第106話 プール・パレード 一幕の一
一瞬、重苦しい緊張があたりを満たした。
氷邑梅雪にとっての剣聖シンコウとは──
いずれ殺す相手、である。
梅雪はかつて、シンコウに奴隷を奪われ、左腕を斬り落とされた。
梅雪視点で語れば、剣聖シンコウは『盗人かつ傷害犯』であり、なおかつ罪の意識をまったく感じていない異常者でもあり、変態年増女でもあり……
とてつもない剣術使いでもある。
これを殺すならば剣術で上回りたいというのが梅雪の願望で、そのために技の開発をし、日夜剣の腕を磨き続けている。
一方、シンコウにとっての梅雪はどうかと言えば……
「……また強くなりましたね」
その声は姉のようであり、母のようであった。
殺意だの緊張だのは一切ない。心の底から相手を慈しみ、その成長に感涙さえ流すほどの感動を覚えている……そういう声だ。
梅雪は舌打ちをする。
「相変わらず気色悪い女だ」
「まあ、冷たい物言いですね。……ところで、どうなさいます? やりますか?」
シンコウの体温がうっすらと上がっていく。
これに梅雪は……
「やらん。盛るな変態」
「あら、残念。出会い頭にあなたに斬られるだけの積み重ねはしたと思うのですけれど」
「ここでの戦いは余計なものが周囲にありすぎる」
状況。
『武装禁止』『外部の争い持ち込み禁止』『内部での争い禁止』という大嶽丸の里、その心臓部たる工房エリアにいる。
ここでもし戦いになれば、自分だけの名刀が遠ざかる。
……それに今は、別な事件を抱えている最中だ。
何より……
これは絶対にシンコウにも誰にも言えぬことだが、梅雪は、いくつもの実戦を潜り抜けて理解していた。
自分はシンコウの足元にも及ばない。
あの時、斬り合いの形になったのは、シンコウがかなり抑えていたからにすぎない。
もしもシンコウが本気で殺す気であれば、今の梅雪は一瞬たりとも持ちこたえられないだろう。
(腸煮えくり返る事実だが、この女、父上と同格。……神威量は少なく、体格に恵まれているわけでもなく、剣士でもないゆえにわかりにくいが……)
実戦を潜り抜け、殺し合いを経た梅雪は、ようやく、見えるようになっていた。
それはきっと、イメージのようなものにすぎないのだろう。
だが、濃く見えるのだ。数多の屍をその手で積み上げた者しか持ちえない、特有のおぞましさ。饐えた熱気とも言うべき気配が、シンコウからは立ち上っている。
女の美しい肢体に、死者の怨念がまとわりつくかのような、そういう気配。
……父・銀雪にも、種類は違えど、同質の気配を感じることがある。
強者特有の……影、とでも言おうか。
ある一定の実力がなくば観測しえない、強者の条件。あの影をまとえるほどに研鑽して初めて、剣聖や父の領域に手が届いたと実感できるのだろう。
ゆえに梅雪、今すぐ殺すとは言わない。
……懸命に、『口だけの無能後継者』でなくなるよう、努力してきた。
ならば、殺すと述べたならば、殺さねばならない。
今の実力では、子供が癇癪を起こしているとみなされるだけ。そんなの我慢できるはずがない──
「……今は見逃してやる」
「まあ」
シンコウが頬を赤らめる。
梅雪は「気持ち悪い」と吐き捨てて、ため息をつく。
「さっさと去ね、変態女が。俺は忙しい」
「大嶽丸様に用事ですか? 自分だけの名刀を打ってもらうために」
「……あの鍛冶屋、ばらしたのか」
「いえ。ただの推測です。というより、ここまで来ているのだから、それ以外にないのでは?」
「…………チッ」
「ふふ」
不意の遭遇、そして、かつてはわからなかった剣聖のおぞましさ……
それにすっかりやられて頭が回らなくなっているのを見透かされたようで、非常に面白くない。
だが、ここで癇癪を起こしてはいけない。
殺すと言ったならば、殺す。殺せないならば……
(溜めこむぞ、剣聖ィ……! 貴様を殺す時に、この怒り、この屈辱、この憎悪……! 一気に叩きつけてやる!)
相手に激情を悟られないように、必死に歯ぎしりを我慢する。
それを見透かしているのか、いないのか、対するシンコウは涼し気な微笑で、こんなことを述べ始めた。
「氷邑梅雪、まだわたくしを殺さないのであれば、提案があります」
「……聞く義理はない」
「わたくしの直弟子になりなさい」
「なんだと?」
「見れば、あなたの中に二つの剣筋がある様子」
これはシンコウから一方的に学んだ愛神光流と……
真の後継者と認められた後に、父から学んだ氷邑一刀流のことだろう。
当然ながら、氷邑一刀流は、習っていることも含めて秘伝である。
それを、刀も帯びず、構えもしない状態で見透かされた。
梅雪が反射的に腰に手を伸ばしてしまったのは、明らかに、『呑まれて』のことであった。
シンコウは愛おし気に微笑む。
「……しかし、あなたは、その二つを一統できていない。それは単純に、愛神光流の習熟度が足りないからです。……どうでしょう? わたくしであれば、あなたの前にある『剣術の壁』を打ち破る手伝いができますが」
「打ち破った先で貴様を殺すが」
「望むところです」
「こいつ無敵か……」
「それに、トヨに次なる段階の剣を教えたいと常々思ってもおりました」
「『ウメ』だ。二度と間違えるな」
「失礼。……この申し出は客観的に見て、あなたに得しかないものと思われますが。検討の余地もないほどでしょうか?」
「……代わりに、貴様は何を求める」
「あなたがいずれ、差し出すものを。……斬り合いを。強くなったあなたとの、胸躍るような斬り合いを。自ら育てた弟子を斬った時、わたくしは一体、どういった感情になるのでしょう? それも、稀有なる才を持つ、一番の弟子を斬った時……あるいは、斬られた時、わたくしの胸に去来するものは? ……それを確かめること以上の褒美など、あるものでしょうか」
「本当に気色悪い」
奇妙な変態にロックオンされることの増えた梅雪だが、やはりシンコウは抜きんでた変態であると再確認させられる。
だが……
(……くそ。ありがたい申し出ではあるのがムカつく……!)
