ヴェロニカの咲く星で
そこは、ひどく静謐な場所だった。
空気の震えるような、かすかな機械音のみが闊歩し、それ以外に音を出すものはまったくと言っていいほどない。その空気に合わせたかのような白い壁も、床も、染み一つなく、まるで虚空のごとくただ、白い。
そのひどく無機質な空間に、ただ一人、色を添える者がいた。
歳の頃は20代前半ほどだろうか。鈍い茶色の髪と、同色の鋭く精悍な瞳を持つ、険しい表情の、白衣姿の青年。
彼の双眸は、この無機質な空間にただ一つ、鮮やかな色を添えるそれ――――頭上の大型モニターへと注がれていた。
そこには、この空間には一切存在しないもの――――青い空、白い雲、そして緑という生命力に満ち溢れた大樹が映し出されている。
青年はそれを、まるで仇でも見るかのような険しい表情で見上げていた。
「――――ヴェロニカ」
絞り出すような、うめくような声で、青年はその名を呼ぶ。その口元から流れ出す、苦味を含んだ空気が、静謐なこの空間を一瞬、青年の苦悶で染める。
「俺は――――決めたよ。お前を、あそこへ連れていく」
誰もいないその空間で、青年は一人、つぶやく。
その声が持つ色は、悔恨と、苦悩と、希望と、悲哀。
短い言葉ながら、それらのないまぜになった、混沌とした彼の声色が、それらの想いの強さを如実に語っていた。
握った拳を振るわせ、青年はうつむく。そして最後の言葉を、つぶやいた。
「お前が望む通り――――この世界を救うために」
『世界樹の星』――――。そこは、そう呼ばれる惑星だった。その名に反し、あらゆる植物が絶滅し、枯れ切った、荒野の広がる世界。
その世界に、唯一、存在する大樹があった。
それが、文字通りの『世界樹』である。
世界樹はあらゆる植物が担う、生命が活動するために必要な活動を一身に負い、この星の生命を維持する、まさに母なるものだった。
人間が、動物が排出する二酸化炭素を吸収し、酸素へと変えて放出する。決して一本の樹が担えるものではないこの役割を、世界樹は負っていたのだ。
人々は世界樹に感謝し、その生育のために科学の力を注ぎこんだ。やがて世界樹が世界で唯一の大樹となっても、生命が生き続けられるように。
だが、その世界樹も絶対ではなかった。
世界樹を保護していた人類は、ある日突然、その兆候を発見する。
世界樹の老化現象である。それは人々のあいだに急速に波紋を呼んでいった。世界樹の死は、すでに世界の死と同義となっていたのだ。
人々はそれまで培った科学の力を結集し、その原因を探し、対策を練った。
そして行きついた唯一の答え――――それは、ひどく原始的なものであった。
世界樹と近い生体反応を持つ者を選出し、その老化の原因である、核にささげる――――ありていに言う、生贄。
そして人類の中で唯一、その資質を見出された者――――それは、この星唯一の国の国王の娘だった。
王立ナルティリア科学局――――それは、この星の生命の要である世界樹を統括する施設である。国家の科学の粋と、高い威信を集結させたその施設では、日々その研究と実験が繰り返されていた。
そのナルティリア科学局の廊下を歩く、一人の青年の姿がある。白衣を身にまとった、二十代前半と見られる、精悍な表情。その姿から科学者の一人と見えるが、鋭く精悍な顔つきと、たくましい体つきはどこかそれだけでない、野性的な空気を醸し出している。
「これはこれはジャスティン=アンカース少佐殿。今日は非番ではありませんでしたか?」
青年――――ジャスティン少佐と呼ばれた彼の前に、もう一人、青年が姿を現す。
こちらはジャスティンと違い、ひょろりとしたシルエットの青年だ。こちらは砂色のさらりとした髪に、いかにも女性受けしそうな甘い顔立ちが特徴的である。少々気障な壁に寄りかかった仕草と、言葉とは裏腹に軽薄めいたその口調が、さらにそれを際立たせていた。
