女商人は、倍給傭兵にだけ夜を売る
「酒だよ~酒はいらんかね~」
日も傾いて戦も終わり、今日を生き延びた傭兵達が戻って来ている宿営地に女の声が響く。
その声が響けば歓声が上がり、上半身裸となって汗を拭き泥を落としていた男達から口々に注文が殺到した。
「おう姉ちゃん、こっちにワインを二杯だ!」
「蒸留酒はあるか、きっついのをくれよ!」
「あいよ~、ちょいとお待ちあれ~! ワインのお客さん、スパイスは要るかい?」
女の言葉に、注文した男の顔が明るくなる。
傭兵という軍の中でも下っ端も下っ端な連中に売りつけられる酒だ、味なんて二の次、酔えればいいだけの安酒でしかないが、それでもスパイスやハーブで誤魔化せばまだましというもの。
生き延びた末のお楽しみとしては、上等な部類になるのだ。
「気が利くな、そいつももらおうか!」
「毎度!」
そんなやり取りがされた後、木製の粗末なジョッキを受け取った女は背負った小ぶりの樽を下ろして蓋を開け、ひしゃくで汲んだワインを注いでいく。
歩き仕事に慣れているのだろう、小柄ながらもしっかりとした体つき。
皮膚の厚くなった手でグラスを渡しながら愛想笑いを浮かべる顔は、すこぶるつきの美人ではないが何とも愛嬌がある。
「姉ちゃん、夜の方は売ってんのか?」
であれば、戦が終わったばかりで昂ぶっている男からこんな声がかかるのも日常茶飯事。
そんなことにはすっかり慣れているのか、代金を受け取りながら女はケラケラと笑って返した。
「悪いねぇ、倍給様の予約済みなんだ」
「なんだ、またグスタフの旦那か? じゃあ仕方ねぇなぁ……ま、酒が美味いからいいとしようか!」
空振りしたのを恨むこともなくワインに口を付けた男は、高々とジョッキを上げる。
それが看板となったか、注文が次々と飛び込み、女はそれに応じて酒を売りスパイスを付けて金を受け取ってとてんてこ舞い。
十リットルはあったであろうワインも、ちょっと値の張る蒸留酒もあっという間に売り切れてしまった。
「悪いね、今日はもう売り切れだよ! ご愛顧に感謝、明日もまたご贔屓にってね!」
女が宣言すれば、買えなかった者からは不満の声が上がり、買えた者からは既に出来上がっているのか、調子良く応じる声が聞こえる。
それぞれに愛想良く手を振った女は、一先ず荷馬車へと向かって歩き出した。
その後ろ姿を酒の肴にしながら、二人の傭兵がぼやく。
「ちぇ、ま~た予約済みかよ、倍給様はいいねぇ」
「羨ましいったらなぁ。けど、金持ってるだろうしなぁ」
「んじゃぁお前も前に出るか?」
「そいつはご免だから、こうしててめぇのツラ拝みながら飲んでんだろうがよ」
はぁ、と溜息を吐きながら男はジョッキを煽った。
倍給傭兵、と呼ばれる傭兵がいる。
もっとも危険な最前列に並ぶ代わりに、名前の通り倍の給料をもらう傭兵のことだ。
普通の傭兵でも、その給料は一般的な労働者の四倍から五倍ほど。
さらにその倍ともなれば、平民としてはかなり高給取りの部類である。
もっとも、その待遇が明日も知れぬ身になることと釣り合うかは、本人にしかわからないが。
ともあれ、ここに集まっているのはそんな給料に釣られた男達であり、そのおこぼれをもらおうとする連中だ。
何しろ軍隊とは生きた人間によって構成された生活集団でもあり、生きるためのあれこれが必要となってくる。
例えば食事を用意してくれるような気前の良い雇い主はいないから、自分達で用意しなければならない。洗濯だなんだも必要だ。
街中で宿営するのであれば何とかならなくもないが、そんなことは稀であり、大体はこうした野宿生活。
そのため、妻や雇った女を帯同してくる傭兵も少なからずおり、そんな女達が共同で料理をし、洗濯をし、時に負傷者の手当てをし、と面倒を見る光景も珍しくはない。
そして、それでも手が回らない部分を狙って商人達もやってくる。