確かにここ最近の梅雪は、伸び悩みを感じていたところであった。
氷邑家伝来の一刀流はそもそも剣士用に編み上げられた剣術であり、梅雪ではどうしても再現できないところが多い。
一方で愛神光流は、その開祖からして剣士ではない。
つまり梅雪が剣術使いとしての強さを求めるならば、シンコウに師事すべきだというのは、まったくもって真実なのである。
一目見て、多くを吸収した。
けれど、やればやるほど、すべてを吸収しきれていないという思いが、確信となっていく。
そこの間違い、不足を、シンコウから直接教えてもらえれば、これほどありがたいことはないのだ。
だが……
(この俺が……この俺が……! 殺したいと思っているこの変態女に!? 頭を下げて教えを乞う!?)
梅雪の感性は、この一連のことを『煽り』とみなしている。
そしてこのムカつく気持ちはきっと、シンコウに教えを乞うなら、そのあいだずっと付きまとうだろうし……
(シンコウに教わった技術を駆使してシンコウに勝利し、『よくがんばりましたね』などと言われてもみろ。そんな勝利、ムカついて仕方がないではないか!)
ゆえに梅雪の回答はこうなる。
「……あまり調子に乗るなよ、変態女。この俺を弟子にする? 思い上がるな」
「いらぬお世話──には、思えませんが。まあ、無理強いはいけませんね」
「人の家から奴隷を盗んだ女がどの口で!?」
「であれば、一方的な指南としましょうか」
シンコウが……
左手に握った二振りの刀。
そのうち、長い方を抜き放つ。
それは、かつてシンコウが使っていた白い刃ではなかった。
長さはおおむね同じ程度。
だが、一目でわかることが二つ。
その刀は、日本刀の柄と鍔をつけて拵え直された西洋剣であるということ。
そして……
あまりにもおぞましい気配が立ち上る、その黒い刃は……
「……貴様、その剣は」
「おや、ご存じなのですか? ええ、いつか大嶽丸様が、わたくしの刀を打つその時までのつなぎとして借り受けたものではありますが……銘を『フラガラッハ』。なんでも、異世界の剣とのことで」
武装禁止、争い禁止。
大嶽丸ランドの工房エリアという心臓部で、大嶽丸から託されたこの里の刀を抜き放つ。
そしてやろうとしていることは強制的な指南なのだ。
(常識がないのかこの女!?)
考えるまでもなかった。
ない。
周囲がどうこう、状況がどうこう、剣の出自がどうこう、相手の意思がどうこう。
そんなのを気にする女ではない。
すべては己の欲望のために──
そういった変態こそが剣聖シンコウ。
ただし、圧倒的実力のせいで、誰にも止められない変態である。
「安心してください。殺しはしません。……ああ、でも」
シンコウがぺろりと唇を舐める。
「わたくしの我慢にも、限界はあります」
「その限界値が低いことを自覚しろ阿呆が!」
梅雪も戦闘態勢に入る。入らざるを得ない。
あの女は『歩く』『話す』『食べる』などと同列に『殺し合いをする』という選択肢があるイカれ女。
戦いには心構えが重要だ。
心構えのある素人と、戦闘に入るまでに感情のボルテージを上げなければならない玄人であれば、素人の方が勝利する。
シンコウを表す表現として、多くの者が口にする言葉があった。
それすなわち、『常在戦場』。
そのあまりに自然に殺す姿は、戦いに行ったきり戻ってこられない逸脱者に他ならない──
誰よりも心構えという点で優位に立つ女が今、右手の一刀をだらりと脱力して持ったまま、梅雪へと歩み寄る。
……その時。
「我が剣」
じん、と耳から入って脳をゆさぶる、なんともおぞましい声が聞こえた。
……だが、それは、よくよく聞けば、鈴を転がすような若い女の声でもあった。
「我が剣、フラガラッハ」
声の主の姿は見えない。その声は、あたり一帯すべてが発生源であるかのように響いた。
……いや、実際に、そうなのだ。
梅雪の目が、周囲の神威を捉える。
いつの間にかあたりには黒い神威に満たされており……
その神威が集まり、梅雪とシンコウとの間を塞ぐように……
人型に、固まる。
「我が王──我が勇者より賜りし、我が剣……」
その人型は、さらさらとした黒髪の女だった。
腰まである長い髪からは、女が動くたび、黒い光の粒のようなものが舞う。
その女は体のラインにぴったり沿うような黒い鎧を身に纏っていた。
そして……
浅黒い肌をした、耳の尖った女だった。
「あの人との思い出の、我が剣……我が剣に、触れるなァ!」
唐突に出現した女は、右手に闇のようなものを凝縮させる。
と、闇のような神威は、神威でできた剣となった。
その女こそ、氾濫の主人に仕えた女騎士。
ルートによってはヒロインの一人となる、褐色の天狗……
いや、その原種である女は。
自分の剣を勝手に我が物かのように扱う不埒者へと、斬りかかって行った。




