極東のゾンビアポカリプス 1
ゾンビアポカリプス欲が急に出てきちゃって...
俺が体育館に入ってから、もう何時間が経ったのかは分からない。
天井に吊るされた非常灯が、微かにオレンジ色の光を落としていた。誰も声を出さない。咳払い一つが、やけに大きく響く。
ここには今、三十数人の人間がいる。赤ん坊を抱いた若い母親、骨の浮いた老人、目を合わせようとしない若者。みんなそれぞれ、自分の世界の中に閉じこもっていた。
体育館の床には、毛布や段ボール、鞄、布団、濡れた靴が雑然と転がっている。どれも使い込まれたように見えるのに、持ち主がそこにいる気配がない。いや、いるにはいる。けれど、“生きている”という現実を、できるだけ小さく、静かに扱っているように見えた。
会話も、目配せも、笑い声もない。ただ、死を遠ざけるように、無言で縮こまっているだけ。
俺も、たぶん同じだった。この町に来たのは偶然だ。交通が止まって、高速も潰れて、歩いてここにたどり着いた。道中で出会った人間は、もう生きてはいない。
避難所と書かれた張り紙を見つけた時、心底ホッとしたはずなのに──今は、まるで棺桶の中でじっと腐敗を待っているような気分だった。
……そして。 視界の隅に、それはいた。 毛布の端がめくれた右腕。 腐りかけた果物のような血管。 見てはいけないと分かっていたのに、目が離せなかった。
白いシートを被せられたその身体には、誰も近づこうとしない。
腕は不自然にねじれていた。関節の角度が、明らかに人の形を逸脱している。
皮膚はまだ“肉色”の名残があったが、部分的に紫がかり、血管が腐り始めた果物のように膨れていた。顔は見えない。けれど、鼻を突く異臭がその存在を主張していた。 腐敗臭とも違う、血と鉄と胃 液を混ぜたような匂い。 吐き気が込み上げるのを、何度も唾を飲み込んで誤魔化した。
その死体のすぐ隣に、泥まみれのリュックサックが転がっていた。
中身を誰も確かめようとしないのは、そこにあるのが“荷物”ではなく、“汚染された死者の一部”だと思われているからだ。
それでも俺は、そこから目を逸らすことができなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
体育館の床がミシリと鳴る音に、周囲の人間の視線が一斉に刺さった。
誰も言葉を発しない。でも空気が変わる。「まさか」「まさか」「まさか」そんな声が、脳内で勝手に再生される。
俺は、歩いた。死体の傍まで。
血溜まりを踏まないように気をつけて、それでも靴の裏には何かがくっついた感触があった。
膝を折り、そっとバッグのストラップに指をかける。
重い。というよりも、手のひらに伝わってくる“死”が重かった。
ぐ、と息を詰めてバッグを引き寄せた瞬間。背中に冷たい視線が突き刺さった。
振り返らなくても分かる。みんなが、俺を見ていた。「なんてことを」「あれを触った」「あいつ、もう駄目だ」そう言っているような沈黙。
俺はバッグをそのまま肩にかけた。そして、無言で自分の場所へ戻った。
誰も何も言わなかった。でも、もうこの避難所の中で、俺は“汚れた人間”になった。
誰にも見られていない場所なんて、体育館の中には存在しなかった。壁に背を向けて座りながらも、視線のいくつかは、まだ俺に残っている気がした。
バッグはずっしりと重かった。持ち上げたときは気づかなかったが、こうして改めて膝の上に置いてみると、中で硬いもの同士がぶつかり合う微かな音がした。
ファスナーに触れる指先が、震えていた。緊張のせいか、それとも恐怖か。あるいは、死体に触れたという現実が遅れて襲ってきたのかもしれない。