例えば、先程のような酒。もちろん自前で持ってくる傭兵もいるが、どうしたって持ってこれる量は限られるから、戦闘が長引けばあっという間に尽きてしまうものだ。
食う物にしても、世話をしてくれる女を連れてこられる傭兵ばかりではない。
そんな傭兵達の需要を賄う彼らのことを、酒保商人という。
意外かも知れないが、戦場のすぐ側までやってくる酒保商人には、女もそれなりにいた。
何しろ、こんな場所では『女』が金になる。
単純に夜の需要もあるといえばあるのだが、そうでなくとも女であることに価値があった。
考えてもみてほしい。金勘定が得意そうな男から注いでもらうのと、キビキビ働く女から注いでもらうのと、どちらの酒が美味いか。答えは、言うまでもないだろう。
言わば心の癒やしであり、だから彼女らに無体を働くような真似はするなという不文律もあるほど。
女酒保商人は時に酌婦であり、娼婦でもあり、それでいてアイドルでもあったのだ。
そういった経緯で形成された、突如出現したテントばかりの村、のような光景の中を、先程の女商人は歩いていた。
設置されたテントを一つ一つ確認するように視線を動かしていた彼女は、やがて目当てのそれを見つけたのか、顔をほころばせながら少し足早になる。
「グスタフの旦那、いるかい?」
一応気を遣ってテントの外から声をかければ、少し身じろぎするような気配。
それから少しばかり衣擦れの音がして、それから声が掛かった。
「エッダ、また来たのか?」
「また来たのかとはご挨拶だねぇ」
呆れたような声を気にした様子もなく、エッダと呼ばれた女商人はテントの中へと腰を屈めながら無遠慮に入っていく。
見れば、グスタフと呼ばれた男はシャツ一枚だけのラフな姿で寝床に腰を下ろしている。先程の衣擦れの音は、シャツを着た時の音だったようだ。
乱雑に切られた短い黒髪、顎には無精髭。鋭い目つきだが、エッダへと向けるそれは若干柔らかいように思えなくもない。そこかしこに傷痕の残る筋肉質の身体は、いかにも歴戦の傭兵と言った姿。恐らく、下町にでも行けば色々な意味で女が放っておかないだろう。
エッダが軽く鼻を鳴らすも、女を連れ込んだ後のような匂いはしない。
そのことに、少しばかり安堵する。
「また予約済みだとか言ってきたんじゃないだろうな?」
「いいじゃないか。押し売りだけど、買ってくれるんだろう?」
咎めるように、それでいて他人に聞かれぬように声を落としたグスタフへとクフクフ笑って見せながら、ついには四つん這いになってエッダは近づいていく。
なんだか、獲物に近づいていく猫を思わせなくもない。
そんな彼女へと、グスタフは苦笑を見せる。
「毎度俺ばかりっていうのも、恨みを買いそうなんだが」
「ならそいつらに言っておいておくれよ、女の抱き方を覚えろって」
「……そこまで言えば、刺されかねないぞ」
「違いないねぇ」
悪びれた様子もなく、グスタフの膝に頭を乗せたエッダがころりと寝転がった。
そういえば犬が腹を見せるのは服従で、猫が腹を見せるのは気を許している証だったか。
そんなことを考えながら、グスタフはさてどうしたものかと考える。
エッダの髪に触れるか触れまいか。迷いを見透かすような目が、グスタフへと向けられていた。
「でもさ、ほんと乱暴なやつは酷いんだから。あんたくらい丁寧なやつを、あたしは知らないよ」
「……そんなにか」
「うん、じゃなきゃこうして毎晩毎晩転がり込まないよ? ま、倍給様の寝床に押しかける馬鹿もいないだろうから安心ってのもあるけどさ」
実際、倍給傭兵、つまり最前列に立つ仕事を長年務めているグスタフ相手に喧嘩を売ってくる傭兵など、いないだろう。
単純に実力が違うから殴り倒されるのが目に見えているというのもあるし、万が一グスタフが怪我でもすれば『お前が代われ』と最前列送りになって、命がいくつあっても足りないところ。
更に『旦那』と傭兵連中からも一目置かれているグスタフに怪我をさせたとなれば、危地に放り込まれても助けの手は差し出される見込みはない。