「ふざけるのはやめろ、ディック。わかっているだろう? 今日は、我らがお姫様にお呼ばれしている。あまり時間がない」
壁に寄りかかったままの、ディックと呼ばれた青年を一瞥しただけで、ジャスティンは歩き続ける。あまりににべもないその様に、あわてた様子でディックがその後を追う。
「おいおい、ご挨拶だな、ジャス。せっかくこのディック=ブルース副局長様がじきじきにお出迎えに来てやったってのに、形だけの敬礼くらいしてくれたって罰は当たらないぜ? ていうか、それが大学時代からの親友に対する態度なわけ?」
先ほどの言葉とは違い、よく言えばフランクな、悪く言えばなれなれしい口調でディックが言う。
ジャスティン=アンカース少佐と、ディック=ブルース科学局副局長。そう、彼ら二人は大学で世界樹について研究していた頃からの親友である。
ジャスティン――――ディックの言うジャスが世界樹を守る王国軍に入ってからも、その関係は続いていた。
「言っただろう。姫様がお待ちだ。時間がない」
その言葉に、不意にディックの表情が真面目なものに変わる。
「……そうだな。時間がない……な、確かに」
後ろ頭を掻きながら、ディックは小さく嘆息した。
「――――腹は決まったんだろ?」
「彼女は最初からそのつもりだった」
ぶっきらぼうに返すジャスの表情は、その言葉以上に硬く、重い。だがそれ以上にそこで存在感を醸し出すのは、かすかな悲哀か。
「そうじゃねえよ。……お前の、さ」
「……俺は、彼女の願うとおりにすることに決めた。……もう、それしか考えていない」
そのジャスの返事に、ディックの表情も重くなる。だが、かすかながらその顔には微笑みが浮かべられていた。
「……お前なら、そう言うと思ってたよ。いいぜ、こっちの準備はできてる」
「……すまん。お前を巻き込むつもりはなかった」
「気にすんな。それより、お姫様にはもっと優しくしてやれ。時間がないったって、なにしろ―――――」
そこで、ディックはふと足を止める。そのまま進んでいくジャスの背中を見送りながら、彼はこれまでにないほどの悲哀を秘めた表情を浮かべて見せた。
「―――――これが、最後かもしれないんだからな」
その言葉が届いたのか否か、ジャスの右手が腰のハンドガンを確かめるかのように、なでた。
ナルティリア王国国王は、決して不遜な人物ではなかった。世界樹を管理する王国として、その国王がそのような人物では務まらなかったためだ。
公平であり、正義感にあふれ、寛大な人物であった。
ただ唯一、彼には現在の事態に対して決定的な、しかも克服しようのない部分があった。それは、人間として決して欠点と言えるものではなく、むしろ当然、持ち合わせていておかしくないものだった。
「娘は――――ヴェロニカは、どうしている?」
王は、ひざまずく軍服の近衛兵にうっそりと話しかける。その様子は普段の彼と違い、そわそわと落ち着かない。
「はい。姫様は落ち着いて、部屋で過ごされております」
「そ、そうか……」
そう、王は、娘を溺愛していた。彼がこれまで国のために尽力してきたのも、もちろんその国のためもあるが、その根源にあるのは娘への愛であった。
娘への愛ゆえに、王は世界樹の修復に必要なのが己の娘の身であることを受けいれることができずにいたのだ。
「よいか、国民には、まだ娘が世界樹を救う唯一の手段だと知らせてはならぬ。なんとか……なんとかして、他の手を見つけ出すのだ」
「……はい」
近衛兵は、少々当惑した色をその声に混ぜながらも頭を垂れる。
「……それに、我が娘の説得を急がせろ。ヴェロニカのことだ、一度言い出したら聞かぬであろうことはわかっている」
「はい。ただいま、ジャスティン少佐が説得に向かっております」