ゆっくりと、音を立てないようにファスナーを引く。けれど、それでも“ジャッ”という金属音が体育館の空気を震わせた。
反射的に顔を上げる。誰かがこちらを見ているかと思ったが、全員が目を伏せていた。関わりたくない。そういう空気だ。
中には、乱雑に詰められた衣類や、濡れたタオル、折りたたまれたレジ袋。その下に、黒い樹脂製の筐体が、横倒しになっていた。
手に取る。四角い、本のような形。片側にスピーカー穴。そして、上部にアンテナのような細い棒が折りたたまれている。
無線機。
型番らしき印字は、擦れてほとんど読めない。表面には、丸い音量ダイヤルと、カチカチと動くチャンネル切り替えのツマミ、そしてごく小さな液晶画面がついていた。
画面は真っ暗。でも、ほんのわずかに電源マークの輪郭が浮き出ているようにも見えた。
親指が小さなスライドスイッチに触れたとき、ようやくそれが電源だと気づいた。
こんな機械、まともに触ったことなんてない。それでも──なんとなく、まだ使える気がした。
試しに、スイッチを押し上げてみる。
……ザーッ……
唐突に、スピーカーからノイズが鳴った。驚いて手を離しかけたが、慌ててボリュームダイヤルを回し、音を絞る。
誰かに聞かれたか? 顔を上げると、二人ほど、こちらを見ていた。だが、すぐに視線を逸らされる。“また何かやってる”そんな表情だった。
無線機はまだ動いている。液晶にうっすらと「CH06」という表示が浮かんでいた。それが何を意味するのかは、俺には分からなかった。
日が傾いてきたのか、体育館の中は徐々に影が濃くなってきた。
非常灯は心許なく、黄ばんだ明かりの輪郭だけが天井に滲んでいる。
時計がない。携帯も使えない。だから、夜が来たのか、ただ空腹なだけなのかさえ分からない。
三十人余りの人間たちは、それぞれの場所で黙って身を伏せていた。
最初は、「声を掛け合って励まそう」とか、「希望はある」とか言っていた人たちも、今はもう誰も口を開かない。
顔色は悪く、目の下には濃い隈ができ、うずくまるようにして座る姿ばかりが目に入る。
隣の親子連れの子供が泣くのを我慢しているのが分かる。喉の奥で震える音が、静寂の中ではっきりと聞こえた。
咳払い一つにも、無言の「やめろよ」という視線が飛ぶ。
ここでは、音を立てる者が“死に一歩近づく”。
少し前までは、咳をしたら「大丈夫?」と声をかけてもらえた。
今は、咳をした者のほうが、謝らなければならない空気になっている。
体育館の隅で、毛布をかぶったまま動かない若い女性がいた。
顔は見えないが、何度も膝を抱えて身を小さくしている。
股から滲んだであろう赤い染みが、うっすらと広がっていた。
誰も見ようとしない。
気づいていないふりが、今ここでの優しさだと信じているようだった。
誰かが小声で呟いた。
「……いつまで……」
それだけだった。
けれど、その言葉がやけに重たく響いた。
俺は、手元の無線機を見た。
液晶に浮かぶ「CH06」の文字は、さっきと変わらない。
ノイズも、止まっていない。
その音に集中しようとする。
ガシャッという金属音が響いた。
顔を上げると、正面入り口付近で中年の男が何かをいじっている姿が見えた。
発電機だった。
男は慌てたように何度もスターターを引いている。
「やめろ!」
誰かが叫んだが、もう遅かった。
──ブォォォォォオオオオオン!!!!!
体育館中に爆音が響き渡った。
一瞬の静寂の後、体育館の外から、重く湿った足音が大量に迫ってくるのが聞こえた。
「っ……! 来た……! 逃げろ……っ!」
その一言で、体育館内は一瞬にしてパニック状態に陥った。
ドアが揺れていた。
壁がきしむ。
外にいる“それ”の数が、明らかに増えていた。
ガン、ガン、ガンッ……!
