第10話「夜の悪夢と、王太子との朝食」
夜の闇が公爵家を包み、馬車に揺られて帰ってきた私たち――母、王太子ブレイディア、そして私――は、ひとまず翌日に詳しい話をしようと決めて、それぞれの部屋へ戻った。
いまは夜も遅いし、何より今日は内容が濃すぎた。ミランダ王妃の凄まじい罵声や、その場面を必死に止めに入った私の行動……。果たしてあれは正しかったのだろうか?
ベッドに身体を沈めたまま、私は雑然とした考えを巡らせる。
あの“ヒステリックな王妃”が、ずっとブレイディアを育ててきたと考えると背筋が凍る。しかもゲームの知識によれば、彼は学園入学までずっと王妃の支配下にあったはず……。
少なくとも今、彼はあの城から逃れられた。これは良い方向に進んでいるのかもしれない――そう自分に言い聞かせて、私はゆっくりと瞳を閉じた。
金色の髪の毛に、涼やかな茶色の瞳を持った少女が学園の大講堂に立ちすくんでいる。
視線を上げれば、ステージの上で堂々と演説をする王太子ブレイディア・ライタンド・ゲバリーンド。
金髪碧眼が鮮やかにきらめき、その少年が華やかな笑みを振りまくたび、周囲からは拍手と憧れの声が上がる。
(……ああ、これ、ゲームのプロローグだ)
舞台はライタンド魔法学園の入学式。
夢の中で私は、まるで“操作キャラ”のようにブレイディアを見上げ、心の声が聞こえる。「なんて優雅な王子様なのかしら。でも……どこか、冷たい――?」
場面が一瞬にして切り替わり、次のシーンへ。
学園の廊下では、ヒロインに、ブレイディアがやさしく声をかけてくる。
“あなたが困っているなら手伝うよ。だって僕は王太子だから”などと、柔らかな笑みで言いながら、ふとした瞬間に視線が鋭くなる描写――。
「(そう……ゲームの中で、ブレイディアは最初から腹の底に裏があると匂わされてたっけ……)」
私は客観的にその光景を見ている。どこか俯瞰するように眺めているという不思議な感覚。
頭が混乱するが、夢はどんどん先へ進んでしまう。
さらに場面が切り替わり、今度は学園の中庭だ。
そこには“悪役令嬢”のエマ・フローリアスが、意地悪な笑みを浮かべながら出てくる。
彼女は“ヒロイン”を高飛車に嘲笑い、こう言い放つ。
「庶民のくせに王太子殿下に近づくなんて! ……ブレイディア殿下は私のものよ!」
夢の中のエマは原作通りの性格の悪い存在で、ヒロインへあからさまな嫌がらせを始めている。
ブレイディアがそれを黙って見ている様子がちらりと描かれる。
彼は一瞬だけ苦々しげな目をするが、すぐに“仮面の笑顔”を浮かべて、何事もなかったかのようにヒロインへ微笑みかけるシーン。
そこには悪役のエマが「殿下、どうして私を見ないの!」と歯噛みする姿が映り、この“学園序盤”特有の三角関係が加速していくのが分かる。
次の瞬間、場面は中盤イベントへ飛ぶ。
愛情深い母と評判の王妃が、裏ではブレイディアを冷たく見下し、厳しく詰問しているシーン。
――ヒロインが「こんなことって……」と衝撃を受ける場面だ。
「(人って不思議だよね……笑顔の裏に何を考えているか分からない――)」
ブレイディアの独白が、夢の中で音声のように再生される。
その言葉に続き、彼の瞳が暗く曇り……“もし裏切るなら、覚悟してよ。僕は“二度目”の裏切りを決して許さないから。”という冷ややかな宣告が圧倒的な威圧感を持って迫ってくる。
私は夢の中なのに鳥肌が立ち、息苦しさを感じる。
再度、場面転換。
――今度は終盤。学園の一室で、ヒロインとブレイディアが対峙している。
ブレイディアはもう一切笑顔を見せず、異様な執着と怒りを剥き出しにしてヒロインを追い詰める。
悪役令嬢エマが陰謀を巡らせた結果、ヒロインが危機的状況に陥るが、ブレイディアはどう行動するのか……という、プレイヤーの選択に委ねられるクライマックスの分岐だ。
「君は絶対に僕を裏切らないよね。さもなきゃ……ね? ……すべてを失う覚悟があるなら別だけど」
ブレイディアの瞳は狂気じみた光を宿し、ヒロインへ手を伸ばす。その手はまるで鎖のように絡みつき、彼女をどこまでも縛りつけようとしていた。
背後には悪役エマが苦々しげに身を震わせ、ブレイディアのまなざしを一身に受けられないまま、結局自滅への道を辿るような映像がちらつく。
