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青空の君

作者: クラン


 午前七時。締め切ったカーテンの隙間から朝日が射し込む。外からは朝鳥の鳴き声が絶えず聴こえ、彼らがまるで一日の始まりを告げる使者であるかのように思わせる。しかし、それはあくまでも客観的な見方であって、私にとって彼らの鳴き声は苦痛の始まりなのだ。


 私はベッドから体を起こし、耳を塞いだ。どうか、私の耳には朝の始まりを届けないで。そう懇願した直後、小鳥の囀りに混じって、登校して行く学生達の喋り声が耳の端に入り込んだ。

 ああ、始まる。辛い時間が、始まる。

 腹部に鋭い痛みが走った。腹痛と呼ぶにはいささか強すぎる痛み。それはまるで、お腹の中でいくつもの細い針がそこら中を突き刺すかのような感覚だった。

 いつもこうだ。発作的にお腹が痛くなる。

 私は貫くような腹部の痛みに身をよじった。きつく閉じた瞼の裏には朝日が焼きついていて、ちかちかと目を刺激している。それでも強く、目を(つむ)った。食いしばった歯の隙間から呻き声が漏れるのを聞いた――。




 登校拒否。世間一般ではそう言われている。様々な事情で学校へ行けなくなった人達のことを指すらしいのだが、私はどうもその言葉に引っかかりを覚えてならない。拒否、という表現に語弊(ごへい)を感じるのだ。私達は、やむをえない理由で登校が出来ないのだ。イジメや人間関係、家庭環境がその背景にあり、決してこちら側から通学を拒否しているのではない。だから私達は『被登校拒否者』なのだ。不登校という状況に陥ったのは、自分に原因があるのではない。その中心には他人の浅い揶揄(やゆ)と自己中心的な思考があるのだ。少なくとも、私にとってはその二つが原因だった。


 私は昔からずっと片親だった。幼い頃はそれが普通であって、他の子も同じだと思っていた。

 いつだったろうか。私の置かれた家庭環境が他と違うことに薄々気付いて、幼稚園からの帰路の途中に何気なく、「なんであたしにはお父さんがいないの?」と母である早苗(さなえ)さん(・・)(たず)ねたことがあった。その時のことは今でもたまに思い出す。彼女はその問いに答えず、歩調を速めて帰路を辿った。まるで私を置き去りにするように。何度も彼女を呼び続ける私に、決して振り向こうとしなかった背中。

 この上ない寂しさを感じたことを記憶している。それ以降、決して彼女にそれを訊ねはしなかった。


 いつからか私は、早苗さんが何らかの理由で夫を失ったのだと感付いた。それは死別かもしれないし、離婚かもしれない。でも、家に父の私物を見かけたことはなかったし、写真の(たぐい)も目にしていない。おそらく離婚だろう。しかし、それを彼女に問おうとはしなかった。あの日の背中が心に焼き付いていたから。

 それに、私の家の親子関係は実に希薄なものだという自覚もある。早苗さんの仕事の都合上食事は別々であり、朝方に帰宅した彼女はすぐ眠りについて、私が登校する時間になっても起きることはない。基本的に生活のリズムが真逆なのだ。それに加えて、早苗さん自身も私と干渉するのを避けている。ときたま居間に居合わせても、会話はおろか、目も合わせようとしない彼女の態度がそれを示しているのだ。


 そんな彼女を母と呼ぶのが嫌で、名前で呼ぶようにしている。もっとも、彼女との会話は無きに等しいので、それは実行というよりも信条に近かった。

 しかし最近、彼女から私に向けた言葉を聞いた。何年ぶりかも分からないその声を聞いたのだ。




「アンタに父親ができるから」

 早苗さんの声は高圧的で、でも儚げだった。

 その言葉が何を意味しているかは想像がついた。私はもう子供じゃない。今年で十五歳なのだ。でも、彼女の言葉にあっさりと頷けるほど強くはなかった。

 よくは覚えていないが、無言で自分の部屋へと向かい、ベッドの上にうつ伏せになり、枕に顔を押し付けて泣いたのを薄く記憶している。何の涙なのかは解らなかった。今でもそれは解っていない。もとい、興味の範疇(はんちゅう)から外れてしまった。


 彼女の告白から一週間ほど経ったある日、私は初めてイジメを受けた。

 登校した私を待ち受けていたのは、机と教科書への酷い落書きと、冷たい視線。教室の端々で聞こえる揶揄の言葉だった。


 アバズレの娘。どうやらそう呼ばれているようだった。おおかた、どこかの誰かが再婚の情報と早苗さんの職業を変に結び付け、それをネタに私を吊し上げようと計画したのだろう。

 本当に低俗な連中だと思う。だけど、それを間近で受けたあの時は泣きそうだった。少し前までは友達だと思っていた子も、イジメの実行こそしないものの、ただ俯いて黙っているだけだった。それが何よりも辛かったのだ。


