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第11話「心をほどく2人の約束」  


 夕暮れ時の書斎――ほのかに染まるオレンジ色の光が大窓から差し込むなか、私は読書机に向かってぼんやりしていた。

 隣のソファには王太子ブレイディアが腰を下ろしていて、静かに本を読んでいた。


 この書斎はフローリアス家のなかでも静かな一室で、普段は私一人か侍女たちだけが訪れる場所。けれど今は、王妃ミランダの元を離れて私の家に滞在しているブレイディアが、昼間の外出の疲れを癒すように過ごしていた。

 「ずいぶんと落ち着く部屋だね」とブレイディアが小声でつぶやいたのを思い出し、少しだけ胸が暖かくなる。


 そんな空気の中、ドアをノックする音が響いた。


 「失礼いたします、お嬢様、殿下。夕食の支度が整いました」


 入ってきたのは侍女のリリアン。彼女の朗らかな声で、部屋に夕刻の空気が流れ込む。

 私は一瞬、ブレイディアの様子を窺う。朝食を彼は自室で取ったので、今度も一人がいいと言われたらどうしよう……。そんな不安がよぎるが、思い切って声をかけた。


 「……あの、殿下。もしよろしければ……夕食は一緒に、いかがでしょうか?」


 王太子を気遣いつつも、わたしの言葉はぎこちない。しかし、それでもブレイディアはしばらく考えるように瞳を伏せた後、小さく頷いた。


 「……わかった。せっかくだし、一緒に食べるよ」


 その返事に、思わず私の口元が柔らかくほころぶ。


 「ありがとうございます、殿下。それでは、行きましょう!」


 そうして、私たちはリリアンに案内されながら書斎を出た。




 


 フローリアス家の食堂は、大きなテーブルがあり、普段は私だけの食器が並んでいる。けれど今日の夕食は私とブレイディアの二人分が向かい合わせにセッティングされていた。

 蝋燭やランプの明かりがあたたかい光を放ち、テーブルには洒落た肉料理やスープ、サラダが盛られている。メイドたちが給仕をしながら、そっと見守る形だ。


 「うわぁ、すっごく美味しそう……!」


 私が思わず目を輝かせると、ブレイディアはソファチェアに座ったまま、静かな微笑で返してくる。

 いつものことながら、王子としての落ち着きが板についている。私は思わず背筋を伸ばしながら、「いただきます!」と言ってナイフとフォークを取った。


 一方、彼はまるで貴族の模範とも言えるほどの“完璧なテーブルマナー”で一口ずつ料理を口へ運ぶ。子どもらしくないほど優雅で、私がパクパク勢いよく頬張る姿とは対照的。

 私たちの差が少し可笑しくもあり、同時に「どれだけ厳しい躾を受けてきたのだろう……」と悲しさが胸をかすめる。


 「……殿下、お味はいかがですか?」


 「うん、美味しい。ありがとうフローリアス嬢」


静かに微笑む姿に、改めて見るととんでもない美少年だな….なんてことを頭の隅で考えていた。

そんな優雅で子供らしくない王太子を見ると、なんだか切なくもなってきた。なので私は突拍子もない提案をしてしまうのだ。


 「いえ……殿下が満足いただければそれで……。……あの、殿下。行ってみたい場所とか、ありますか?」


 「……行きたい場所?」


 ブレイディアは箸休めのようにナイフを置き、少し首を傾げた。

 「特には、思い浮かばない……。王城では外出なんてほとんどなかったし、いつも敷地内で過ごしてたから……」


 その冷めた答えに、私は何とも言えない寂しさを覚える。

 (子どもなら行きたいところがいっぱいあるはずなのに、王太子として暮らしていた彼にはそんな自由すらなかったんだ……)


