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叶わぬと知りながら~君想ふ~  作者: 蒼井真ノ介&天城なぎさ
11/24

雪の川

今回は長い作品になっていますが、読んでくれたらとても嬉しいです!どうぞ宜しくお願い致します。蒼井真ノ介が執筆しています。

 私は荷物の整理をしてから畑にいるお爺ちゃんとお婆ちゃんに「川に行ってくるよ」と言った。

 

 「気を付けなさいよ~」とお婆ちゃんは首に掛けていたタオルを取って私に振った。

 

 「はーい。ねぇ~、お婆ちゃん。あの川の名前はなんだっけ?」

 

 「あの川はね、雪の川って言うんだよ!」

 

 「なんで川の名前に雪が付くの?」私は不思議な気持ちがして聞いてみた。

 

 お婆ちゃんの話だと、今から100年ほど前の夏。美川町に見知らぬ若い女性が現れて1週間ほど滞在したことがあったそうだ。

 

 女性は(ゆき)と名乗り歳は18歳だという。雪は肌の色が白くて大きな目が透き通っていて、鼻筋が通り、あどけない真っ赤な唇が魅力的で素敵な女性だった。

 

 闇のように黒く豊かな長い髪が美しかった。雪は誰が見ても綺麗で美人なので若い男たちは一目で雪に夢中になった。

 

 雪が美川町に滞在して4日目の事だった。

 

 雪は川のほとりで休んでいた。雪は冷たい川の水で顔を洗い足を浸して静かに川の流れを見つめていた。

 

 雪は時おり太陽の光に反射する川に目を閉ざすと微笑みながら鼻歌を歌っていた。

 

 「ザッ、ザッ、ザッ」と後ろから力強く砂利を踏む足音が聞こえてきた。雪は鼻歌を止めると、後ろを振り向いた。若い男が優しそうな笑顔を浮かべて雪に会釈をした。

 

 雪も笑顔を浮かべて会釈を返した。

 

 若い年頃の男は逞しい体つきをしていた。

 

 背丈もあり、深みのある整った顔立ちには陰りがあり甘く怪しい妖気さえ漂っていた。美川町には場違いな印象を与える男だった。

 

 そこらにいる若い女性なら、心の動揺と胸のときめきに震えてしまい、たちまちのうちに夢中になる麗しいタイプの男にも見えた。

 

 雪は警戒心を抱く事なく若い男を見上げていた。

 

 「噂の女はあんたかい? 美川町に独り旅で来る女は珍しい」若い男は屈託のない笑顔を見せて優しい話し方をした。

 

 「あら、女の独り旅に偏見を持っているの? フフフ」雪は少し相手をからかうように言った。

 

 「そんなことはないさ。若いのに偉いなぁと思ってね。女も外の世界に出て色々とやりたいことをやるべきなんだよ」若い男は小石を拾って川に投げた。水しぶきが花のように広がった。

 

 「今は1920年よ。未来はどうか分からないけれどね、今の時代は女の生き方が制限されていて難しいわね。女は損をしていると思う。この発言は危険かしら?」雪は今の時代に反発しているように言った。

 

 「いや、全然。確かに女には自由がないかもな。自由がないのは男のせいかもしれないし。本音では女は自由を選びたくないのかもしれないしな」若い男は雪の隣に座った。

 

 「貴方は女が自由になるのは賛成なの?」


 「賛成だね。最近、男女のあり方に疑問が沸いてきたから」

 

 「どういうことかしら?」 

 

 「常に女は虐げられていると思う」

 

 雪は、かなり戸惑っていた。今までに、これ程まで深い胸のうちを素直にさらけ出す男に出会ったことがなかったからだ。

 

 「女に生まれたことが不幸の始まりかもね」雪は黄昏るように言った。

 

 「女に罪を被せるつもりはないさ。いつまで経っても男は幼いままなんだよ。自分のことばかりに夢中になっていて、女にまで考えが及ばないし、頭が回らないんだ。思いやりが欠落している。それに、本当の意味で自由を得ているのは女の方かもしれないしさ」

 

 「なんとなく、分かるような気がするわ。男についてだけど、貴方の、その考えが本心で事実だとすれば、男は悲しい生き物なのね」雪は男の儚さを感じながら言った。


 雪は若い男の深い考え方と観察力、洞察力に感心していた。普通の男なら「男をなめるな! 女は家にいて子供を育てていればいい!」とか言って押し付けられ、荒れ狂うばかりで決して会話にはならないだろうから。

 

 雪は初対面ながら若い男の平常心や余裕のある受け答えに惹かれ始めていた。

 