さらに視点が切り替わり、ほんの一瞬だけ別のエンディング映像が見える。
――ヒロインが他の攻略対象キャラに心を移し、ブレイディアが嫉妬に狂って暗殺未遂を起こしてしまう……バッドエンドの結末。
そこでブレイディアが「君も僕を裏切ったのか?」と憎しみをぶつけながら、血を吐いて倒れていく描写があり、ゾッとするほど悲惨だ。
(……ああ、そうだった。このゲーム、ブレイディアが死ぬシーンとか、プレイヤーも容赦なく破滅するシーンが多かったっけ……)
夢の中なのに胸がぎゅっと締め付けられる。
エマ=私が破滅を迎えるルートも映り、王太子の命を奪おうと暗殺者を差し向けた結果、誰も救われない惨劇になる――まるで地獄絵図のような最悪エンドがフラッシュバックする。
「……ん、んん……?」
微かな違和感で目を覚ますと、頬に冷たい感触が流れ落ちているのに気づいた。
手の甲でそっと触れてみると、涙。一筋ではなく、何本もの跡が濡らしているようだ。
「な、なんで……?」
ぼんやりと頭を振るが、はっきりとした夢の内容は思い出せない。記憶が曖昧で、ただ“胸の奥に妙な哀しみ”が広がっている感覚だけが残っていた。
(どうして涙を……? わたし、何か怖い夢でも見てたのかな……)
枕元に置いてあるハンカチで頬を拭いながら、夢の残滓を懸命に辿ろうとするが、どうにも思い出せない。
先ほどまでの景色は霧のように消えてしまっていて、ただ胸がしんと切なくなっている。
けれど、その寂しさよりも心を占めていたのは、ブレイディアのことだった。
(そうだ……昨夜はあんな事件があって、今はブレイディア殿下がわが家に滞在してるんだっけ……。)
考えながらベッドの端に腰を下ろし、毛布をぎゅっと握りしめる。
――あの王妃の怒声や、憎悪に満ちた表情が頭をよぎり、背筋がぞわりとする。
8歳の少年が、あんな女性に育てられてきたなんて……あまりにも悲惨だ。
でもいま、たとえ一時でも王城を離れられたのは、きっと良い方向への第一歩かもしれない。
夢の哀しみと昨夜の混乱に溺れそうな心を、一つずつ整理しながら、私はゆっくりと立ち上がった。
「……よし、殿下の様子を見に行こう。わたしがめそめそしていたって、何も始まらない」
深呼吸してリリアンに手伝ってもらいながら寝間着を脱ぎ、身支度を始める。
ベッドサイドにあった小さな鏡に映る顔はまだ少し眠たげだが、瞳から涙は拭われた。
“――今日も頑張ろう。”と自分に言い聞かせて、私は部屋を出た。
食堂へ行くと、料理を運んでいる使用人たちが「お嬢様、おはようございます」と笑顔で出迎える。
窓の外には朝の陽光が差し、眩しさに目を細めながら、「おはよう!」といつものように挨拶し返した。
しかし肝心のブレイディアがどこにも見当たらない。
「殿下はまだお部屋にいるの?」と尋ねると、執事長のグイドが申し訳なさそうな顔で答えてくれた。
「それが、殿下は少し体調が優れないそうで、“一人で食事したい”と……。心配もしたのですが、どうしても……と仰るものですから」
「え、そうなの……」
昨日の激動がたたり、朝から体調を崩しているのかも。
心配で胸が騒ぐが、だからこそ一人では余計に辛いだろう。私は決意を固めて、テーブルに並ぶクロワッサンやサンドイッチを見つめる。
「じゃあ、わたしが殿下のところへ行くね。こんなときこそ、一人で食べさせるなんて寂しすぎるから。――サンドイッチをバスケットに詰めてもらっていい?」
動揺する面々に向けてそう告げると、メイド長のシーナが「お嬢様、それは……」と心配そうな声を上げる。
だが私はきっぱり「大丈夫よ」と笑ってみせる。
“こんなに優しい使用人たちがいる家なのに、ブレイディアがひとりぼっちなんて悲しいじゃない”。そんな気持ちを伝えたいのだ。
シーナやリリアンは目配せしあって、「仕方ないわね」という顔をしつつ、「お嬢様、どうぞ無理はなさらないで」と言ってくれる。
私は素直に頷いて、バスケットに詰め込まれたサンドイッチや少量のスープを手渡されると、ブレイディアがいる客室へと急いだ。
ブレイディアが滞在している客室は二階の奥まった場所にある。
身分の高い客人などを想定した部屋らしく、家具も高価でシックな雰囲気。
そっとノックするが、返事はない。もう一度ノックしても反応がない。
(起きていると聞いたけど……出たくないのかな?)
