第11話 氷邑忍軍再雇用編・余談
余談。
アシュリーは忍軍頭領である。
基本的に彼女の業務はメカニック、つまり機工忍軍の装備の修理である。
しかしそれでも忍者ではあるので、気配や視線にはそこそこ敏感だ。
氷邑家領都屋敷、廊下──
そこでアシュリーが感じたのは、柱の向こうから自分を見つめる視線であった。
困る。
すごく、困る。
まさか氷邑家領都屋敷、領主もいるような屋敷で邸内に『敵』が潜んでいる訳もない。だからこそ困る。誰なんだろう。
アシュリーはネガティブで、陰の気配をまとうナード系天狗である。
なのでなるべく『人と会話する状況』を避ける傾向があった。
だから、忍軍宿舎まで逃げることにした。
速足で逃げる。
誰かがついてくる。
廊下で許されるギリギリの速度で逃げる。
しかし振り切れない。
もう走る。
だが全く振り切れない。
そうしているうちに廊下の端っこまで来てしまい、アシュリーはとうとう追い詰められてしまった。
そのアシュリーの、廊下の突き当りを見て絶望している背中から……
誰かが、肩に手を乗せてきた。
「ひいいいい!? ごめんなさいごめんなさい! 怪しい者じゃないんです! おばけ!」
混乱し過ぎて訳の分からない発言をしながら、頭を抱えてその場にしゃがみこむ。
すると、
「あははははは!」
という、女の子の笑い声が響いた。
アシュリーが頭を抑えたまま肩越しに、おそるおそる笑い声の方向を向けば、そこにいたのは……
銀髪碧眼。
アシュリーと同じぐらいの年齢の女の子──
氷邑梅雪の妹である、氷邑はるだった。
「……はる様?」
はるは領主の娘であるから、忍軍頭領でしかないアシュリーが様付けをするのはおかしくない。
だが、はるは「はる様!」と何やらびっくりした様子で言葉を繰り返し、また楽しそうに笑った。
訳が分からない時間である。
怖くなってきたアシュリーは、「あのぉ」と言葉を切り出すことにした。
「あ、えと、そのぉ、あの、な、何の御用、でしょう……?」
はるは、にっこりと笑っている。
その顔立ちはあの優しい氷邑家当主銀雪の面影が色濃いながらも、現在アシュリーの夫(まだ夫ではない)になっている梅雪が他者に浮かべる、どこか傲慢な色合いも微妙にある気がした。
「あにさまのお嫁さんになったんだよね?」
出し抜けに言われて、アシュリーはちょっとびっくりする。
だがすぐに『お嫁さんに至るエピソード』──氷邑梅雪がわざわざ一人で山を上ってきてアシュリーに求婚し、それを止めようとする忍軍の人たちをボロボロになりながら倒し、アシュリーの前で片膝をついて『君と結婚したい』と花を差し出しながら言ってくれた日の記憶──だいぶ事実とは異なる──を思い出し、顔がゆるむ。
「え? ええ、え、えへへへへへ……まぁ……」
「ふーん」
「えーっと、あのー、えへ、えへへへへ」
「ふーん。ふーん」
「……あのー」
「ふーん」
はるが、アシュリーの前にしゃがみこんで、肩を掴んだ。
「えっ、あの、いや、力、力が、強……」
「ふーん。そっかー」
「……はる、様?」
「……がんばってね!」
また天真爛漫な笑顔を浮かべてそう言うと、はるは駆けて離れていく。
アシュリーは、
「…………なんか怖い目に遭った気がする!」
この時以来すっかりはるに苦手意識を持つようになってしまった。
なお、特に何かが起こったというほどでもないこのエピソードはすっかり忘却され、なんだか奇妙に苦手意識だけが残ることになるのだが……
こういう一幕が、あった。
これから先の梅雪の行く末にはさほど関係しないと思われる、余談である。
◆
余談。
「……という訳で、出戻った氷邑機工忍軍、私のあずかりとさせていただきたく」
当主の間。
氷邑家は歴史ある武家屋敷であり、こういった武家屋敷には、いくつかの『武家にならあって当然だが、一般家庭には存在しない』部屋が存在する。
軍事を行う時に集まる『軍議の間』。
政治的な方針決定会議のさいに使う『評定の間』。
そして、当主が誰かと一対一で打ち明け話をする際に使う、『当主の間』。
氷邑梅雪は現在、当主の間において──
氷邑家当主にして実の父親である、氷邑銀雪と対面していた。
座布団の上に正座をする着流し姿の男こそが、梅雪の父、銀雪。
長い髪を備えた銀髪の男であり、その姿は覇気のなさから病弱にも見えた。
顔立ちが女性的な美しさであるのも加わり、ずいぶんと小柄に見える。だが、そばに寄れば、彼が長身であることが分かるだろう。
……梅雪にとって銀雪は、優しい父親である。