その名に、王の表情が一瞬、複雑な色に染まった。それは彼ならという安堵と、彼に対する不安感をないまぜにした、複雑な色。
「ジャスティン……か……」
その表情を隠そうとするかのように、王は近衛兵に背を向ける。
「確かに……彼しかいない。娘が世界のために犠牲になることをやめるよう、説得できるのは……」
だが、その言葉と裏腹に、王はどこか暗雲を見上げるようなまなざしで、遠くを見るように天を仰いだ。
ジャスティン・アンカースは、その『姫』の部屋の前にたたずんでいた。
ノックするため、拳を持ち上げては下ろすという動作を、もう三回は繰り返していた。
無理もない。何しろ、これが最後になるのかもしれないのだから。
――――自分の婚約者との会話が。
そう、ジャスティンは姫――――ヴェロニカとの婚約者であった。
だが、ヴェロニカは世界樹の核を修復するための唯一の手段として、選ばれてしまったのだ。
――――いつまでもためらっているわけにはいかない。
ジャスティンは自分を奮い立たせると、ドアをノックする。
「―――――はい」
同時に、中から清楚なその声が響いた。
「――――失礼します」
婚約者とはいえ、相手は姫。一応形として、礼をしながらジャスティンは部屋の中へと入った。
「――――ジャス」
苦い表情で顔を上げた彼の、その顔を見て、ヴェロニカはかすかに微笑んだ。
「そんなに仰々しくしなくっていいんですよ。なんといったって、私たちは婚約者同士なんだから」
くすくすとおかしそうに笑うヴェロニカの様子を見、ジャスティンの顔が悲哀に歪んだ。
「―――――本当に、いいのか」
「―――――もう、王であるお父様だって許してるんだから、そんなこと――――」
相変わらず微笑むヴェロニカの言葉を、ジャスティンの鋭く、しかし迷いに染まった視線が遮った。それはどこか、いつも通りに振る舞おうとするヴェロニカの様を、叱咤しているようにも見えた。
「――――いいんです。私が犠牲になることでこの星が救われるのなら、私はそれで幸せなんです」
本当は、彼女にもわかっていた。父である王も、目の前の婚約者、ジャスティンも、それを望んではいないことに。
表向きは、ジャスティンは今日、王の命でここにヴェロニカを説得しに来たことになっている。
そう、表向きは、世界樹の核となることを受け入れた彼女を、引き留めるために。
――――だが。
「――――わかった」
言葉短く、ジャスティンは言うとその瞳を閉じた。それはあきらめだったのか、それとも彼なりの決意の示し方だったのか、ヴェロニカにもわからなかった。
「ディックが手伝ってくれる。大丈夫だ」
だが、一度うつむいて顔を上げたジャスティンが浮かべた、珍しい笑顔という表情を見、ヴェロニカは後者だと信じることにした。
「なら行こう。時間はあまりない。他の人間に気づかれる前に、世界樹の元へ行かなければならない」
「――――はい」
ヴェロニカは、うれしかった。彼が、自分の想いを尊重してくれたことが。だがそれと同じくらい、悲しかった。そのために、彼を犠牲にしなくてはいけないかもしれないことが。
「オートジャイロの準備ができているはずだ。まずはそこまで行こう」
言うが早いか、ジャスティンはヴェロニカの手を取って歩き出す。その手の暖かさは、彼が研究所からヴェロニカを連れ出したあの時と、何ら変わるものではなかった。
研究所には、飛行場があった。徒歩で近づくことのできない世界樹に、接近するための飛行機を飛ばすための場所である。
そこに、ディックと数人の整備員らしき人物の姿があった。どうやら彼らは小型の数人乗り用の飛行機――――オートジャイロの準備をしているようだった。
「……しかし副所長、今日はフライトの予定があるとは聞いていませんが?」
数人のうちの一人がふと作業の手を止め、その様子を見守っていたディックを振り返る。