 それに力強い眼光。若者特有のエネルギーに溢れた佇まい。整った美しい顔立ちの好青年であるのは一目瞭然で、真っ直ぐな心を持つ男であるのは間違いなかった。

 

 「独りを邪魔して悪かったな。じゃあな」若い男は自分の名前を名乗らずに去っていった。

 

 雪は若い男の背中をいつまでも見ていた。

 

  ☆☆☆☆☆☆☆

 

 雪は美川町にある3軒の旅館のうち、小さな旅館「(すみれ)の宿」の2階にある菫の間に宿泊していた。

 

 その夜、雪は夕御飯を食べ終えて寝室で横になっていた時だった。

 

 トントントン

 

 扉を叩く音がしたので雪は赤い丹前を羽織ると扉の前に着て様子を窺った。

 

 トントントン

 

 「はい? どなたですか?」雪は恐る恐る言った。

 

 「あのう、すみません。お客様がお見えになっておりますが」菫の宿の女主人、笹本香代は小さな声で言った。

 

 「どちら様でしょうか?」雪は少し緊張して言った。

 

 「『先ほど会った男だと言えば分かる』と仰っておりますが、いかがなさいますか? 御断りしても構いませんよ」香代は少し声のトーンを上げて言った。

 

 「分かりました。5分ほどお待ち下さいと伝えてください。私、寝間着姿なものですから」雪は、はだけた丹前を直しながら言った。

 

 「畏まりました。確かに御伝え致します。5分後に再び御部屋に伺います」香代は忍び足で足音を立てずに通路を歩き、1階の玄関に降りていった。

 

 雪は高鳴る鼓動を抑えきれないでいた。あの男とは自然な気持ちで会う気になっていた。

 

 先ほどよりも強めに扉を叩く音がしたので雪は慌て開けた。5分も経たないうちに香代が菫の間に戻ってきたのだ。

 

 「お客様、訪ねてきた方がこれを渡して欲しいと言われました。大変高価な物だと思いますよ。私の手が震えていますから」香代の手には本物のべっこうで作られた見事な形の髪飾りがあった。一目で年代物の髪飾りに違いないと分かった。

 

 「まあ、綺麗な髪飾り」普段は冷静沈着な雪だが眩しいばかりに光輝いている髪飾りにしばらく見とれていた。

 

 「訪ねてきた方は、どうなさいましたか?」雪は背伸びをして香代の後ろ側を覗き込んだ。

 

 「お帰りになられました」香代は詫びるような声を出して言った。

 

 「えっ!? どうして!?」雪は少し愕然とした。

 

 「『これ以上は迷惑は掛けられない』と言っておりました。あっ、『また機会があったら、お会いましょうと御伝えください』とも仰っていましたよ」香代は明るい表情を浮かべ丁寧に言った。

 

 「なぜよ!」雪は靴を履くと着の身着のまま菫の宿から飛び出した。

 

 雪は舗装された道に出て左右を確認してみたが辺りは真っ暗で人の気配はなかった。10メートル先にあるガス灯が頼りなく明滅を繰り返していた。

 

 雪は溜め息を吐いて夜空を見上げた。雲ひとつない月夜だった。

 

 雪は月の光を見ていると一筋の涙が(こぼ)れたことに気づいた。

 

 「私、何故、泣いているのかしら?」雪の脳裏には、あの男の優しい笑顔がいつまでも浮かんでいた。

 

 香代は引き留めなかった自分がいけなかったと言って何度も頭を下げたが、雪は「違うのよ。私のせいなのよ。気にしなくて良いから大丈夫よ」と香代をなだめた。

 

 雪は菫の間に戻ると静かな部屋に圧倒されてしまった。確かに、さっきまで僅かながらも部屋の空気が愛に満ちていたからだった。

 

 雪は布団の上で正座をすると、枕を机代わりにして日記帳を開いた。雪は男の笑顔と寂しげな後ろ姿を思い浮かべながらノートに詩を書いた。

 

 

 ・「貴方への想い」


 『吐息は風に翻弄されて混じり合う。

 

 私も風の行方に任せて歩きたい気分。

 

 歩き疲れたら、この体を脱ぎたくなるほど意識が混濁したのなら、迷わずに草原に横たわればいい。美川町の綺麗な世界に傷ついた心を癒してもらえばいい。優しい自然に好きなだけ甘えて頭を撫でてもらえばいい。

 

 哀しみの涙が溢れたら雪に(うず)もれるように体を隠せばいい。誰も私を知らないのだから声をあげて泣けばいいのよ。涙が枯れ果てるまで泣きじゃくればいいのよ。

 

