の脅威である魔獣がシンコウによっていなくなっているからであり、厄介なまつろわぬ民どもがナワバリ主張をしていないからであり──
なおかつ、アカリがやらかしたことの影響で、流れの剣聖を頼らなければならないほど落ちぶれているからである。
一般市民であればともかくとして、いかに剣聖が強くとも、大名家がこの戦力にすり寄るのは、武家としての誇りがない行為とみなされる。
ゆえにこそ、誇りなんかに構っていられない状況でもなければ、熚永家ほどの名門が剣聖にすり寄るということは起こらない。
今は、それが起こっていた。
「その遣いによれば、どうにも、氷邑家が善良な商人を監禁し、その商家を手中に収めようとしているという話。……無辜にして善良なる力なき者を拉致監禁し、あまつさえその者が築いた財産を奪おうなどと、鬼畜の所行。許せるものではありません」
これは剣聖にとって一端の本音が混じった言葉ではある。
弱者が踏みにじられることに義憤はまったくないでもないのだ。
ただ、剣聖は特定の家を糾弾したり、特定の家に味方したりといったことを、通常、しない。
基本的に彼女にとって世で起こるあらゆる争いはどうでもいいからだ。
……ただし。どこかが外道を働いたことを、口実とすることは、わりとやる。
「桜。あなたに与えた力は、一生振るわなければ、その方がいいものです。しかし……もしも、その力を振るう意味を欲するのであれば、弱者のために、振るうべきだと、わたくしは考えています」
「……」
「悪しき大名家、氷邑家。その当主である氷邑梅雪は、元服前より悪童として有名。これに先代が家督を継がせた瞬間、氷邑家は世に悪を成す家となりました。……このままではきっと、現在囚われている商人のみならず、多くの者が悲しい目に遭うでしょう」
「……はい」
「わたくしは、氷邑家から商人を救い出したいという熚永家に味方しようと考えております。……あなたは、ここに残るのも、わたくしとともに熚永家に味方するのも──わたくしの言葉を頭から信じず、氷邑家の『実際』を見てみるため、そちらに行くのも、いいでしょう。ともあれ、わたくしは魔境より離れ、クサナギ大陸の渦中へと戻ります。あなたも、身の振り方を考えておいてください」
「師匠」
桜は美しくきらめく黒い瞳で、まっすぐにシンコウを見た。
砂交じりの乾いた風が吹き、彼女の長い髪を揺らす。
けれど、髪に目を隠されても、彼女の視線はどこまでもどこまでも、射貫くようにまっすぐだった。
「記憶喪失だった私に、すべてを教えてくれたのは、シンコウ師匠です。……『実際』を見てみるまで、確かに、善悪を判断するべきではないのかもしれません。けれど……師匠がもしも間違えて『悪』に行くならば、私もともに、『悪』へと行きます。ともに過ち、ともに省み……ともに、責任を負いたいのです。どうか、私の同行をお許しください」
乾いた砂の地面に両ひざをつけ、頭を下げる。
シンコウが教えた作法ではない。桜が最初から知っていた作法だ。
「あなたが氷邑家につくならば、それはそれと思いましたが」
シンコウの声に嬉しさと落胆があるのは、もちろん、師として弟子にここまで言われた喜びと、師として育てて、日々進歩し、いずれ神にでも至りそうな弟子を敵に回せぬ悲しみによるものであった。
ともあれ、弟子がそう述べるならば、シンコウの目的は絞られる。
すなわち──
「……彼とは、個人的な因縁もあります。氷邑梅雪を討ちましょう。彼はきっと、強い。いえ、強くなければ困る──」
「師匠……?」
「……梅雪の相手は、わたくしがします。あなたは、それ以外にも存在する、厄介な者たち……特に、半獣人の剣士の相手を頼むことになるでしょうね。もっとも……今のあなたであれば、たやすくなくとも、勝利は可能でしょうが」
「……はい」
「覚悟はよろしいようですね。それでは……参りましょうか」
熚永家は、落ちに落ちきった起死回生の一手として、氷邑家の悪行を暴き、『帝を騙し、夕山を手籠めにし、悪行を働く悪しき御三家を倒した』功績によって、その家名を挽回するために。
剣聖シンコウは、梅雪の現在の強さを見て、食べごろであれば食べてしまい、そうでなければさらって弟子にするために。
主人公は──
ただ、恩人たる、優しく気高く強い師匠のために。
氷邑家攻めを、開始することとなった。