「いいんだよ。今日は。なにしろ、お前らが準備してるそれは、お姫様と王子様の、魔法の絨毯なんだからな」
少々気障ったらしく肩をすくめて見せるディックに、しかし整備員は納得したようにうなずく。
姫が乗るのだから許可などいらない。彼は、そう思い至ったのだろう。
――――まあ、魔法の絨毯と呼ぶには、待ち構える運命が酷すぎるがな。
ただ一人、その場ではディックのみがその運命を苦々しく噛みしめていた。
「整備、完了しました。後はいつでも離陸することができます」
先ほどの整備員が敬礼しながらディックに言う。
「――――ご苦労。もう下がってくれ。どうやら姫様方も到着されたようだ」
敬礼に一つうなずいて見せてから、ディックは下がるようにジェスチャーをして見せた。彼らにはひどく鷹揚に見えただろうが、そんなことに構ってはいられない。
やがて警備員たちが姿を消すのと入れ替わりに、ジャスティンとヴェロニカがやってきた。
「これはこれはお姫様に未来の王子様、お待ちしておりました」
大仰に礼をして見せるディックに、ジャスティンは苦虫を噛み潰したような表情に、ヴェロニカは輝くような笑顔にそれぞれ染まる。
「お久しぶりです、ディックさん。こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい」
笑顔から申し訳なさそうな表情に変わったヴェロニカに、ディックが笑って顔を上げる。
「いいんですよ。俺のモットーはレディファーストでして。それは国家規模、世界規模の問題になっても変わりありません。な、王子様」
「王子様はやめろ。それに、ことが済んだら、王子どころか立派な国家反逆罪の罪人だ」
さらに額のしわを深くするジャスティンに、ヴェロニカの表情が暗く曇った。
「……ごめんなさい。私の、わがままのせいで」
「……………」
その言葉に、ジャスティンが沈黙する。その顔にはまるで、先ほどの言葉は失言だったと書いてあるようだ。
「ま、まあとにかく時間がない。二人はオートジャイロに乗り込んでくれ。俺もすぐに同じ機で後を追う」
場を取り繕うかのように、オートジャイロに乗るよう促すディックを尻目に、二人はそれぞれの席へ乗り込んだ。
前席と後部席しかない、完全に二人用のオートジャイロだ。それはジャスティンの操縦で幾度となくヴェロニカと空を飛んだ、思い出の愛機だった。
それも、これで最後だ。
不意に心に浮かんだ、まるで他人が突き付けてきたような思いが、ジャスティンの胸に去来した。
同時に、何とも言えないもやもやとした霧の中にいるような気分になる。
それを振り払おうとするかのように、ジャスティンはオートジャイロのエンジンをかける。低いモーター音とともに、前方のプロペラが回りだした。
やがてオートジャイロはゆっくりと進みだし、離陸する。進む方向には、傾きかけた太陽と青い空。
高度が安定したころ、ジャスティンはふと、後ろを振り返る。
『怖くはないか?』
プロペラやモーターの音に遮られぬよう、手でのサインでの言葉に、ヴェロニカはいつもの屈託のない笑みを浮かべて見せた。
『大丈夫です』
たったそれだけの短いやり取りだったが、それがジャスティンの心を、じわりと暗く湿らせる。
――――大丈夫なはずがない。
そう、彼は考えていたからだった。これから彼女は国を裏切り、父を裏切り、世界樹の核へとなりに行くのだ。人間でなくなるために彼女は飛ぶのだ。それが、怖くないはずがない。
それが、無機質なサインでは送り切れなかったジャスティンの想いだった。だが、自他ともに認める不器用な男である彼が、口での言葉であってもそれを伝えられはしないだろうことも、同時に彼はわかっていた。
不意に、バックミラーに彼女がサインを送ってくる。うつむき加減だったジャスティンは、あわててそれを確認した。
