第168話 魔境より
梅雪らが行商人にこれまでのあらすじを語り始めるより少し前。
ウメの修行を終えたあと、剣聖シンコウは『魔境』に来ていた。
魔境──
氷邑家西に入り口があるが、その本領はさらに西、海を渡った先にある。
世間一般には『強い妖魔とそれに従う妖魔どもが封じ込められた、禁足地』として膾炙する。
しかしその真実は『異世界からの侵略者たちを封じ込めた』というものであり、クサナギ大陸由来の妖魔どもとは毛色が違う……
ゲーム的に喩えれば、ゲームシステムの違う者どもの封印されし地である。
この地には『死国八十八箇所巡礼陣』と呼ばれる封印が施されている。
これは妖魔、すなわち神威生命体をこの地に縛り付けるための封印であり、はっきり言ってしまえば、その封印解除の条件は簡単なものであった。
死国内にある八十八箇所の『封印の楔』を順路の通りに巡りつつ壊して回ればいいだけである。
しかしこの術式の作製者……帝の祖に仕えた七星家の祖が、非常に食わせ者であった。
この儀式道術、『解除が簡単かつその解除方法を誰にでもわかる形で提示する』という縛りを設けて効果を上げたものである。
その解除方法はもちろん封印されている妖魔どもにも共有されており、なんなら八十八箇所の順路はでかでかと立て看板で示され、順路にはいちいち案内板まで立っているという、その距離と路面の走破性を除けば観光客でも解除はできそうなほどの親切ぶりであった。
しかし、内部の妖魔、六百年間も封印を破ることができていない。
ここが七星家開祖の性格の悪いところであり、この巡礼陣、八十八箇所を巡る必要があるのに、八十七箇所しか楔がない。
死国の妖魔封印結界は製作途中の段階のまま放置されており、この結界を壊すためにはまず八十八箇所目の楔を製作して打ち込み、術式を完成させてから巡礼せねばならない。
しかし解除が簡単という縛りをつけたこの結界、本来の効果が発揮されると妖魔の封印ではなく、一定範囲にいる妖魔の消滅という効果を発揮する。封印効果は範囲内の妖魔を消滅させるために閉じ込めておくという、消滅の過程に起こる仕様にしかすぎないのだ。
このバグ利用めいた封印によって、異世界勇者のパーティは死国に六百年も封じ込められることになった。
対妖魔特化封印なので存在を妖魔から遠ざければ誤魔化すこともできるのだが、何せ連中は侵略者であるものだからクサナギ大陸そのものから妖魔、すなわち人類の敵認定を受けている。
そもそも『強くなると神になってしまう』などの呪いめいたものを最初から帯びている者以外はこの封印をごまかすことができない。
……とりも直さず、『妖魔判定をごまかせてしまえる可能性がある者』が多数発見されたので、七星家開祖はこの結界を完成させて『消滅』を発動させるよりも、『封印』という状態で取り置いて様子見した、とも言えるが。
ともあれ──
「…………ここ、は?」
妖魔とは、何か?
人類の敵である。神威生命体である。
クサナギ大陸には大陸そのもの、世界そのものの意思としか呼べない何かが存在する。
滅多なことではその『意思』は存在をうかがわせないけれど、多くの霊場がたびたび異界とつながる不安定なこの大陸には、多くの外界からの侵略者が訪れる。
魔界。
地獄。
異海。
宇宙。
そして、異世界。
こういった場所から訪れたモノが、クサナギ大陸とそこで生まれた人間に敵対しようと動き、一定の被害を出すと世界の敵と認定される。
だが異界から来たというだけの稀人をクサナギ大陸は『敵』とは認定しない。
もっとも重要なのは、人間の意思。
それから、世界の敵対者本人の想い。
クサナギ大陸は、人の信念や意思、本音といった、どうやっても観測しえぬものをいかなる手段にか観測し、それによって、その存在を『妖魔』か『人』か決定する。
多くの人々が雷と光を同一視すれば、雷速はすなわち光速となる。
もしも、もっと科学なる法則が整備され、人が『雷』と『光』の間に明確な差異を見出せば、雷と光は別々の存在とされるであろう。
獣人、鬼、河童、天狗などは、すっかりクサナギ大陸固有の種であると認識され、当人らも『自分の出自がクサナギ大陸にある』というように信じ込んでいる。
ゆえにそれら存在は土着となった。本当は異世界から来た種であるにもかかわらず、今日、それら種は、亜人差別を受けつつも、すっかりクサナギ大陸の一員として棲息している。
人々の認識と、本人の想い。
これがあらゆるものの存在を決定づける鍵である。
ゆえに。
「……ここ、は……っ、う」
魔境の一角、氷邑家西の『魔境の入り口』と『魔境の本土』とを結ぶ『魔内海大橋』のたもと──
「…………思い、出せない……ここはどこだ? 私は誰だ?」
そこで目覚めるモノがいた。
そのモノ、どう見ても人間である。
そして当然ながら、一切の記憶を失ったそのモノ、己を人間であると当たり前のように──前提として認識している。
実際、そのモノは人間であった。
ただし、異世界のただの人間であった。
しかし記憶を失った状態で目覚めたモノが、『ここは自分にとっての異世界に違いない』などと発想するわけもなく……
そのモノは、目の前にある橋を渡り始める。
妖魔には決して渡ることのできない橋を、記憶を失い、己を人間であると信じ、この世界を侵略する意思もないモノは、当たり前のように渡っていく。
特に何かを考えてのことではなかった。
記憶と一口で言われても、その種類は様々である。そのモノが失っている記憶は『本人特有の思い出』──『自分が誰で、何をしてきた人物なのか』という記憶であり、橋を見ればそれが橋であることも、橋の向こうには人里があるであろうことも、わかる。
記憶を失いどことも知れぬ場所に倒れていた者の当たり前の思考として、そのモノは人里を目指した。
手がかりや保護を求めて──そこまで頭は回っていないが、なんとなく、人のいる場所を目指せばどうにかなるだろうという期待を抱いて、進み始めた。
進んで、進んで、進んで……
霧の深い橋を渡り、『本当に渡ってよかったのか』『いつ向こう側につくんだ』などという不安を抱きながら渡り……
「……あ、陸、だ……」
長いその橋を渡り切り──
そのモノは。
記憶を失った氾濫の主人は、氷邑家西、魔境の入り口にたどり着いた。
そして……
どさり、と倒れこむ。
その様子をちょうど……
「……あら」
剣聖シンコウが、発見した。
かくして運命は収束する。
魔境より出でし主人公は、剣聖シンコウの保護下に入った。




