4、隣国ストランド
氷の精霊イングリッドの力で、テレーシアは王都から果てへと飛ばされた。
テレーシアが気づいたとき、体は草に埋もれていた。
緑の匂いと湿った土の匂い。どうやら森の中らしい。
手を伸ばせば、水を含んだ苔が指に触れた。
『よかったぁ。気がついたんだ』
ほっとした、明るい声が聞こえた。
「イングリッド」
重いまぶたを開くと、大事な精霊がテレーシアの顔をのぞきこんでいた。刑場でのような厳しい表情ではない。透明で色はないが、大きな瞳が愛らしい。まとっているのは両肩が露わになったシンプルなワンピースだ。
彼女の背後に、小さな池があった。周囲の木々の枝が垂れさがり、葉が水面に浸かっている。
『待っててね。食べるものをとってくるから』
勢いよく池に入ろうとしたイングリッドの腕を、テレーシアはつかむ。
「あなたが池に入ったら、水が凍りついてしまうわ」
『それもそうか。魚もカチカチになっちゃうね』
そもそも魚を捕ってきてもらったところで、ナイフも火もない状態では料理もできない。
「さすがに凍った魚を、頭からかじるなんてできなくてよ」
微笑みながら立ちあがったが。テレーシアは膝から崩れ落ちた。服の裾は焼け落ちて、赤くなった素足が露わになっている。
体が痛い。痛くてたまらない。
腕に足に鋭い痛みが走り、テレーシアは呻いた。
『ど、どうしよう。助けを呼ばなくちゃ』
おろおろとするイングリッドは涙目だ。テレーシアは神殿に上がる前の子どもの頃は、自由に外を出歩いていたけれど。精霊であるイングリッドは神殿から出たこともない。
この森がどこなのか分からないのに。イングリッドをひとりで行かせるわけにはいかない。
「大丈夫よ。火傷は冷やせばいいの。得意でしょ?」
わたくしは大丈夫。だから泣かないで。
そう言いたいのに、言葉にならない。
イングリッドから、心地よい冷気が流れてくる。こつん、と落ちてくるのは氷の精霊の涙の結晶。あふれる涙はすぐに凍り、水晶のようにきらめいて草の中に消えていく。
テレーシアは横たわったまま、まぶたを閉じた。
地面に置いた指に触れた丸いものがいくつも触れた。どうやらこの森には、木の実がよく生るようだ。
(殻を割れば、食べられるかもしれないのに)
けれど今は石を持つ力も残っていない。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
草や枯れ枝を踏む足音が聞こえた。すでに夕暮れが近いようだ。生い茂った葉の向こうに見える狭い空は、紫やうすべに色に染まっている。
「えらく鳥が騒ぐと思ったら」
濁った声が聞こえた。
テレーシアの視界を占めるのは、青々とした草だ。その向こうに、近づいてくる足が見える。汚れた革のサンダルをはいた、男の足だ。
『助けて、テレーシアを助けて。おねがい』
宙に浮いた状態のイングリッドが、無精ひげを生やした男に必死に訴える。
イングリッドの姿を見ることはできても、声を聞けるのはテレーシアだけ。彼女が氷の精霊と知らなければ、化け物と斬り捨てられるかもしれない。
「だめよ、イングリッド……」
声がかすれて、うまくしゃべれない。伸ばしたテレーシアの手は、小刻みに震えている。
幼くして聖女に選ばれ両親から引き離されたテレーシアにとって、イングリッドは唯一の家族のようなものだ。
寂しい夜も、恐ろしい嵐の日も、イングリッドは常に寄りそってくれた。『あたしがいるから怖くないよ』と慰めてくれた。
十年前。寒冷の力の制御がうまくできずに、聖典を凍りつかせてしまった時。泣きながら神官長に謝る幼いテレーシアを、イングリッドは庇ってくれた。
『誰だって初めてはあるでしょ。今は神官長っていばってるけどね、あんただって神殿に上がったばかりの時は、叱られてばっかだったじゃないの。あたし、覚えてるんだからね。あんたが祈りの時間にこっそり寝てばっかりだったこと』
神官長にはイングリッドの声は聞こえないが、ものすごい剣幕で責めてくる氷の精霊に恐れをなした。以来、テレーシアは神官長からひどく怒られることはなくなった。
いつの間にか、テレーシアの方が大きくなってしまったけれど。あれから十年の時が過ぎても、イングリッドは常に一緒にいてくれる。
「ははーぁ、氷の精霊をつれた銀の髪の女かぁ。これが噂になってる火刑の途中で消えた元聖女さまだな」
男が腕を伸ばした。
ぐいっとテレーシアの髪を掴み、顔を上げさせる。
「う……っ」
「なんだ。ボロボロじゃないか。うーん、王子を怒らせたって聞くしなぁ。王家に連れ戻せば、いい金になるかもしれんな」
しゃがみこんだ男が、テレーシアの顔を覗きこむ。もわっとした生臭い息が、顔にかかった。
「それとも娼館に売り飛ばすか? お高くとまった元聖女さまが、相手をしてくれるなんざ夢のようじゃないか」
『テレーシアにさわらないでっ』
イングリッドの叫びが森に響く。ただ、やはり男には聞こえていないようだ。
(だめ。このままでは……)
赤くなり、ひりつく右手をテレーシアは上げる。指の先に、きらきらと氷の結晶が生まれた。
けれど、感情が高ぶっている状態のイングリッドの力を、うまく引き出すことができない。
「担いでいくしかねぇかぁ」
「やめなさい」
かろうじて発したテレーシアの声は、か細くかすれていた。
今にも消え入りそうな言葉に重なって、犬が吠える声が聞こえた。