 「それなら……もしご迷惑でなければ、わたしの家の近くに商店街があります。そこにご一緒しませんか? お店がたくさんあって、庶民の暮らしを感じられる場所です!」


 勢いを込めて提案すると、ブレイディアは「庶民の暮らし……」と小さく復唱する。あまりピンと来ない様子だが、好奇心はあるらしく、目の奥が微かに揺れた。


 「……うん。行ってみるのも、いいかもしれないね。……じゃあ、頼むよ、フローリアス嬢」


 「ええ、もちろんです、殿下! では、近いうちに……あ、そうだ、母に一応確認を取りますね」


 そう言って、私は心の中で小さくガッツポーズ。ブレイディアが少しずつ“知らない世界”に興味を抱いてくれたことが嬉しい。

 ちょうどその夜、母マチルダは帰ってきていたので、相談すると「安全には気をつけるのよ」と注意を受けたうえで了承してくれた。


 


 数日後、私は商店街へ行くための準備を進めていた。

 「本当に殿下と行かれるのですか?」とメイド長のシーナが心配そうに問うが、「しっかり護衛を連れていきます!」と意気込みを示す。

 そして、その“護衛”というのが、私服姿のロンドとディーオ。ふだん傭兵として武器装備を身につける彼らが“普通の若者”に見える格好をして、こっそり付き添ってくれるのだ。


 さらに問題となるのは、ブレイディアとエマの派手な髪色と瞳の色――人目を引きすぎるので、どうにか隠さないといけない。

 そこで執事長のグイドが取り出したのが、一見ただの手鏡に見える魔道具だった。

「これは魔法協会が公認した、『彩幻の鏡珠さいげんのきょうじゅ』という魔道具でございます」グイドはその手鏡を手のひらに載せて私たちに見せてくれる。宝石が嵌め込まれたフレームが優美な曲線を描き、ちょうど片手で扱いやすい大きさだ。

「こちらの魔道具のエネルギー供給の手段としては、魔石と呼ばれる石を使い、その内部に魔力を充填しては使用・消耗する仕組みが基本となります。 とはいえ、本品はそこまで大きな魔石を必要とせず、“鏡”に投影する程度の魔力消費なら、適度に充填しておけば十分長持ちしますよ」

 グイドは慣れた様子で魔道具の裏面を外してみせ、中に嵌め込まれた緑の魔石を私たちに示す。その表面には、細やかな魔法陣が刻まれているのが見える。 「魔石はここに収まっており、鏡に反射させる対象を“上書き”することで、色彩を変化させるわけです。ちなみに、事前に魔力を込めておけば数回分は使えますし、もし切れたら再度充填をすれば問題ありません。」

 私はぱちぱちと瞬きをして話を聞く。王太子であるブレイディアも、静かに口元を結んでいるけれど、その碧い瞳には興味の光が宿っている。


「そして、この彩幻の鏡珠の特性は、人体や物品の“色合い”を好きに変化させられること。 あくまでも魔力を用いた“幻影”のような上書きでして、対象の構造自体を変えてしまうわけではございません。そのため、生体への影響は軽微とされています」

 グイドは鏡の表面を指でそっとなぞる。まるで透明の幕を剥がすかのような仕草が、美しい手鏡の神秘を際立たせる。

「変更可能な色は、自然界に存在する範囲から幻想的なカラーまで幅広いですよ。例えば金髪を黒や茶色にしたり、銀髪を鮮やかな青にすることさえできます。 変更された色は数日~数週間程度そのまま維持され、また“解呪”の合図を与えればすぐに元の色へと戻っていきます。殿下のように目を引く金髪や瞳の色を隠すには最適でしょうね」

 私の視線が思わずブレイディアの金髪に向かう。確かに、このままでは街で目立ちすぎる。 普段なら「王子さま!」と人々がざわつきそうだし、王城が把握していない外出である以上、身の安全のためにもバレるわけにはいかない。


「使用は簡単です。これを手にして、『この対象をこういう色に変えたい』と明確にイメージしてください。そのうえで、対象を鏡に映すのです。 連続して何度も違う色に変えると魔力を余計に消費するのでほどほどがいいですが、お二人が一度変化させて維持するだけなら大丈夫でしょう。 どうぞ、まずは殿下からお試しください」