そんな危険を冒してまで何人も居る女酒保商人の一人を無理矢理どうこうしようなどという命知らずは、いるわけもなかった。
ただ、そのエッダの言い草はグスタフからすると少し面白くない。
「安心して眠れるかはわからんぞ?」
「ありゃ、その気になってくれた?」
若干声の調子が変わったのを感じ取ったエッダが、仰向けのまま視線をグスタフに向けてくる。
揶揄っているような、期待しているような、そんな視線。
彼女の思惑通りになっているのはわかっているが、このまま調子に乗らせておくのも気に食わない。
「その気になった分、今日は優しくないかも知れんぞ」
「んふ。別に、あんただったら構わないよ?」
「……そうか」
凄んでみたけれど、返って来たのは誘うような瞳。
どうやら、口で敵う相手ではないらしい。そう思うのも、もう何度目か。
そんなことを考えながら、グスタフはエッダを寝床へと押し倒した。
なお、一通り事が済んだ後「これで優しくないんだ?」とエッダが上気した顔でグスタフに尋ね、ならばと更に励んでしまったため、翌朝エッダは満足しつつも腰の痛みを抱える羽目になってしまったりもしたのだが。
それでも日は昇り、新たな一日が始まる。
戦争という日常が。
炊事場に湯気が立ち上り、食べやすさだけを重視した朝食が作られ、傭兵達が「まずい」だの文句を付けながらそれをかき込み腹へと入れて、出陣の準備へと駆け出していく。
それを見送った女達は女達で、自分の食事を済ませると後片付けだ洗濯だと割り当てられた仕事で忙しない。
酒保商人は昨夜の売上を計算しなおし、ズレがあれば頭をかきむしり、儲けが大きければニンマリ笑った。
あるいは品薄のものを仕入れ直そうと、近くの町へ馬車を走らせる者もいる。
肉と酒はいくらでも売れるし、疲れた傭兵達は甘い物も求めたりするのだから、欠かせない。
戦は昼前に始まり、夕方には終わることがほとんど。
十分町との往復が出来る時間ではあるが、仕入れに手間取れば間に合わない。
ここが腕の見せ所、仕入れ値を交渉することもあれば、足下を見られた値段でも気にせず買い占めることもある。
物によっては倍の値段で売ることも出来るからだ。
何しろ相手は命知らずの傭兵ども、金離れの良さだけは天下一。
宵越しの金は持たぬとばかりに金を払って飲む、打つ、買う。
だから、細工のされたトランプなども密かに人気だ。口の堅い者にしか売れないが。
そんな仕入れ組の馬車に便乗して、エッダもまた酒の仕入れ直しに来ていた。
「くぅ~、わかった、あんたにゃ負けたよ、その値段で持ってけ!」
「ありがとさん、いい酒屋だって仲間内に言っとくよ!」
「安くするからとだけは言ってくれるなよな!」
「もちろんさ、味が良いからお願いしてんだしね!」
酒屋のおかみが言えば、エッダが笑顔で頭を下げる。
昨夜は完売御礼、一樽ではとても足りない売れ行きだったとなればしこたま仕入れたいところだろう。
だが、彼女が買ったのはワインを二樽と蒸留酒を一樽程度である。
「そんだけで足りるのかい? うちの酒なら、飲めば飲んだだけ欲しくなると思うよ?」
「だからさ。また飲みたいと思ってたら、なんとか生き延びようとすんじゃないかってね」
「は~ん……なるほどねぇ、健気なもんだ。なんだい、傭兵連中にいい人でもいるのかい?」
「んふふ、ま、そんなとこ?」
からかうようなおかみの声に、にんまりとした笑みを返す。
こんな話は、男連中の居る前ではちょいと出来ない。その程度の女心は、エッダにもあった。
それから適度に惚気話をしてから、帰りの荷馬車に荷物を積み込んで、宿営地へ。
今日も今日とて日が暮れて、傭兵どもも帰ってきた。
もちろん、そこにグスタフもいる。
ほっとした顔になりそうなのを商人の顔で隠して、またエッダは声を上げる。
「酒だよ~酒はいらんかね~。
今日はいつもの値段で一級品をご提供!