 たまに訪れる安らぎと平安。素敵な気分を迷わずに受け止めて自分を大切にしたい。素直になりたい。本音では誰かに愛されていたいはず。誰か私を愛してくれる? 私は深い恋におちて、たった1人から愛されたいだけ。私の恋の行方を知りたい。本物の愛が欲しい。今にでも素敵な恋が訪れる予感がしている。私は真実の愛に出逢いたい。いつまでも悲しみは続いてしまうものだから。

 

 愛が震えていく。震えてしまう。

 

 貴方を求めている私を愛して欲しいだけ。人を好きになる気持ちや愛は理屈じゃないから。私は貴方に溶けてしまいたい』

 

 

 雪はノートを閉じると灯りを消した。

 

 雪は夢の中で会えると信じながら深い眠りについた。

 

 翌朝。滞在して5日目。午前7時に目覚めた雪は、枕元に置いてある日記帳を開いて、昨日書いた詩を読み返した。

 

 雪は服を着て窓を開けた。夏の朝日がいつか見た画集のターナーの絵と同じに見えた。

 

 雪は早めに朝食を頂いてから朝の散歩に出掛けることにした。

 

 足は自然と昨日行ってきた川へと向かう。あの男に会えるかもしれないという微かな期待に胸を膨らませながら自然と小走りさえもしてしまう。

 

 雪は川に着くと昨日と同じ場所に座った。

 

 雪は川の音に耳を傾けていると眠気に襲われてきた。

 

 頭を何度も振りながら眠気を追い払うと、そのまま後ろを振り返ってみた。男の姿はなかった。

 

 雪は夏の優しい陽射しに包まれているうちに、ついに眠気に負けてしまった。雪は体を横たわらせると、そのまま眠ってしまった。

 

 雪は払い除ける動きをみせた。誰かが雪の頬っぺたを摘まんでいた。

 

 「ふふふ」と笑い声がしたので、雪は目を開けた。

 

 昨日の若い男だった。雪は男に膝枕をされていた。

 

 「だいぶ寝ていたかしら?」と雪は言って前髪を直した。

 

 「2時間くらいかな」男は雪の直した髪を撫でながら言った。

 

 「2時間も膝枕をしてくれたの?」

 

 「まあね」

 

 「嘘でしょう?」

 

 「嘘じゃないよ」

 

 「本当の事を言って」

 

 「本当に2時間だよ。ほら」男は銀色の安物の腕時計を見せた。時刻は午前9時50分を指していた。

 

 「本当だね。それよりも、昨日の髪飾りをどうもありがとう」

 

 「うん」

 

 「私は雪。貴方の名前は?」

 

 「俺は(はる)

 

 「春か、良い名前」

 

 「雪も良い名前だよ」

 

 雪はカラダを起こすと春の隣に座った。

 

 「春は旅人なんでしょう?」雪は確信を持って言った。

 

 「ああ。俺は旅人さ。昨日は偶然見つけたこの川で一休みをしようとしたら先に雪がいた」

 

 「フフフ」

 

 「自分と同じ匂いがしたから雪も旅人だろうと分かったよ」春は小石を拾って見つめた。

 

 「雪の旅の目的は果たせたかい?」春は小石を遠くに投げた。

 

 「わからない」

 

 「わからない?」


 「そう。わからないの。私は旅人ではないのかも」雪は立ち上がると川の近くまで歩いた。

 

 「どういうこと?」春は予期せぬ答えに戸惑った。

 

 「私は意味がないのかもしれない」

 

 「雪、それは悲しい言葉だよ」

 

 「そうね。でも私の中で意味がないと思えるのよ。最近では全て逃避のようにさえ感じているの」

 

 「逃避? 何から逃避しているんだい?」

 

 「それもわからないのよ」雪は首を横に振りながら言った。

 

 「いつか分かるとき来るよ。人生に答えを求めたら苦しくなるかもしれないね。ごめん。変な質問をしてしまって」春は頭を下げた。

 

 「ううん。でも1つ確かなのは、私は哀しいということだけ……」雪は春を寂しげに見ると「じゃあね」と言って手を振った。

 

 菫の宿に向かう雪を春は引き留めず無言で見送った。

 

 雪は菫の宿に着くと外で水打ちをしている。香代に出くわした。

 

 「お帰りなさいませ」と香代は笑顔で言った。

 

 「ただいまぁ」

 

 「お客様、料理人が作ったおにぎりがあります。出来立てです。良かったら、熱いお茶と一緒に、どうぞ御召し上がりくださいませ」と香代は言った。

 

 「あら、ありがとう。頂きます」

 