 グイドが丁寧に差し出す鏡を、ブレイディアがそっと受け取る。彼はその表面を覗き込み、小さく息を吐いた。

「へぇ……僕も魔道具を見たことはあるけれど、こういう“色だけ変える”タイプは初めてかもしれない。……よし、じゃあ茶色にしようかな、金髪じゃ目立つし」

 彼は少し恥ずかしそうにしながら髪を撫で、「焦げ茶……落ち着いた色合いで、瞳も同じトーン……」と念じるようにつぶやく。すると、鏡に映ったブレイディアの姿が淡く揺らぎ、金色の髪が波打つように色を失いはじめるのが見えた。

 「わあ……すごい……!」

 私が思わず感嘆の声を漏らすと、ブレイディアは少し照れ笑いを浮かべながら、「なんだか不思議な感じがするね」と言葉を返す。 わずか数十秒で、彼の髪は落ち着いた焦げ茶に変化し、碧い瞳も淡い茶色に見えるようになった。

 「……こんなにも簡単なのですね。……殿下、まるで普通の少年に見えます……」

 心底驚く私に、ブレイディアは複雑そうな表情を浮かべるが、悪い気はしない様子だ。 続いて私も、鏡に映して自分の銀髪を地味なブラウンに、赤い瞳を灰色に近い色合いへ変えてみる。少しずつ見慣れない姿が現れて、まるで別人になったみたい……。

 「あらあら、お嬢様も随分と雰囲気が変わりますね」 リリアンが小さく手を叩いて微笑み、私をくるりとまわして見る。「ええ、とても似合っていますわ。まさかお嬢様がこんなに素朴な色合いになるとは……!」

 「えへへ……変な感じだけど、これで街に溶け込めそうだね」


 グイドは最後に鏡を再び箱へ仕舞いながら穏やかに微笑む。 こうしてフローリアス公爵家の娘と“王太子であることを隠した私たちは、ごく普通の少年少女に姿を変え、商店街へ出かける準備を終えたのだ。


 


 馬車に揺られ、いよいよ“王太子と公爵令嬢+護衛+メイド”の旅がスタート。

 「殿下、大丈夫ですか?」と尋ねる私に、ブレイディアは小さく笑って、「今日は殿下じゃなくて“ブレイ”って呼んでくれていいよ、エマ」と言う。

 私は思わず「は、はい――」と敬語が出てしまい、ブレイディアに軽く笑われる。「だめだよ、タメ口にしないと身分がバレるよ」って。

 ――何とも落ち着かないけれど、こんなやり取りも楽しい。


 そして馬車が商店街に着いたとき、私の胸は期待で高鳴った。

 通りには色とりどりの屋台や露店が並び、活気に満ちあふれている。

 ロンドとディーオが周囲に気を配りながら先導するなか、私とブレイディアは通りを歩き、露店の食べ物や雑貨を物色して回った。


 「わぁ、この串焼き、おいしそう……ブレイディ…..ブレイ!食べてみましょうよ!....みよう!」


 「ふっ、うん。エマがそう言うなら……」


 敬語を忘れたり、タメ口を混ぜたりしながら、私とブレイディアは庶民の味を次々と味わう。

 屋台で渡された焼きたての串を頬張って「あつっ」と叫ぶブレイディアに、私もつられて大笑い。ロンドとディーオ、リリアンも後ろから笑顔で見守っている。


 (何だかブレイディアが普通の男の子みたいに見える……)


 そう思うと自然に微笑みがこぼれる。ブレイディアもふと周囲に目をやって、「……大道芸人……こんな芸があるんだ」とか、「こんなにいろんな店が並んでいるの、初めて見た」とか、いちいち驚いている。

 1時間ほど歩き回るうち、彼の目は輝きを増し、表情は子どもらしい活気に満ちてくる。

 その様子を見て、私もリリアンも安堵に似た喜びを感じた。彼がやっと子どもとしての楽しみを知ったようで、心が浮き立つのだ。



 