ただし一人二杯、二杯までだよ~!」
「お? なんだ姉ちゃん、珍しいこともあるもんだな!」
「そりゃね、いつも同じじゃ飽きちまうだろ?
さ、どうするね、一人二杯までの限定品だ!」
「もちろん買うともさ、二杯もらおうか!」
声をかけてきた傭兵に機嫌良く応じれば、すぐに気前のいい声が返ってきた。
それを見ていた周りの傭兵達も次々に注文し、エッダの周りはあっという間に人だかりが出来る。エッダの狙い通りに。
これで限定品の酒が売れて味を占めれば、傭兵達はまた飲みたくなる。
すると今度は荷馬車持ちの商人にこの話をして、通常料金で大量に仕入れさせる。
結果として酒屋は大口受注が見込める、という寸法。
つまりエッダは、自身が広告役になる代わりに値引きをさせたわけだ。
こうすれば、酒屋は売れる。商人も売れる。傭兵達はまた美味い酒が飲める。
美味い酒を飲むために傭兵達が奮闘するから、エッダも安全に商売が出来る。
全員が全員いいことずくめだ、と一人得意になりながら、いつも以上の勢いでエッダは酒を売り尽くした。
その夜、ほくほく顔のエッダは、また昨日のようにグスタフのテントを訪ねた。
そして、いつものように甘える、はずだった。
「……旦那、何かあったのかい?」
テントに入ってすぐ、エッダは違和感に気付いた。
訪ねてもすぐ返ってこない返事に、嫌な予感がひしひしとする。
促すことも出来ずに待つこと、しばし。
グスタフが、重い口を開いた。
「俺も、年貢の納め時かも知れん」
「ちょ、ちょっと旦那、いきなり何言ってんのさ!?」
その表情、口調から、意味するところはすぐに察せられた。
顔色をなくすエッダへと向ける、グスタフの顔は硬い。
「明日の作戦で、ヤバイ連中の足止めに使われることが決まった。俺のいる隊が、一番頑強だからってことでな」
「ヤバイ連中って……まさか、隼!?」
悲鳴のような声を上げるエッダの口を、グスタフの手が素早く塞いだ。
「……大きな声を出すな。迂闊に聞かれたら、士気に関わる」
囁くような声でグスタフが言えば、エッダはこくこくと頷いて返す。
それを見たグスタフが手を離すと、エッダは大きく息を吐き出して……ぺたん、と座り込んだ。
隼を旗印にするファルコン騎士団は、戦争の相手国が持つ騎士団の中でも最強と名高い。
ただ、今まではここでの戦闘には参加していなかったはずだが……恐らく、合流しそうだという情報が入ってきたのだろう。
「なんだって、そんな連中を、旦那達の部隊が……。言っちゃ悪いが、傭兵風情がどうにか出来る相手じゃないだろ!?」
「傭兵風情だから、だろうな。俺達は捨て駒、時間稼ぎでしかない。これ以上は言えないが」
グスタフが自嘲するかのように唇を歪めれば、エッダは物言いたげな顔になるも、何も言えなくて床へと視線を落とした。
『矢は金を食うから傭兵を突撃させろ』という暴言が残っている程に、傭兵の扱いは悪い。
もちろん傭兵の日当は安くないのだが、それでも上質な矢であれば四、五本程度。
突っ込ませれば死ぬかも知れないがある程度の足止めが期待出来る傭兵を使うのと、特殊な訓練を受けさせて育てた弓兵を危険に晒しながら矢を何本も撃たせるのと、どちらを選ぶか。
こちらの指揮官は、前者を選んだわけだ。戦争とはそんなものである。