『始めて飛んだ時のことを思いだしませんか?』
――――始めて飛んだ時。それは、まだ二人が婚約を結ぶ前。どうしても空から世界樹が見てみたいとせがむヴェロニカを乗せて飛ぶパイロットとして、ジャスティンに白羽の矢が立ったのだった。
それは同時に、二人の初めての出会いでもあった。無論、その時は一兵卒と国の姫という関係であったし、ヴェロニカは空でのサインなど知りもしなかったから、言葉を交わすことすらなかった。
しかし、それから彼女はたびたび、世界樹を空から見るためにやってくるようになった。そのたびにジャスティンは彼女を乗せて世界樹の上空を飛んだものだった。彼女が空でのサインを独学で勉強し、覚えてきたときには驚いたものだ。
『あのころから、もう私は世界樹に呼ばれていたのかもしれませんね』
『……そうだな』
ぶっきらぼうなサインで彼女に言葉を返すも、彼女のサインからは言葉以上のものは読み取れない。
その心のうちにあるのが、不安なのか、喜びなのか、恐怖なのか。それすらも読み取れない。
彼女の心根がどうあれ、きっと彼女は笑っているから。喜びならもちろん、不安や恐怖であっても、彼女はそれをジャスティンに見せようとはするまい。
『お前は……強いな』
静かに息をつきながら、ジャスティンはサインを送る。
『え?』
『怖くないはずがない。人でないものになるんだ、それがたとえこの星を救うのだとしても、怖くないはずがないだろう。それをおくびにも出さないお前は……強いよ』
そう、彼女は強い。少なくとも、今愛するものを失うと知りながら、その道を一歩ずつ、悲しみと不安とともに歩む自分よりは、よほど彼女は強い。
『……そんなことはありませんよ。私、怖いですもの』
少し間をおいて、ヴェロニカが答えた。
ちらりと見やった彼女の顔は、ゴーグルに隠れてよく見えない。しかしそれでも、かすかにのぞく彼女の表情は、ジャスティンには笑って見えた。
『どうなるのかもわからない。私の意識は残るのかもしれないし、溶けて消えてしまうのかもしれない。あるいは――――』
そこで彼女は、言葉を切る。迷うように。あるいは、恐れるように。
『死に、近いのかもしれない』
その言葉に、ジャスティンは目を逸らす。だとするなら、自分は彼女を死地へと向かわせていることになる。
『死に近い』のではなく、ジャスティンから見れば、それは『死』だ。自分が自分でなくなるかもしれない。自分という存在すら消え去るのかもしれない。なにも感じない、なにも想うことすらなくなるのかもしれない。
『でも、それは死ではない、という気もどこかでしているんです』
『……え?』
だが、彼女のその次の言葉に、ジャスティンは息を飲んだ。
『――――それは、そういう生き方なのかもしれない、と。世界樹の核となって、その理を継ぐ。そして、みんなの生きる星を守る。そういう生き方なのかもしれない、と』
『……………だが』
思わずジャスティンの口をついて反論の言葉が出るが、それ以上の言葉が続かない。
『あなたと同じですよ、ジャス』
『……俺と……?』
再びヴェロニカの顔を見るジャスティンに、ヴェロニカは微笑む。
『はい。国を守るために軍に入ったあなたと、同じです。あなたがその道を自分で選んだように、私もそういう生き方を自分で選んだんです』
笑って言うヴェロニカに、ジャスティンは沈黙する。
その言葉にどう返したらいいのかわからないまま、やがて雲の向こうに世界樹が姿を現した。
彼女は、生き方を決めた。ならば――――自分も、決めなければならない。
遠く見える、この星の中核を担う樹に視線を注ぎながら、ジャスティンは無言のまま、オートジャイロのスピードを上げた。
――――世界樹。それは、空を飛ばねばたどり着けない、宙を漂う不思議な大樹。