 しかし、賑わいのある商店街の外れに差し掛かったとき――突如、エマの耳にかすかな声が入り込んだ。


 「……助けて……」


 あまりにも弱々しく、すぐにかき消されそうな声。けれど、その声はエマの胸を鋭く突き刺した。思わず足を止め、声のする方へ視線を向ける。そこは、道が急に暗がりへと落ち込む場所。まるで大きく切り取られたように人々の流れからは外れていて、建物も木材が腐りかけている。にぎやかな往来との境目に、薄汚れた道が口を開けていた。


 「……あれは……」


 ブレイディアが、途切れがちな口調で呟く。

 周囲には、豪快に笑う人々や、次から次へと荷車を押す商人の姿がある。けれど、一歩先を覗き込めば空気の色ががらりと変わっていて、人の気配もまばら。


 あまりにもコントラストがはっきりしている。

 天国のように華やいだ表通りと、地獄のように沈む裏道とが、わずかな段差と暗がりで隔てられているのだ。


 「……あれ、子どもが倒れてる?」


 エマが息を呑む。薄暗い路地裏――その地面に、小さな子どもが力なく横たわっていた。年は自分たちとそう変わらないだろうに、骨ばった腕や脚が痛々しく、痩せこけた身体がまるで人形のようにくずれている。

 服はボロボロで、もはや衣類と言えないほど穴だらけ。髪は煤や埃で固まって、肌の色さえ血の気が失せていた。何より、その子の瞳は意識が遠のいているのか、うつろに微かに開いているだけ。


 「どうして……こんな……」


 ブレイディアも佇んだまま、眉を深く寄せている。まるで足元に氷が張りついて、そこから先へ動けないかのようだ。先ほどまでキラキラとした笑顔を浮かべていた“普通の少年”の彼は、いまや完全に凍りついているように見えた。


 ふと、倒れた子の唇が微かに震える。「た、助け……て……」その言葉はほんのかすかな吐息で、もしかすればエマだけが耳に捉えられたのかもしれない。


 ごくりと唾を飲み込み、エマは血が騒ぐように感じる。

 (救わなきゃ……! この子が、死んでしまう!)

 衝動が駆け抜け、彼女は路地裏へ一歩踏み出そうとした。だが、その肩をぐいと掴んだのは侍女・リリアンの細く冷静な手だった。


 「……いけません。お嬢様」


 リリアンの声がいつになく低く響く。振り向いたエマの瞳には、悲しそうな色を宿した侍女の表情が映った。

 「今日はフローリアス家の人間であることは伏せて来ています。護衛もロンドとディーオの二人だけ。……もしスラム街の人々に目をつけられたり、あの子を庇おうとして暴漢や闇商人が出てきたら、私たちだけでは対処しきれません」


 「で、でも……この子が……! 目の前で苦しんでいるのに……見て見ぬふりなんて……!」


 声を張り上げそうになるエマに、リリアンはさらに顔を曇らせ、細い声で言った。


 「お嬢様は、スラム街を甘く考えているのです。……あの子ひとりを助けたところで、その街全体はどうにもならない。むしろ“金を持つ貴族がどこまで援助するか”と知れれば、一斉に集られるかもしれません。最悪、暴力団のような集団に目をつけられ、殿下までも危険に晒される可能性があるのです」


 エマは頭が真っ白になった。確かに、ゲームや漫画で“スラム街”の設定を見たことはあったけれど、現実はそんな簡単なものではない。

 ただ食べ物を渡すだけで状況が変わるなら、誰も苦労しないはず……。ただの“善意” を垣間見せた瞬間に、逆につけ込まれて人質にされたり、暴力に巻き込まれたりする危険性がある。


 (私……何も知らずに駆け込もうとしてた。下手すれば、ブレイディア殿下をも……)


 まるで頬を打たれたような衝撃に、エマは足がすくみ、喉がカラカラに乾いた。隣にいるブレイディアがかすかに息を詰まらせているのを感じる。

 彼だって、倒れた子を助けたい気持ちはあるはずなのに、王太子としての身分も相まって余計に動きづらい。あまりの無力さが痛いほど突き刺さる。


 静寂が降りるなか、路地裏の奥の子どもは弱々しく指を動かしていたが、通りかかる人々は誰も見向きもしない。さっきまで眩しい笑顔を振りまいていた商人たちが、まるでそちらの世界だけをシャットアウトしているかのようだ。