そんなことは、酒保商人なんぞをやっているエッダも、よくわかっていた。
わかっているのと、納得出来るのとは別物なのだが。
だが、そんなエッダへと、グスタフは笑って見せた。
「だから、今夜お前が来てくれて、良かった。お前に、頼みたいことがあるんだ」
「あたしに、頼み? 一体どんな?」
頼み、と言われて、エッダの心臓が跳ねる。
例えば、一緒に逃げてくれ。そんなことを言われれば、エッダは即座に頷いただろう。
戦場の近くをうろつく酒保商人だ、いざという時の逃げ道はいくつも知っている。
足の達者な二人だ、見つからずに逃げ切る自信だってある。
ただ。
そんなことを言い出す男ではないことも、知っている。
「こいつを預かってくれ。……もしも俺が戻らなかったら、お前の好きに使っていい。
でかい町の商人ギルドなら、大体のとこで使えるはずだ」
「ちょっ、待ちな旦那、これって預金手形じゃないか!?」
「だから、声が大きいって。人に聞かれたら狙われるぞ」
グスタフに窘められ、慌ててエッダは口を閉じるも、動揺は治まらない
預金手形。今でいう預金通帳のようなもので、商人ギルドに持って行くことで預金や出金をすることが出来る手形だ。
家のどこかに金を隠しておくことも出来ない根無し草の傭兵達にとっては、命の次に大事なもの。
そんなものを、グスタフはあっさりエッダに預けてきたのだからエッダが驚くのも無理はない。
「こ、こんなの受け取れないよ! しかも、随分と貯め込んでるじゃないか!?」
「いいんだよ、お前になら。……いつか傭兵稼業から足を洗った時に、お前と暮らす資金にするつもりだったんだから、先渡しみたいなもんだ」
真面目な顔でグスタフが言えば、エッダは言葉を失い。
数秒後、顔を真っ赤にした。
「は? ちょっ、ちょっと、旦那!? な、何言ってんのさ、いきなり!?」
「いきなり、か。伝わってるもんだと思ってたんだが」
「そ、そりゃ、あんまり優しく抱いてくれるもんだから、そうかもな~くらいには思ってたけどさ、なんも言ってくれなかったじゃん!」
「……言われてみれば、そうだな」
顔を真っ赤にして抗議してくるエッダに、なるほどと頷くグスタフ。
それから彼は、すぐ近くに寄ってきていたエッダを、両の手で抱き寄せた。
「ひょぇっ!?」
「エッダ。俺は、お前に惚れている。所帯を持つならお前がいいと思っていた」
「……ちょっと待ちなよ旦那、なんでそんな言い方すんのさ」
過去形で言われ、エッダは機嫌を損ねた声になる。
咎められ、グスタフは苦笑いするしかなかった。
「すまん。今も思っている。だが……」
「だがじゃない、聞きたくない、そんなこと!」
言葉を遮りグスタフの腕から逃げようとエッダがもがくも、グスタフの腕はびくともしない。
それどころか、逃がすまいと更に腕の力を強くして抱きしめてくる。
その強さに、エッダの息が詰まりそうになる。胸が、苦しい。
なのに、グスタフは離してくれない。
切なくて、エッダの瞳から涙が零れだした。
「勝手ばかりですまん。だが、聞いてほしい。俺が生きて帰れることは、ほぼないだろうから」
「だったらさぁ、だったら……」
「……俺が出なければ、他の奴が前に出る。そうしたら、何倍も死ぬ。下手したら、お前がいるところまで敵がくる。それだけは、避けないといけない」