だが、世間にとって銀雪は、『弱腰の当主』である。
梅雪を後継者に指名してゆずらないことも、『息子の癇癪に参ってしまって、逆らう力もないからだ』などと言う者さえいる。
そして、梅雪の視点から見ても、父はどこか幽鬼のような、実在感や生存感がない男であった。
父の碧眼は梅雪の方向を向いているものの、どうにも焦点が合っているような感じがなく、目の前にいるのに視界に入っていないのではないか、という疑いを抱かせる。
袖にしまい込んで組んでいる両方の手は、まるで寒気からくる震えを抑えているような、そういう印象であった。
なんらかの病気を抱えていると言われれば信じてしまいそうな様子。
フッと吹き消しただけでこの世から消え失せそうな儚げな男。
それこそが氷邑銀雪。梅雪が敬愛する父親の姿である。
銀雪は──
「そうか。好きになさい」
にっこりと微笑み、そう述べるだけである。
梅雪は一瞬、自分が夕餉のおかずの種類でもたずねたのではないかという幻覚に襲われた。
……出戻りの忍軍を、自分のあずかりにする、と述べたのだ。
一度、装備を持ち逃げして出奔した忍びの者らを、自分があずかると、そう述べたのだ。
「……よろしいのですか」
沙汰はないのか。罰はないのか。事後の対応はないのか。
……自分がどのように忍軍を連れ戻したのか、聞かないのか。
梅雪は言葉にしたい、しかし、言えば無礼になるかもしれないあらゆることをこらえて、ただ一言、『よろしいのですか』とだけ聞いた。
銀雪は、
「構わないよ。お前の好きになさい」
消えそうな微笑を浮かべ、同じような言葉を繰り返すだけであった。
その態度、かつての我侭放題の、利かん坊なだけの梅雪であれば、『優しいなあ』と思うだけだった。
だが今は……
「……父上は、私のことに」
言いかける。
だが、ここまで言ってしまえば、もう、出し切るしかないことに、意思に音が乗った時点でようやく気付いた。
梅雪は、父を真っ直ぐに見上げて、言葉の続きを捻りだした。
「……私のことに、興味がないのですか?」
「いいや」
銀雪は変わらない微笑のまま否定するような声を発する。
だが、その声には意思が乗っているようには思われなかった。
話している。この場には梅雪と銀雪しかいない。ならば、話しかけている相手は自分だ。
どう考えてもそうとしか言えないのに、銀雪の声は自分を向いていないような気がするのだ。
「いいや、梅雪。我が息子よ。私はお前を見ているよ。お前を愛しているとも」
「……でしたら」
「だから、好きなさい」
「………………」
「私にはお前とのかかわり方が分からない」
その一言は意識の外側から殴りつけてくるような、衝撃的なものだった。
かかわり方が分からない。
この儚く、消え去りそうな人の本心が、ようやく音を乗せて唇から発せられたように感じられたのだ。
それだけに、声を失ってしまう。
かかわり方が分からない。
だから、好きになさい。
……呼吸が上手く出来ない。何がどう衝撃だったのかを考えることさえ出来ない。理屈で整理出来ない衝撃は、衝撃のまま脳髄に浸透する。
「あ、その、父上、私は……」
「余り、父のそばに長くいない方がいい」
「……」
「父はお前を見ていることしか出来ないのだ。すまないね、頼りない父で」
「いえ、あ……い、え」
「何か他に、私の裁可が必要なことはあるかな?」
「……いえ」
「そうか。であれば、退出なさい。お前はまだまだ子供だ。子供の時間というのはね、大人になって振り返ると、一瞬一秒さえ無駄にしてはならない、全てが貴重な陽だまりの中の時間だったと気付く」
「……」
「行きなさい、梅雪」
「……は」
……分からない。
父のことが、分からない。
苦々しい、とも違う。イライラする、訳でもない。怒りはない。憎悪もない。
ただ、立ち上がり、一礼し、後ずさりしないようその場で回って部屋を出る梅雪の胸中に広がるもの、それは。
(……虚しい、のか)
父の優しさの中にある、たまらないほどの空虚に気付いてしまった。
愛だと思っていたものが、愛ではなかったかもしれないという──
この人生の意味が揺らぐような、衝撃が、いつまでもいつまでも、胸中で残響していた。
ここまでが二章です。
一章、二章とお付き合いいただきありがとうございました。
明日から11時・17時の1日2回更新をしていきます。
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それではまた明日、三章をお楽しみください。