 「食堂で食べますか? それとも御部屋にお持ち致しますか?」

 

 「悪いけども部屋に持ってきて下さると嬉しいです」

 

 「畏まりました」

 

 「ねぇ?」

 

 「なんでしょうか?」

 

 「私みたいな若い女が独りで旅館に泊まるのを、不審に思ったりはしていない?」

 

 「人には色んな事情がありますから詮索は致しません。お客様を尊重するのが私のモットーですから。それに、最初に、通常よりも多い宿泊代を頂いておりますし」香代は冷めないうちにおにぎりを食べてくださいな、と言って食堂に行った。

 

 雪は菫の間に戻って、開け放たれた窓に腰を掛けると団扇を扇いだ。

 

 香代は扉をノックすると「失礼します」と言って開けた。

 

 雪は(たたみ)の上に座ってお茶を飲んでいた。

 

 香代はテーブルの上に鮭のおにぎりを3個置くと静かに部屋を出た。

 

 雪は生まれて初めて本当のおにぎりを食べたと思った。「美味しいわ」と何度も独り言を呟くほどだった。

 

 おにぎりを食べ終えた雪は布団に横になった。まぶたを閉じるとそのまま深い眠りについた。

 

 目覚めたのは夜の8時だった。10時間も眠ってしまった。夕食を食べ損ねたが、おにぎりのおかげで助かった。少し胃がもたれていたので雪は胃薬を飲んだ。

 

 雪は胃が落ち着くまでの間、鞄から日記帳を取り出して読み返した。

 

 『1919年12月6日。母が亡くなって5日がたった。今もまだ信じられないでいる。朝目覚めたら隣の部屋で首を吊っていた。私は慌てて母の体を支えて紐を解いて何度も母を呼んだり体を擦ったりしたが、既に体は冷たくなっていたし脈拍もなかった。自殺の原因は分からずじまい。

 

 母が亡くなっての喪失感はあるけど不思議と哀しみはなかった。

 

 母は今までに、たくさんの素晴らしい思い出を与えくれた。私は耐えてきた。母の死に対して親戚たちの激しい非難を浴びせた言葉は決して忘れない。親だから何度も母の事を(かば)う事もしてきた。今の私は、母を忘れたい。自分のために母を忘れたい。これからは独りで生きていかなければならないけど何も恐れてはいない。私は大丈夫だと思っている』

 

 雪はボンヤリとして日記帳を読み終えた。

 

 雪は自分が非情な女だとは思ってはいなかった。雪が大人になるにつれて母の生き方に疑いを持っていった。

 

 母の自殺は私にした酷い仕打ち。

 

 「お客様」香代の声で我に返った雪は、日記帳を鞄の奥に入れた。

 

 「はい?」

 

 「お客様に会いたいという女性の方がお見えになっています」

 

 「誰かしら?」

 

 「お引き取りを願いますか?」

 

 「そうしてください。会いたくないです」

 

 雪は部屋の灯りを消してカーテンの隙間から下を覗いた。

 

 着物姿の女性が小走りで走り去る姿が見えた。小雨が降っていた。着物姿の女性は暗闇に溶け込んでいった。

 

 『あの後ろ姿は……姉の紗奈(さな)だ』と雪は思った。お父さんから居場所を知ったのね。

 

 雪は実の父親にだけ行き先を告げて美川町に来た。

 

 美川町は母親の故郷だった。1度も訪れる事がなかった母親の故郷。雪は18歳になって初めて来たのだった。母親が亡くなってから半年を境に独りで行く決断をした。

 

 雪は思った。『美川町に行けば母親という人間が分かるかもしれないし、母親に会えるかもしれないという複雑な感情に支配されてもいる。

 

 美川町に来てから3日間は母親の痕跡を探したが、何1つ見つからなかった。母親は19歳まで美川町で暮らしていたというのに……。

 

 子供の頃は幸せだった。誰よりも幸せな幼年期を過ごせていた。

 

 それなのに……。なんで母は自ら命を落としてしまったの?