 ここが“幻想”ばかりじゃない、本当の世界なのだとエマは思い知らされる。


 「……でも……放っておけない」


 震える声で、エマは祈るように呟きながら先ほど露店で買った紙袋を握る。すると、ロンドとディーオが後ろからそっと前に出る。


 「では、お嬢様、俺たちが行ってきましょう。無理はしない程度に……」


 ロンドは穏やかな目でエマを見て、差し出された袋を受け取った。中身は先ほど屋台で買ったまま、まだ食べきれずに残っているパンや焼き菓子だ。ほんの僅かでも、それが救いになるかもしれない。

 ロンドとディーオは足早に路地裏へ入り、倒れた子へ食べ物を与えて、しばしやり取りをして戻ってきた。


 「……なんとか、食べてくれています。あの状態では救急医師を呼んでも……スラムに医者は来ないかもしれない。子ども自身も、どこかに“家”があるのかさっぱり……」


 「そっか……ありがとう、ロンド。ディーオも……」


 エマは袋を受け取ってくれた二人に何度も頭を下げた。

 だが、心の痛みはまったく消えない。これでは一時の延命にすぎず、あの子は明日も空腹で倒れるかもしれないし、逆に食べ物を持っているのを狙った他の大人に襲われる可能性もある。

 そう考えると、胃がキリキリと痛み、まるで自分が偽善者のようだと責められる気分になった。


その隣でブレイディアは無言のまま、拳を握りしめていたが、やがてそっとエマの手を取った。


 彼の瞳は、あの王妃の虐待に耐えてきた悲しみともまた違う、社会の“構造的な闇”を見てしまった衝撃と憤りで揺れている。

 唇が苦しげに震え、真っ直ぐエマを見つめて呟く。


 「……僕が王になったら、絶対にあんな子たちを見捨てない国にする。……ほんの少しずつでも、変えていく……」


 その決意の言葉に、エマは瞳が潤んで大きく頷く。

 しかし同時に、いま何もできない自分がもどかしくて、こみ上げる悔しさに喉が詰まる。

 (王妃に虐げられながら、それでもこの子は先を見ている。……わたしも、なんとかしなきゃ……!)


 無言のまま、二人は手を繋いだまま馬車へ戻った。商店街での幸せな空気は、一瞬で消えてしまったような重たい気配が覆い、どこか寂しく呼吸が苦しい。


 




 帰宅してすぐ、着替えるためブレイディアと私はそれぞれ部屋へ戻った。

 ほどなくして執事長グイドが魔道具の解呪を手伝ってくれ、私たちは元の髪と瞳の色を取り戻す。なんとなく疲労感に包まれつつも、一日が無事終わったとに少し安堵する。

 ところが、メイド長のシーナが私の部屋に駆け込んできて深刻そうに言った。


 「お嬢様、大変です……! ブレイディア殿下が熱を出されたそうです。ただいま医師を呼んだのですが….」


 「えっ……!?」


 驚いて飛び上がり、私は殿下の部屋へ向かう。

 ドアを開けると、ベッドの上で苦しそうにうめくブレイディア。慌てて脱がせようとしたメイドが手を止めている。なぜなら、その身体に刻まれた無数の古傷に息を詰まらせていたからだ。


 「そんな…………」


 王妃ミランダの仕打ちがいかに壮絶だったか、それだけの傷跡が雄弁に語っている。

 私もシーナも言葉を失うが、すぐに「早く着替えと薬を!」と指示して、医師がこまめに体温を測り薬を飲ませる。

想像以上の傷跡に言葉を失った私は、医師とメイドたちの邪魔にならないようにソファーに座った。


 やがて、薬の効き目が出たのか、ブレイディアは静かに目を開けた。


 「……もう、大丈夫。……皆、退いてもらっていいよ」


 殿下の声に従い、メイドと看医師は部屋を後にする。シーナも私を気遣うように一瞥したあと、うなずいて部屋を出ていった。

 そして室内に残ったのは私とブレイディア、二人きり。



 