 翌日、腹痛と嘘をついて学校を休んだ。申し訳なさそうに俯く友人を見たくなかったからだ。そのまた翌日も、翌々日も腹痛を理由に休んだ。すると三日後、本当にお腹が痛くなった。その日からずっと、腹痛は理由を作るかのように毎朝訪れた。それも、学生の声が聴こえる時間帯に。しかし、それは一日中続くわけではなかった。十時にもなれば痛みは引いていく。

 しかしながら、痛みが治まっても学校に足は向かず、家で横になっているか、目的もなく外を出歩くかのどちらかである。その生活自体は辛くなかったし、罪悪感も思ったより少なかったので気楽だった。

 反面、心が満たされることも決してなかった。一度だけ、無性に学校へ行きたくなって十一時頃に通学路を辿ったことがあった。しかし、結局行けなかった。学校へ一歩近づく度に、誰かに余計な心配をかけてしまうことや、友人に気まずい思いをさせてしまうことが哀しくなった。そのうちに足は、市街地へと向いていた。




 私は腹痛の治まったお腹を撫でながら、今日は何をしようか、とうつらうつら考えていた。どこか、飛び切り静かな場所がいい。そこで時間を潰そう。

 考えてからは早かった。

 履き古したスニーカーに足を通して玄関を出ると、爽やかな風が髪をバラバラと乱した。夏の日差しが肌を刺すようで、不愉快だ。暑さを無視して、()くっていた袖を元に戻すと、ゆっくりとした歩調でアパートの階段を下りた。照りつける太陽が鬱陶しくて、日陰を辿ってあてなく歩く。


 気が付くと、アパートらしき建物の前に立っていた。見上げれば屋上の鉄柵が少しだけ見える。窓の数とその高さから、四階建てであることが確認できた。

 人の営みは感じない。錆びた鉄骨がところどころ剥き出していたり、錆びの浮いた鉄材があちこちに積まれていて、この建物自体が建築途中で放置されたままになっていることを物語っていた。

 誰からも置き去りにされたまま物憂げに佇む建物に、心の底から惹かれる自分がいた。産みの親から見捨てられ、人との距離が遠くなった彼に共感を覚えてならない。

 建物は存在理由を剥奪されたように、呆然と佇んでいる。この先、彼はどういう未来を辿るのだろう。破壊か、虚無か。


「私も同じだよ」


 無意識に、口をついて出ていた。同情なのだろうか。違うような気もするし、そうである気もする。広大な海にぽつりと浮かんだ小島のような問いに答えを出さぬまま、私は中へと足を踏み入れた。

 かびの匂いが鼻につく。けれど嫌悪感はなかった。

 私は階段を上り、屋上を目指した。そこには、どんな景色が広がっているのだろう。どんな風を肌に感じられるだろう。

 上りきると、屋上へと続く鉄製のドアに手をかけた。真夏日であるにもかかわらず、冷えたノブの感触が心地良い。

 ドアを開け放つと、夏の太陽に目が(くら)んだ。建物内が薄暗かったせいか、日差しに慣れるには少し時間がかかった。視界の端の端から少しずつ、コンクリートの灰色と、青を(たた)えた空が見えてくる。どちらかというと、それらが自分から姿を現してきたような感覚だった。


 現れた風景の中に、違和感がある。その正体は完全に目が慣れると、はっきりした。

 人がいるのだ。こちらに背を向け、手すりを掴んで空を(あお)いでいる。背格好から見て、私と同じ中学生ぐらいの男子だろう。その子はハラハラと髪を風になびかせ、じっと空を眺めているようだった。その背から、何ともいえない哀愁を受けた。