その根元に、ジャスティン、ヴェロニカ、ディックは立っていた。それぞれの胸に、自分の決めた思いを秘めて。
「……ここからは、歩きになる。それほど遠くはない」
ディックの言葉に、二人はうなずく。
と同時に、ジャスティンはオートジャイロの座席から、両手で抱ええるほどの大きさの小銃を取り出した。
「……それは?」
途端に不安顔になるヴェロニカに、ジャスティンはばつの悪そうな顔をして見せる。
「――――お守りだ。あくまで念のための、な」
そううそぶきながら、ジャスティンは代えの弾薬をこっそりとふところに忍ばせた。
――――自分たちは、王の意志に逆らってここへ来た。きっと、そのまますんなりとはいくまい。恐らく王は、彼女を取り返しに来る。その時は――――。
「ずいぶん大きなお守りですね。使うことにならないといいですけど」
ジャスティンの思考を斬り裂くように、ヴェロニカの言葉が響いた。いや、切り裂くようにという表現は正しくないだろう。ヴェロニカの言葉は冗談じみていて、その笑顔は屈託ないものだったからだ。
ただ、ジャスティンにとっては、その笑顔は彼の心を斬り裂くように思えた。
「さあ、行こう。あまり時間をかけない方がいい」
複雑な表情で、ディックが二人をうながす。彼もまた、国を裏切りここにいることということを背負っているのだ。
世界樹の根からさほど遠くないところに、洞穴のような樹のうろがある。そこが、世界樹の核へと続く道だ。それは見上げるほど大きく、まるで樹で造られた街の門のようにも思えた。
その内部はヒカリゴケが群生し、あちらこちらがほのかに輝き、それこそ明かりの輝く夜の街を思わせた。
「――――いつ来ても、きれいな場所」
感嘆するかのように、ヴェロニカが囁いた。まるでそれに樹が呼応するかのように、コケがぼんやりと明滅する。
「――――そうだな」
ヴェロニカの言葉は、ジャスティンには上の空だった。彼女とこうして言葉を交わすのも、もう恐らく数えるほどしかない。
うろの奥は、まっすぐと続く通路になっている。不思議なことに、ここから先はまるで人が造りだした通路のように、平らでまっすぐだ。
一歩、また一歩と三人は通路を進んでいく。それを出迎えるかのように、徐々にコケの明かりは明るさを増していく。
やがて三人は、小さなドーム状の空間へとたどり着いた。天井は高く先が見えず、奥行きは10mほどの、空間。
その真ん中に、静かに輝く樹の根があった。優しく、緑に、時として青に輝く、不思議な樹の根。
それがこの星の万物の命の源、世界樹の核であった。
「……これが、世界樹の核」
それを始めて目の当たりにするヴェロニカが、ぼうとつぶやく。
「……私は、どうすればいいの?」
その眼前まで進んだヴェロニカが、助言を乞うようにジャスティンを振り返ったその時、静かに核が輝きを増した。
「……え? そう……。そうすればいいのね」
思わず核を振り返ったヴェロニカが、不意に呟いた。
「……ヴェロニカ?」
「大丈夫。樹が教えてくれるって」
ヴェロニカが優しく微笑んだその時――――。
不意に。
軍靴の音が響いた。
その音に、ジャスティンが息を飲む。
「――――まさかッ! 早すぎる!」
その声が合図であったかのように、突然、研究所の兵たちが空間になだれ込んだ。みな銃を構え、ジャスティンらと、そして核に狙いを定めている。
「――――やはりそうだったか、ジャスティン少佐」
兵たちに続いてゆっくりとその姿を現したのは、ナルティリア王国国王その人だった。
「……父様……」
茫然とした様子で、ヴェロニカが囁いた。
「ヴェロニカよ……なぜこんなバカなことをする? なぜお前一人が犠牲になることを受け入れる? 私には、到底受け入れられん」
その言葉に、ヴェロニカがうつむく。