だったらなおのこと一緒に逃げればいい。
そう思っても、言えなかった。
それに頷く男でないことも、よく知っているから。
だから、エッダは何も言えなかった。
二人の間に沈黙が落ちて、しばし。
グスタフが、ためらいながらも口を開く。
「エッダ。……後一つ、頼みがあるんだ」
「なんだよもう。いいよ、この際聞くだけ聞くよ……」
鼻声でエッダが答えるも、グスタフは頼みをすぐには口にしない。
言いかけて、やめて。幾度も言い淀んだ後に、彼は観念したように頼みを告げた。
「お前を抱きたい」
「……はい?」
「お前を、抱きたい。出来れば、激しく。子を孕むくらいに」
「ちょまっ、まってまって!? ほんとに何言ってんのさ!?」
思わぬ赤裸々な言葉に、エッダの顔が真っ赤に染まる。
さっきまでとは別の意味で泣きたくなるエッダだが、グスタフはいたって真面目な顔だ。
「お前との子を残したい。子が生まれても不自由させない程度には貯まっているから」
「そ、そういうことじゃなくてね!? いや確かにありがたいけども!」
「すまん、唐突だとは思う。だが、悔いが残りそうなのはそれだけなんだ」
すがりつくようなかすれ声に、エッダは大きく溜息を吐いた。
惚れた男が、死地に向かう前に願うことなのだから叶えたくもある。
だが、一人の女として頷けないところがある。
「……その言い方じゃ、やだ」
「言い方?」
「死にに行くみたいだから、やだ。責任取るって言って。絶対帰ってくるって言って、この馬鹿!」
「エッダ……」
拗ねたような言い草に、グスタフは言葉に詰まる。
恐らく守られない約束だと、わかっている。グスタフも、エッダも。
出来ない約束をすることは、憚られる。
だが、惚れた女が望んでいる。
だったら、グスタフが言う言葉は決まっている。
「ああ、責任は取る。……必ず、帰ってくる」
噛みしめるように言えば、エッダの腕がグスタフの背中に回り、ぎゅっと抱きしめ返してきた。
それから、エッダは小さな小さな声で言う。
「……だったら、いいよ。あたしも、旦那の……グスタフの子、欲しいもん」
「エッダ……」
感極まったような声を出したグスタフが、ゆっくりとエッダの身体を寝床に押し倒していく。
それを、エッダは抵抗することもなく受け入れていた。
「痛くしたら、すまん」
「いいよ、グスタフになら」
そう言い交わして。
二人は、身体を重ねた。
確かに、激しかった。
だが、決して乱暴ではなかった。
自分を思うグスタフの気持ちが刻まれるようで、エッダは知らず涙を流していた。
翌朝。エッダが目を覚ますと、戦支度を整えたグスタフの背中があった。
「……すまん、起こしたか」
「いいよ、見送りくらいさせてよ」
一糸まとわぬ姿で身を起こしたエッダが、小さく笑う。
笑えるくらいには、心の整理も出来ただろうか。
グスタフは振り返り、エッダの姿を目に刻む。
溢れ出そうな感情を、ぐっと飲み込んだ。
「……いってくる」
「……うん、いってらっしゃい」
互いにためらいながら、挨拶の言葉を口にして。
踵を返したグスタフは、テントの外へと出て行った。
エッダはその背中を黙って見送って。
彼の姿が見えなくなってから、しばらくして。
ぽとり、ぽとりと涙を落とした。