 

 姉の紗奈は24歳。私と違って明るくて優しいけれど、私への愛が過剰気味だ。いまだに子供扱いをしてくる。姉の目から見た私は、ずっと幼いままの姿に見えているようだ。

 

 私は人に対して干渉をしないので、周りの考え方と一致しないことが多々ある。

 

 私は、一々(いちいち)、許可を貰いながら行動をするタイプの人間ではないし、勝ち気な性格だしね』

 

 雪は苛立ちを抑えて布団に横たわった。

 

 美川町には母親の面影が見つからなかった。母親が過ごした時間は風化してしまい、辿る事は出来ないと悟っていた。

 

 雪は知らないうちに眠った。美川町に滞在して6日目を迎えようとしていた。

 

 6日目の朝7時、雪は化粧をしていた。

 

 雪は、普段、あまり化粧をしないが春と出逢ってから気持ちが変わった。

 

 朝食を運んできた香代は雪の美しさに驚きの声をあげた。


 「お客様、美しいですね! 素晴らしい! とても素敵ですよ!」香代は瞳が潤むほど感激をしていた。女性が誉めるというのは余程のことだ。それだけ雪の美しさが際立っていた。

 

 「ありがとう」雪は照れながら言った。

 

 「朝食を食べたら散歩に行きます」と雪は香代に言うと、いつもより早いペースで朝食を食べた。

 

 雪は川まで続く道にすっかり慣れて気分よく歩いた。

 

 『春に会ったら私を見て驚いてくれるかな? 喜んでくれるかな?』雪は化粧が上手くいって機嫌が良かったし、香代さんに誉められて嬉しかった。

 

 川に着いた雪は、いつもより川の流れが速いことに気付いた。

 

 雪は小石を掴んで川に投げた。ポチャンと音が響いた。

 

 何気なく横を見ると父親と幼い男の子が手を繋いで川縁を歩いていた。

 

 父親は男の子の手を離すと、しゃがんで靴紐を直し始めた。

 

 男の子は嬉しそうにはしゃいで川へと向かった。

 

 男の子は足を滑らせた。

 

 「あっ」と男の子は声を出した。

 

 その声に気付いた父親は顔をあげると、既に男の子は速い川の流れに捕まり溺れかけていた。


 父親は声にならない叫び声をあげて男の子の名前を呼んだ。

 

 男の子は沈みかけていた。

 

 父親は泳げないようだった。頭を抱えて泣き叫んでいた。

 

 雪は迷わずに川に飛び込んだ。


 速い川の流れに乗って男の子の傍まで近付いた。

 

 雪は男の子を腕を掴むと引っ張り上げて背中に乗せた。男の子は激しく咳き込んでいた。雪は力を振り絞って泳いだ。なんとか岩場に近付くと男の子を岩の上に乗せる事が出来た。男の子は泣いていた。雪は男の子に何かを言って励ました。

 

 男の子は泣きながら頷くと、雪は速い川の流れに流されてしまった。

 

 雪は安堵の表情を浮かべて男の子を見た。雪は少し笑顔を見せた後、そのまま川に沈んでしまった。

 

 父親は岩場に駆け付けて男の子を助けると、そこに偶然やって来た春に事情を伝えた。

 

 春は血相を変えて川に飛び込んだが、川の流れが速いために思うようには泳げないようだった。

 

 春は泳いで男の子がいた岩場辺りに着くと荒い呼吸を繰り返して川から出てきた。

 

 春は川を見つめていた。春は泣いていた。

 

 消防団や警察が来たのは雪が行方不明になってから30分も経ってからだった。

 

 美川町で行われる夏祭りの警備のために、消防団員も警察官も、まばらな人数しかいないようだった。

 

 男の子の父親は美川町の町長だった。町長は雪を助けられなかった事に自責の念を抱いていた。「私のせいだ。罪深い事をしてしまった」と繰り返し警察官に話していた。

 

 男の子は自分のしたことに無頓着だった。懲りずに川の側にいて石を投げて遊んでいた。

 

 春は菫の宿に行って香代に状況を話した。香代も泣いていた。香代は、昨日、宿に来た女性は雪の親類かもしれません、と春に伝えた。春は分かったと言い、姉の紗奈を探し当てると雪に起こった不幸を話した。紗奈は気が狂いそうなほど泣き叫んでいた。

 

 雪は翌朝の8時頃に遺体となって発見された。

 

 不思議なことに雪の化粧は綺麗なままだった。それが本当の雪の素顔と呼べるほどに美しく光輝いていた。

 

 町長は息子を助けてくれた雪に敬意と感服と尊敬の意味を強く込めて川の名前を『雪の川』と名付けた。

 

 川の名前は未来永劫変わらないと誓う署名と碑文を作り、(のち)には雪を型どった見事な銅像まで作りあげて雪を讃えた。

 

 

  ◇◇◇◇◇◇◇



 美夢は哀しい話に胸がいっぱいになっていた。

 

 美川町の伝説とまで云われる話だった。

 

 お婆ちゃんは「美夢、雪の川に行ったら手を合わせてあげてね」と優しく言った。

読んでくれて、どうもありがとうございました!次回は天城なぎささんが執筆を致しますので、どうぞお楽しみに!!

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