思い切って扉を開けると――ブレイディアはテーブルに座り、一人でパンとスープを口にしていた。
「殿下、おはようございます。失礼しますね」
驚いた顔でブレイディアがこちらを見る。
その一瞬、「なんで来たんだ?」という表情をしたが、すぐに“あの”愛想笑いを取り繕って「フローリアス嬢……おはよう」と柔らかく挨拶した。
――私は心中で小さく息をつき、そのまま彼の隣の椅子を引いて座った。
ちらりと怪訝そうな目を向けるブレイディア。ただ、それでも笑顔だけは崩さない。
その妙な笑顔に私の苛立ちが募り、サンドイッチの入ったバスケットをテーブルへ置いたあと、思わず切り出した。
「……その笑顔、やめませんか?」
「.......何のこと?」
ますます作り笑顔をキープする彼に、私はハァと大きなため息をつく。
「わたし、殿下がそうやって無理して微笑むのを見てると逆に心が痛いんです。ここは王城じゃありませんよ? わたしの家ですし、殿下は前みたいに気を張らなくていいんです!」
するとブレイディアは表情を静かに戻し、「それもそうか」と呟いて首を竦める。
そこに微妙な沈黙が落ちて、気まずい空気が漂い始める。
どうにか会話を進めなきゃ、と私が考えていると、ブレイディアのほうから意外な言葉が飛び出した。
「……ねぇ、フローリアス嬢って、僕のことが好きなの?」
「は? な、何を……?」
あまりのストレートな問いに、私は目を瞬かせる。
ブレイディアは首をかしげたまま、どこまで本気なのか冗談なのか分からない顔つきで続けた。
「だって、こんなにも僕に構ってくる。普通なら“王太子さまの寵愛を得よう”とか、“権力を狙おう”とか、そんな下心があるんじゃないの? ……まさか本当に、下心がないの?」
「ないに決まっているでしょう! わたしは……殿下が困っていると思ったから、ただで行動したんです!」
勢いで言い切ると、ブレイディアは一瞬呆けたように沈黙し、しかし次第に「ふうん……」とおかしそうに小さく息を吐く。
「じゃあ、好きじゃなくても、まず僕が王太子じゃなくても、、同じ行動をするんだ?」
「はい、当然ですよ! 誰かが危険な目に遭っていれば、誰だって止めるはずです。……そう、わたしはそう思います!」
この純粋な言葉が信じられないのか、ブレイディアはほんの一瞬、衝撃を受けた表情を見せる。
――やはり彼は“誰かが無償で手を差し伸べる”ということを想定していなかったのかもしれない。
数秒の沈黙のあと、彼は寂しそうに「……それが普通なんだね……」と呟いた。
(殿下……。本当に、周囲に欲深い大人しかいなかったんだな。愛なんて知らずに、あの王妃と貴族の中で育ったのね……)
そんな刹那の哀しみを振り払うように、私は椅子から立ち上がり、勢いよく胸に手を当てて宣言する。
「……じゃあ、殿下が“誰を信頼していいか分からない”なら、わたしがその相手になってあげます! わたしは転んでも立ち上がる、会社員仕込みの……いや、なんでも……とにかく強いんです!」
途中で妙に本音が出かけたが、誤魔化して笑顔を作る。
ブレイディアは驚いた顔で私を見上げると、ほんの少し口角を上げて可笑しそうに笑った。
「ふふっ、そういえば前にも“友達になろう”って言ったよね。あのときは正直ピンと来なかったんだけど……」
そう呟いて彼は手を差し出してくる。“友達の契約でもするかのように”軽く握手を求める動作だ。
私は息を飲みながらも、彼の手をそっと握り返す。かすかな温もりに胸が高鳴るが、ブレイディアは優しい笑みをこぼした。
「………………。ええ、よろしくお願いします!」
朝食の残りを一緒に平らげながら、私たちはぎこちないながらも穏やかな空気を共有する。
(あぁ……こういう穏やかな朝を殿下に体験させてあげたかったのかも……)と、心底感じた。
その後、私はブレイディアを連れて屋敷を歩き回り、“公爵家のあちこち”を案内した。
大理石の床が続くホールや、華やかなシャンデリアが光る客間、そして屋敷を移動するたびに使用人たちが温かく迎えてくれる。