その日エッダは、何もしなかった。出来なかった。
何も、出来なかった。
出来たのは、服を着たくらいのこと。
グスタフの使っていたテントにうずくまり、みじろぎもせず。
気がつけば、いつの間にか夕刻。
宿営地は、敵に襲われなかった。つまり。
傭兵達が帰ってきたのだろう、勝った勝ったと騒ぐ声がする。
エッダは、靴も履かずに走り出した。
激しい戦いだったのだろう、手傷を負った者はいつもの倍はいるだろうか。
それに、見知った顔が随分といなくなっている。
心臓が、嫌な音を立て始めた。
走って、走って。
一際ボロボロになった集団が目に入った。グスタフの所属する部隊だ。
「ちょっと、グスタフは!?」
エッダの声に、幾人かが顔を上げる。皆一様に、力無く。
もうその顔だけで、わかってしまった。
「グスタフの旦那は……俺達を逃がすために一人で突っ込んで、それっきりだ……」
とどめを刺され、エッダはその場にへたりこんだ。
こうして、戦は終わった。
宿営地は解散となり、傭兵達は身体を癒やす為に町へ、あるいは次の戦場へ。
酒保商人達もそれぞれに、仕入れにか、商売にか、散っていく。
ただ、エッダはそのどちらも選ばなかった。
商売道具は全て知り合いに譲り渡し、彼女は、酒保商人を辞めた。
それからしばらくして。
「さあさあ、次は本日の目玉、本日の目玉だよ!」
とある大きな街で、景気の良い声が響く。
集まった客も盛り上がっているが……何やら普通の市とは違う熱気を帯びていた。
「次はなんと、かの名高き傭兵、『黒壁』だ! 傭兵でありながら、我等がファルコン騎士団の団長と切り結んだっていう豪傑だよ!」
その煽りに、群衆から「おお~」という驚きの声が上がる。
装備も練度も劣るはずである平民の傭兵が、全てにおいて勝る騎士、それも団長と切り結べるなど普通はあり得ないのだから、驚くのも仕方がない。
ここは、奴隷市。今日は戦場で捕虜となった戦争奴隷の売り出しとあって、多くの人間が詰めかけていた。
何しろ元兵士、傭兵ばかりで体力仕事に向く者揃い。
農村から売られてきた奴隷達とは質が違うとあって、引く手数多。
その中でも特に優秀となれば我先にと求める者達が、声を上げていく。
「金貨30枚!」
「こっちは40枚だ!」
奴隷市は基本的にオークション形式なのだが、この奴隷の値段はうなぎ登り。
普通の奴隷であれば、10枚でも買えてしまえるくらいなのだが。
「わしは100枚出すぞ! 金貨100枚だ!」
恰幅の良い、裕福そうな男がそう告げれば、しん、と場が静まり。
ついで、歓声が上がった。
通常の、10倍。それをぽんと出すのだから、祭りのような騒ぎにもなろうというもの。
落とそうと競り合っていた者達も、悔しいが仕方ないとばかりに諦め顔である。
「さあ、ついに大台、100枚出たよ! さあないか、もうないか!」
市の主催者が、確認のために声を張り上げた。
彼としてもこの値段は破格、これは儲けたとホクホク顔で周囲を見渡し確認していく。
すると。
「なら、あたしは200枚だ!!」
不意に、聞き慣れない女の声が響いた。
群衆は、驚き。そして、意味を理解した瞬間、先程以上の歓声を爆発させた。
「こいつは驚いた、200枚だよ200枚! さあないか、もうないか!