「父様……これは犠牲ではありません。私がそう生きると決めた、道なのです。ジャスティンも同じ。これは反逆ではなく、私の生きる道なのです」
「……………」
ヴェロニカの言葉に、王は沈黙する。今まで、彼女がこのようにはっきりとものを言ったことは、少なくとも彼に対してはなかった。それが、彼の決断力を鈍らせていた。
「……いや、これはやはり反逆だ。兵よ、ジャスティンを捕縛せよ! 裏切者を、捕獲するのだ! 生死は問わん!」
その叫びと同時に、兵たちが動く。銃を構え、ジャスティンを捕縛しようとその周囲を取り囲む。
「くそ!」
ジャスティンが構えた銃を兵たちに向け、ヴェロニカを下がらせた。
「ヴェロニカ! 早く核の元へ!」
「ジャスティン! でも……!」
たたらを踏むヴェロニカの耳に、一発の銃声が響く。
「――――ぐっ!」
兵たちから放たれた銃弾はジャスティンの頬をかすめて飛来する。
「――――早くっ!」
ジャスティンの悲鳴のような叫びとともに、ヴェロニカは駆けだす。後ろに残ったのは、怒号と銃声、そして悲鳴のみであった。
それは、不思議な色をした石だった。淡い紫色の、透き通った光沢を持つ、世界樹の核。
ヴェロニカは、そっとその核に触れる。
「……そう、こうすればいいのね」
刹那、静かに核の輝きが増す。その小さな空間は瞬く間に光に包まれた。
その光は静かに空間の中を広がっていく。それはやがて、ジャスティンたちが争う場所までも飲み込んでいた。
「……ヴェロニカ」
傷ついたジャスティンと王が同時につぶやく。片方は絶望とともに。もう片方はそれ以外に、かすかな喜びと悲しみを帯びて。
――――そして光が晴れた時、そこにヴェロニカの姿はなかった。あったのは――――先ほどのものよりも、かすかに小さな核。
「――――お前、やったんだな」
ひどく重く、ジャスティンは口を開いた。それよりもさらに重く開いた瞼から、音もなしに涙があふれる。
「さあ……あとやることは一つだけだ」
ゆっくりと、彼は王を振り返る。
「――――俺を撃て。それですべておしまいだ」
その声に合わせて、兵たちが銃を構えた。
当の王はすでに放心したように座り込んだまま、空を見据えている。
――――これで、いい。
ジャスティンは静かに瞼を閉じた。
だが、いつになっても弾丸が放たれる気配はない。そっと、ジャスティンは瞳を開く。
そこにあったのは、彼を守るように天井から突き出した、樹の根であった。それはあたかも壁のようにジャスティンと王たちの間に立ちふさがり、彼を守っていた。
「ヴェロニカ……お前……」
つぶやくジャスティンの目から、涙がこぼれる。彼女は、知っていたのだ。ジャスティンが彼女の信じた道を進ませるために、死ぬ覚悟であるということを。
「……これは……」
王が、信じられないものを見たように囁いた。
「……そうか。それがお前の答えか……」
さらにそうつぶやいた王は、ジャスティンらに背を向ける。
「王……?」
「ジャスティン少佐。どうやら、君が正しかったようだ。私はここを去る。……君は、君のするべきことをしたまえ」
「俺のするべきこと……」
やがて王は兵を引き連れ、その場所から去る。ただ後には、呆然とするディックと、何かを決意したように顔を上げるジャスティンの姿があった。
この世界には、一つの伝説がある。星を守るために樹になった姫君と、彼女を守るために一生を尽くした、一人の男の話。
姫が世界樹となった後、生涯、男はその場所から一歩も出ることもなく、ただ一丁の銃のみで世界樹を守り抜いた。男がいなくなった今でも、その銃は樹を守るように地に突き刺さっているのだという。
それは、はるか昔の出来事。だが、今もその星には命があふれ、そして、花々が咲き乱れるようになった。
そう――――ヴェロニカの花の咲く星に。