押し寄せる圧力に、観音扉の隙間が小刻みに震え、かんぬきがわずかに上下する。
「来るぞ!!」
その一言が引き金になった。
人々は一斉に動いた。
まるで堰を切ったように、出口へ向かって押し合いへし合い始めた。
「ちょっ、押すなって! 痛い、押さないでよ!」
「やめろ、子どもが──ッ! そっちじゃねえ!!」
「なんでこっち来るんだよ! ふざけんな!!」
悲鳴、怒鳴り声、罵声が交錯する。
叫びながら、誰かが誰かを突き飛ばす。
「通せよ!! どけや!!」
「クソがっ、邪魔すんな!!」
「置いてかないでぇ!!」
誰かが転び、鈍い音を立てて頭を打つ。 荷物が潰れ、悲鳴が重なる。 子供の泣き声と、大人の怒声が交錯する。 ペットボトルが転がり、誰かの足元を滑らせた。 もはやそこに“人間らしさ”はなかった。
誰も誰の顔も見ていなかった。
ただ、自分が逃げることしか考えていなかった。
俺は動かなかった。
むしろ、動かないという選択をした。
ゾンビが“音”に反応するなら、この騒ぎに釣られて群れごと体育館へ雪崩れ込んでくるはずだ。
だとしたら、彼らが真っ先に狙うのは、叫びながら逃げる群れのほうだ。
俺の頭の中には、もうひとつの光景が浮かんでいた。
――“通り過ぎる”音。
人が、ゾンビが、地響きのような足音を残して、この場所から去っていく可能性。
それに賭けるしかない。
俺は舞台の前にしゃがみ込んだ。
壇上の下に並ぶ、大きな木製の引き出し。
折りたたみ椅子やマットがぎっしり詰められている、舞台下収納だ。
一番右端の引き出しに手をかけ、できるだけ音を立てないようにゆっくりと引いた。
古びたレールがギギ……と擦れた。
中は暗く、埃っぽく、木の匂いがこもっている。
奥行きは十分だ。
椅子とマットの隙間を押し広げて、身体を無理やり押し込んだ。
背中と頭がマットに触れて汗が滲む。
足は縮こまって、引き戸の内側ギリギリに収まった。
最後に、扉を手前に引いて、静かに閉じた。
カタン……と音が鳴ったが、叫び声と怒鳴り声の中では誰にも気づかれなかった。
真っ暗だ。
空気が重い。
でも、ここなら今は安全だと思えた。
あとは、音を聞くしかなかった。
……ドン。
ドンッ。ドドンッ。
床が揺れた。
引き出しの奥、俺の背中に当たる木の板がかすかに鳴った。
空気が振動して、皮膚の上を何かが這うような感覚。
爆発音に近い破砕音が鳴り、ドアが、いや壁ごと、壊れたのが分かった。
ドォン!!
その瞬間、一気に群れが流れ込んでくる音。
ドタドタドタッ! ドドドドドドッ!!
走っている。
這っている。
つんのめるように、なだれ込んでいる。
うめき声。
「ヴ……ア……」
それは最初、少し遠くに聞こえた。
だが――
すぐだった。
ゴンッ!
引き出しの“反対側”から、何かがぶつかった音。
木がわずかに軋む。
音の発生源が、すぐそこにある。
目と鼻の先、この薄い仕切り一枚の向こうで。
ガサ、ガサッ……バタン。
椅子が倒れる音。
引き出しの中にいる俺の足の裏に、その振動がわずかに伝わる。
そして――
「やめて……たすけ……」
女の声。
かすれて、詰まって、それでも言葉になっていた。
「たすけ、て……」
その声が、眼前から聞こえた。
助けられる距離だった。
でも俺は、ドアを開けなかった。
開けられなかった。
そのあと、濡れた音が続いた。
ぐしゃ、べちゃ、ぶち……
もう、何も聞こえなかった。
木の仕切りのこちら側だけが、まだ生きていた。
読んでてくれてありがとう