旅先は海なんて良いのかも知れない
元来溌剌としたソフィアナである。
旅をすると決めたら、もうワクワクが止まらない。
『海はちょっと遠いけど、でも馬で行けば3日で着くかも知れない。そうしたら1週間を超えてしまうかな。あ、でももう気にしなくても良いかも知れないし……オフシーズンだけど、返って静かでゆっくり観光出来るのも良いわね』
馬車で行く発想が元々ないソフィアナは、何度も大丈夫なのかと不安気に確認してくるジーナを急がせて、荷造りはあっという間に完了する。
旅先でパーティーに参加する筈もなく、高価なドレスなんて不要な旅は、荷物も軽いのだ。
「あの、奥様……本当の本当に、旦那様にお会いしなくても大丈夫なんですか?」
馬小屋までついてきたジーナが、再度確認する。
「大丈夫大丈夫、旦那様は元々私の動向なんて気にもしてないわ」
そう言ってにっこり笑うソフィアナに、ジーナは閉口してしまう。なんだか、今日の主人の様子がおかしい。けれど、朝のあのゴシップを考えたら、心中穏やかではいられないのもまた理解出来た。
「そんなことはございません。旦那様はいつも奥様のことを考えておいでですよ」
そう言いながら、やんわり馬の手綱をソフィアナへ渡さないようにしているのは、執事であるヘンロックである。
女性一人旅なんてとんでもない。ずっと旅に行くのは反対しているのに、今日の主人は一向に足を止めてくれず、額からは焦りの汗が滲んでいる。
当主がいない間に夫人が行方不明なんて、長年世話になっているヘンロックですら物理的に首が飛ぶ。
そんな執事の戦々恐々な雰囲気を気にも留めず、ソフィアナはヘンロックが握りしめている馬の手綱を無理矢理に引っ剥がした。
ヘンロックは中年から初老へ差し掛かっているものの、背は高くそれなりに力はある。けれど、不意とはいえ、あっさりと手綱を奪われて驚いた。
ソフィアナの小柄な体躯のどこからそんな力があるのか、とにかく力強かった。
2人が驚いている間に、ソフィアナはひらりと馬に跨ってしまう。
「ああ!奥様!!わたくしが首を切ら……旦那様に叱られてしまいます〜!!!」
「奥様!せめて騎士団をお連れください〜!!」
そう言って追いかける2人を無情に置いて、ソフィアナは満面の笑みで馬を更に走らせる。
「大丈夫〜!手紙も置いてきたし、武器もお守りも全部持ったから〜!!」
振り返りそう叫ぶと、更に馬は速度を上げ、その後ろ姿は小さくなってしまった。
ヘンロックは「奥様〜!!」と叫んだが、その声は届いていない。
ソフィアナは嫁いでから、初めて自分から外へ飛び出した。
仕事でも、街の視察でもない。窮屈なドレスを買いに行くでもない。
初めての自分の為だけの時間。
街並みを大きく迂回して、いざ遥か遠く海へと続く街道へ出た途端、向かいから猛スピードの馬が前からこちらへと向かってきた。
なんだか見覚えのある人影と馬だと思いながら、横目で確認する───
そこで馬上の相手とパチリと視線が勝ちあった。
「…………!」
「っ?!ソッ……!!」
その刹那、ソフィアナは脱兎のごとく更に馬を加速させた。
「えっ?!ちょっと、え?!え?!」
それ違った彼は、自身もスピードが出ていた為にUターンが出来ないで、馬上でバタバタしている。
「ソフィアナ?!」
すれ違った御仁は、朝から話題沸騰中のソフィアナの旦那様。エリオールだったのだ。
『なんでいるのよ〜?!』
王都にいる筈の旦那様である。
まさか領地に戻ってくる筈がない。
『早く逃げないとっ!!』
ソフィアナは心臓が早鐘を打つのを、服の上から片手でぎゅっと抑え、ただひたすら前を見て走り去った。
ソフィアナは今朝の新聞のあまりの内容で忘れていたのだ。
王都の新聞は、速達でも2日遅れで届くということを。