「お嬢様、おはようございます。……おや、こちらがブレイディア殿下ですね! 本当に大変でしたね……」
使用人の一人がにこやかに話しかけてくると、ブレイディアは最初少し身を固くするが、私と使用人の親しげなやり取りを横目に見て、驚いたように瞬きを繰り返す。
「エマお嬢様、今日はお庭を見に行きます? あ、殿下もいらっしゃるんですね、よろしければご一緒に……」
なんて提案され、私が「うん、いいね!」と返すと、ブレイディアは黙ったまま少し頬を染めている。
(彼にはこんな“気さくで優しい使用人たち”との触れ合いが新鮮なんだろうな)
庭に出ると、花壇を手入れする庭師や、風の魔法を使って落ち葉を集めるメイドが「おはようございます、お嬢様!殿下!」と丁寧に挨拶する。
私も「いつもありがとう」と声をかけ、その場を笑顔でまとめると、ブレイディアが「……とても明るい屋敷なんだね」と小さく呟く。
「もちろんですよ! フローリアス家はみんな仲良しなんです」と得意気に言うと、彼は「ふうん……」と柔らかく微笑んだ。
やがて、マナーと学習の講義を受ける時間が来る。いつもは私一人(と侍女)相手に教えてくれるエルネスティーナ先生が「殿下もご一緒に?」と驚きの声を上げたが、ブレイディア自身が「やってみたい」と言ったので、二人同席で聞くことにした。
――結果は、ブレイディアの圧勝。
歴史の年号や魔法理論について先生が難しい質問を投げても、彼は迷わず答える。私が黙々とノートを取るのとは対照的で、さらりと返す姿に先生までもが「殿下、さすがですね!」と大絶賛。
私のほうが赤面するくらいの賢さを見せつけられ、思わず「むむむ……」と悔しい気持ちになるが、同時に尊敬も湧いてくる。
(なんだか悔しいけど、殿下がこんなに優秀だなんて知らなかった……。私ももっと頑張らないと!)
授業が終わる頃には、エルネスティーナ先生もすっかりブレイディアのファンのようになっていたが、何より驚きなのは、ブレイディアが少しだけ楽しそうにしていること。
教科書を閉じるときに、彼が一瞬「ふふっ」と笑う様子を見て、私の胸は温かくなる。
夕方前、ひととおりのレッスンを終えた私たちは、書斎で休憩していた。
大きな書棚から適当に本を抜いてはめくる私の隣で、ブレイディアが興味深そうに色々眺めている。
「ここは祖父母が集めた蔵書が多いんです。魔法関連もあるし、小説もあるし、お好きなのを読んでいいですよ」
そう言うと、彼はちょっと「ありがとう」と呟き、小さな椅子に腰掛けてページをめくり始める。
(なんだか、昨日とはまるで違う。あんな事件の翌日なのに、今日をこうやって平穏に過ごせるなんて……)
私は心の中で安堵と喜びを感じる。
ブレイディアの表情はまだ少し警戒心を拭いきれていないように見えるし、王城でのトラウマがすぐには癒えないだろうけど、せめて今だけでも“普通の子ども”として過ごせたらいい。
「あ……あの。殿下、疲れてませんか? 今日いろんな場所を巡ったし、勉強もたくさんしましたし……休みたければ遠慮なく言ってくださいね」
私がそう声をかけると、ブレイディアは小さく首を振って、「大丈夫。……むしろ、こんなの初めてで面白かったかも」とささやく。
その頬がかすかに紅く染まっていて、8歳らしいあどけなさを感じさせる笑顔だった。仮面ではない、ほんの少し素直な笑み。
――それだけで、今日一日が報われた思いがして、私も思わず微笑む。
(よし。彼が心を閉ざしてしまわないうちに、もっともっと仲良くならなくちゃ。いずれ学園に入る彼を、ゲームみたいに悲惨な結末にさせないためにも……)
そう心に誓う私の耳に、夕方を告げる時計の鐘が聞こえてきた。
やがて軽く伸びをして立ち上がる彼に、私は自然な笑顔を向けて声をかける。
「さぁ、晩ごはんの時間になる前に、もう少し休憩しましょうか。……今日はお疲れさまでした、殿下」
するとブレイディアは「ありがとう」と静かに返しながら、私の顔をじっと見てまた笑う。
その笑顔はまだぎこちないが、嘘くさい仮面とは違う“素”の少年のものに近づいているようで、思わず私は胸の奥が温かくなるのを感じた。