 ソファーに腰掛けて俯いている私を見て、ブレイディアは不思議そうに首をかしげて呼びかける。


 「……エマ? どうしたの」


 彼が朝とは違い、王太子の“殿下”ではなく“エマ”と呼ぶのは、あの商店街での会話がまだ意識に残っているからかもしれない。

 でも今の私は何も応じることができず、静かに涙を流していた。声が出ない。見たばかりの傷跡や、彼の小さな体が苦しむ姿が脳裏を離れない。

 ブレイディアは慌ててベッドから起き上がろうとするが、体の節々が痛むのか苦しげにうめく。それでもどうにか立ち上がって私に近づき、困惑の色を浮かべる。


 「な、なんで泣いてるの? 僕……もう大丈夫だよ?」


ゲームで見ていたブレイディアは所詮ゲームだった。可哀想だとは思ったが画面の向こうのことでそこまで感情移入はしなかった。

しかし、共に過ごし、共に笑い、共に笑った少年の痛々しすぎる姿と、そんな目にあった子供が、他の子供の痛みを苦しそうに見つめた日中の意思の強い優しい少年に涙が止まらないのだ。


 言葉を交わすうち、瞳がうるんだままの私を前に、彼はおろおろしながら手を伸ばして私の頭を撫でる。

 ――その優しさがまた胸を締めつける。私はついにこらえきれず、しゃくり上げながら口を開いた。


 「……殿下は、今までどれだけ辛かったんでしょう……。あんな人にずっと罵倒され.....あんな、傷まで...」


 ブレイディアは気づいたのだろう。自分の体を見たことを。苦しげな笑みを浮かべつつ、子供っぽさのない声で言う。


 「僕のために、泣いてるの……?」


「殿下は、幸せじゃないといけない!!誰よりも.....この国の誰よりも....!!あなたは幸せなるために生まれてきた人なんです!なのに....」


王国の王太子として祝福されがら生まれ、全てを持っている、幸福な人のはずなのに….


そう思いながらも、悲しみと悔しさで言葉が出ない。


 ブレイディアも目を伏せて、「幸せに……か……」と呟くが、その表情は苦しそうに歪んでいた。あまりにも子どもらしくない顔――私は見ていられなくて、衝動的に抱きしめる。


 「……幸せってのはですね……お日様の下を自由に歩いて、好きな物を食べて、大好きな人と笑い合って……そんな、当たり前の日常のことです!」


泣きながら自分の思う幸せを伝えるエマ、そうして、抱きついた腕を離してブレイディアの顔を見つめながら


「私が、殿下に幸せをあげます!!いっぱいいっぱい!もう嫌っていうまで幸せをあげるんです」


するとブレイディアは静かに涙を流し、絞り出されるような声が聞こえる。


「僕、今日が今までで一番......幸せだった.....」


 次の瞬間、ブレイディアの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。今まで見たことがない、魂の底からの嗚咽だった。

 それにつられて私もさらに声を上げて泣き、しばらくふたりはお互いをぎゅうぎゅう抱きしめ合いながら涙を流し続けた。



 


 どれほど泣いたか分からない。やがてブレイディアの体温が落ち着いてきて、私も嗚咽を小さくする頃には、夜もかなり更けていた。

 「もう寝なきゃ……」と気づいたとき、ブレイディアは小さな手で私の腕を握り、「行かないで……」と視線で訴える。


 結果、私たちはベッドの上で手をつないだまま、身体を寄せ合うようにして静かに目を閉じた。

 こんな光景、外から見たら“王太子と公爵令嬢のあり得ない同衾”かもしれない。でも今は、ただ彼がやすらかに眠れるように、私は側にいるだけだ。


 (殿下が……幸せになってくれるなら……それだけでいいや……)


 目頭が再び熱くなるが、疲れている身体が眠気を呼び、意識がふわりと遠のいていく。

 最後にちらりと見えた彼の顔には、小さな笑みが浮かんでいた気がする。何かから解放されて、安心しているような――そんな表情だった。


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