5、騎士団長
無精ひげの男はテレーシアを肩に担いだ。
両足で男の腹を蹴飛ばしたけれど、長い牢獄暮らしに刑を執行されたテレーシアに力はない。
ただ右と左の足を、虚しく交互に動かすばかりだ。
(殿下から逃げきったというのに。まだこのような屈辱を受けねばならないなんて)
悔しさと惨めさに、テレーシアは唇を噛んだ。錆びた鉄の味が口の中に広がり、唇から血が出たのだと気づいた。
地面に降り立ったイングリッドが、男の前に立ちはだかる。冷ややかに澄んだ外見なのに、その表情は怒りに燃えていた。
『許さない、王子もあんたも。あたしは絶対に許さない』
ぴしりと空気が鳴った。うす暗い森のなか、それは現れた。
無数の氷の矢が空中で止まっている。かろうじて残る空の色を映して、氷の束はあわい紫に染まった。
男は、数え切れぬほどの先端が、自分に向けられていることに息を飲んだ。
(このままでは、この男は氷に貫かれて惨殺される)
テレーシアはイングリッドを止めようとした。精霊の力は強大だ。それに人の理に必ずしも従いはしない。聖女が精霊の力を制御する必要がある。
「止める必要があるの?」
ぽつりと洩れた自分の言葉に、テレーシアははっとした。
(イングリッドを止めれば、わたくしは娼婦となって堕ちていくだけなのに)
ビリエル殿下も、暑熱の聖女のパウラも。タイメラ王国の人間は、テレーシアを利用し、追い詰めていく。
『行け』
イングリッドが右手を上げる。氷の先端すべてが、男のひげ面に向いた。
無数の尖った氷をぶつけられたらどうなるのか、容易に想像できたのだろう。男は息を呑んだ。
「やめるんだ」
声が響いた。鋭い声だった。
次の瞬間、風が吹いた。マントが風をはらんで翻り、銀の一閃が走った。ばらばらと音を立てて落ちていくのは氷の矢。
突然現れた男性が、剣で氷の束を切り落としたのだと分かった。日に灼けた琥珀の肌に黒髪の男性だ。
彼が身につけた黒い騎士服とマントは、テレーシアは初めて目にするものだった。
テレーシアを担いでいた男が、腰を抜かして地面にへたり込む。
「第一騎士団長、アルフォンス・クロンヘイム」
「ほぉ。我が名をご存じか」
アルフォンスと呼ばれた騎士は、銀に光る剣をひげの男に向ける。彼の側には、黒い大きな犬が控えていた。
「ならば話は早い。お前が担いでいるレディを渡してもらおう。氷の精霊を伴っているならば、隣国タイメラの聖女に違いない。騎士団長として保護の義務がある」
アルフォンスの瞳は、森の緑を宿したフォレストグリーンだ。だが、静かな怒りを含んでいるのか、冷徹な光が見えた。
(彼は隣国タイメラと言ったわ。では、ここはストランド王国。わたくしは国境を越えてしまったのね)
イングリッドが安全な場所へとテレーシアを飛ばしたのは、国外だった。つまりタイメラには、もうテレーシアの居場所はないということだ。
処刑を生きのびた今でも。
『テレーシアっ』
地面に放りだされたテレーシアに、イングリッドが寄りそう。不安そうに眉をさげ、今にも泣きだしそうだ。
火傷と打撲の痛みを堪えながら、テレーシアは上体を起こした。
「イングリッド。わたくしは、あなたを泣かせてばかりね」
『テレーシアが悪いんじゃないの。あいつらが、皆が、あたしのテレーシアを利用して追い詰めて、だから、こんなに』
力の入らぬ指で、テレーシアはイングリッドの涙を拭いた。煌めきながら落ちる結晶は氷だ。
見た目が幼くとも、イングリッドにとってのテレーシアは守るべき妹のようなもの。
(だからこそ、わたくしの精霊に無茶をさせるわけにはいかないのよ)
テレーシアは、イングリッドを抱きしめた。
ただの人間が氷の精霊を腕に閉じこめれば、瞬時に凍傷になってしまう。けれどテレーシアには、イングリッドの冷たさは心地よい。
「ここがストランドであるならば。たとえ国境近くであっても、タイメラの王都からはとても遠いわ。もう疲れ果てたでしょう?」
『ううん。テレーシアがいるから平気なの。テレーシアだけが、あたしの力を高めることも、制御することもできるの。ひとりだったら、ここまで飛べなかった』
ふえええーん、と情けない声をあげて、結局イングリッドは泣いてしまった。
『あたしは、テレーシアのためになら、なんだってできるんだからぁ』
「そうね」
テレーシアは、イングリッドの頭に頬をくっつけた。
(泣き虫の、わたくしの小さなお姉さま)
常に寄りそって生きてきた氷の精霊が、愛おしくてたまらない。
ひんやりとしたイングリッドの髪をなでると、リリ、リリ……と澄んだ音が聞こえた。
アルフォンスのつれていた黒い犬が、イングリッドの悲しさに共感するように「くぅん」と鳴いた。