……流石にこいつは決まりだ、持ってけ姐さん!」
いきなり2倍に跳ね上がり、流石に対抗出来る者は居なかった。
主催者に促され、女が意気揚々と前に進み出る。
その顔を、奴隷の男が呆然とした顔で見ていた。
「……エッダ?」
「ったく、探したよ、グスタフ」
そう、黒壁の異名を取る傭兵の名は、グスタフ。
そして、金貨200枚で競り落としたのはエッダだった。
「なんだ、姐さんの旦那だったのかい。強すぎる旦那がいるのも困りもんだねぇ」
「まったくだよ、おかげですっからかんさ」
「そりゃ大変だ、だったらおまけにこれを付けてやるよ。鍛冶屋にでも売るつもりだったんだが」
「おっとこいつはありがたい!」
機嫌良く近づいてきた主催者へと、エッダはずいっと金貨の詰まった袋を突き出した。
持っただけでもわかる重みにニンマリと笑い、すぐに数えて……200枚きっかりあることを確認した主催者は、グスタフを拘束していた鎖を外し、彼が使っていた剣と槍を渡した。
この時代、戦場で捕まった者が奴隷として売られることは当たり前にあり、その家族や親戚が買い戻すのもそれなりにある。
ちなみに、騎士は捕虜になった後、その家が身代金を払うことで返還されることが多い。だから今この場に居たのは、平民の兵士や傭兵だけだったわけだが。
そんなわけで、グスタフはあっさりとエッダへ返された。前述のように家族が買い戻す場合もあるので、奴隷の焼き印はまだ押されていない。
一通りの手続きが終わるまで、グスタフは呆然とそれを見ているしか出来なかった。
「さ、これで面倒な手続きは全部終わったし、帰ろっか」
「いや、帰ろっかってお前、なんでここに」
「……あの後、あんたが突っ込んでいったっていう戦場に行ったんだよ。そしたらあんたの死体も装備もないし、これはもしかしてって思ってね。
少ないツテを辿ってこっちに来て、奴隷市の話を聞いて、ギルドで金を引き出して……いやほんと、大変だったんだから!」
エッダの説明に、グスタフは目を白黒させる。
タフな女だとは知っていた。だが、ここまでタフだとは思わなかった。
彼女を甘く見ていた自分が、恥ずかしくなってくる。
「……不自由なく暮らせるだけの金を渡したじゃないか」
「だから一人細々と暮らせって? 馬鹿言ってんじゃないよ。
あんたが稼いだ金だ。傭兵から足を洗って、普通に暮らすのに使わないと、だろ?」
「エッダ、お前……」
「ま、買い戻すのに全部使っちまったけどさ。あたしもそれなりに蓄えてんだ、あんたと二人ならなんとかなるって!
あ、三人になるかも知んないけど、そん時はそん時ってことで!」
エッダの笑顔に、グスタフは眩しいものを見るかのように目を細めた。
ああ、強い。勝てない。彼女にはきっと、勝てないんだろう。
そう思うと、なんだか笑えてくる。
「そうだな、お前と一緒なら、なんとでもなるよな」
「でしょ? まずは腰を落ち着けるとこ考えて、そっから何するか考えて~」
エッダが指折り数えていくのは、決まっていないことばかり。
何も決まっていない。
けれど、不安はない。
これから、二人でいくらでも決められることだから。
「それより先に、風呂に入りたいな」
「そりゃそっか、当たり前だ! この街、公衆浴場あるみたいだから、まずそっちだね!
……あ、その後、もちろんお泊まりになるわけだし~」
「まて、日が高いうちからする話じゃないだろう」
そんなことを言い合いながら、二人は歩き出した。
数年後。
「酒だよ~酒はいらんかね~」
とある町にて愛らしい声が響けば、思わず行き交う人々も足を止め、店の中を覗く。
ほどほどに安く質のいい品揃え、愛想が良く機転の利くおかみと力強く体格の良い旦那が切り盛りし、幼い看板娘が客を引くその酒屋は、長く長く人々に愛されたという。
※ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
もし面白いと思っていただけたら、下にある「いいね」や☆で評価していただけると大変嬉しいです!
※この作品は「中世への旅 農民戦争と傭兵」を読んで得たインスピレーションを元に勢いで書き上げております。とても興味深く、再版された経緯も面白い本ですから、ご興味持たれましたら検索していただくだけでもきっと楽しいです!
……ちなみに、カテゴリーエラーだったりしないか心配しています。ヒューマンドラマと、どっちかな~と迷いました。