 ふと思う。

 彼も私と同じなのだろうか。


「ねえ、何してるの?」


 なるべく柔らかい口調で声をかけてみた。元々人見知りはしないほうだし、話すのが嫌いなわけじゃない。それに、ここで空を見上げている彼に、私と同じ何かを感じたのだ。

 彼は儚げな表情で私を一瞥すると、再び視線を空へと戻した。

 彼の横に立ち、同じように空を見上げてみる。どこまでも透き通っているような(あお)の深みに、積乱雲が浮かんでいた。不思議と、太陽の眩しさは気にならない。


(ばく)を、見てた」


 不意に、彼のものらしき声が隣から聞こえた。私は思わず、聞き返す。「え?」


「獏を、見てたんだ」


 彼の声は、先ほどと同じリズムで同じような言葉を繰り返した。


「バクって夢を食べるっていう、あの動物?」


 彼は小さく頷くと、深みを覗くような視線で空を見つめた。

 突飛だった。突飛過ぎて、暫く唖然としてしまった。その反面、妙な言葉を大真面目な顔で言う彼に、なんだか興味が湧いた。


「そう。獏が空にある夢を(たい)らげるんだ」


 言われて空を見てみたが、獏なんて影も形もない。彼にはそれが見えているのだろうか。


「バクなんていないじゃない」

「貴女には見えないのかい?」


 彼は(とぼ)けたような顔で言うものだから、私は小さく頷いた。

 彼は不思議そうにこちらを見ると、すぐさま視線を空へと戻した。


「ふぅん」


 素っ気なくて、不満そうな口調。何だか、私に見えないものが見えている彼に、羨ましさのようなものを感じる。なんでだろう。


「ねえ、バクはどこらへんにいるの?」


 彼は私の問いかけに、指をさして答えた。指先はちょうど積乱雲の真上をさしていたけれど、そこにバクの姿なんてない。

 積乱雲の上でプカプカと浮きながら漂っているバクの姿を、頭でイメージしてみた。

 きっと彼以外の誰かが空に浮くバクの話をしたとしても、私は多分、子供の空想だ、と一蹴しただろう。でも彼が口にしたその言葉は、不思議と信じられる気がした。彼は、彼の目にだけ見えるものを知っている。そこに嘘偽りはない。そんな雰囲気を(まと)っているのだ。


 空に浮くバク。なんて非現実的なんだろう。けれどもファンタジックで惹かれた。

 彼の世界を共有したい。強くそう思った。


「バクはなんで、あそこにいるの?」

「夢があるんだよ」


 またしても彼は大真面目な顔をして、呟くような声量で答えた。

 バクは誰かの夢を食べているのだろうか。彼にだけ見えているのだから、彼の夢なのかもしれない。


「僕の夢が、ある」


 遠くを見つめるその瞳の先には、バクが映っているのだろう。

 思った通りのことを言われたが、納得出来る要素はなかった。かといって、反論する気もない。


「どんな夢なの?」


 積乱雲の上を見つめながら訊いた。私に見えないバクは、彼のどんな夢を食べているのだろう。


「空の夢だよ」


 遥か遠くに顔を向けて、彼は語り始めた。

 頭の中でイメージしたヘンテコなバクを見つめながら、耳を傾ける。


「空に溶ける夢なんだ。僕が、あのバクと一緒に空を漂う夢。あのバクはね、僕を待ってるんだ。僕と一緒に空を漂うことを望んでる。夢っていうのは、バクが食べるから本当にならないんだ。でもたまに、バクが食べ忘れる夢もある。それが正夢」


 その口調は得意げだったが、表情には儚さが浮かんでいた。


「あのバクは僕の夢を食べない。僕も、それが正夢になるのを望んでるんだ」


 言い終えると、彼は大きく腕を開いた。柔らかく吹く風に、心地良さを感じる。

 彼は純粋だ、と直感的に思った。(けが)れなどないからバクが見られる。夢を疑わずにいられる。

 ああ、そうか。彼はきっと、私と違って周りの環境に束縛されずに生きているのだろう。だから彼に惹かれたんだ。


「私にもバクが見れるかな」


 ぽつりと(こぼ)れるように口の端から出ていた。私は顔を(うつむ)けていて彼の顔は見られないが、さぞかし(とぼ)けた顔をしているに違いない。あるいは、困ったような顔かもしれない。

 私にバクは見られない。彼に投げかけた問いは、既に答えとなって頭に存在していた。私は彼のように純粋ではない。誰の温かさも受けていないから、冷たく汚れているんだ。


「見れるよ」


 私の耳に、ゆったりとしたリズムの声が届いた。

 なぜか胸の辺りが温かかった。ここ数週間、まともに人と会話をしていなかったからかもしれないし、こんなに柔らかなリズムの言葉を聞いたのが初めてだったからかもしれない。涙腺が緩むの感じた。


「でも私、全然純粋じゃないのに」


「それでも、見れるよ」


 再び、彼の言葉が心の深くを撫でた。柔らかなリズムで。

 涙が一滴、頬を伝って零れ落ちた。それからはまるで洪水のように止めどなく流れ続けた。気恥ずかしさはない。彼の前では強がる必要なんてないと思ったからだ。

 

 私は泣きながらも、自分のことを語った。家庭のこと、イジメのこと、不登校のこと。

 彼は何度も頷きながら、聞いていてくれた。今まで話すことなく溜め込んできた本音を、真摯(しんし)に聞いてくれる人がいる。関係は希薄でも、(たま)らなく嬉しかった。


 いつの間にか空には(あかね)色が広がり、積乱雲も消えていた。

 すっかり充血したであろう目を擦り、一言「ありがとう」と告げた。


「僕は何もしていないよ」と彼は怪訝な顔をして言う。


「いいの。ありがとう」


 彼に話したことで、心がふわりと軽くなった気がした。なんだか心地良い。

 透き通った茜に目を移して「そろそろ帰らなくちゃ」と呟いた。


「そうだ。君、なんていう名前なの?」


 そういえばお互いに名前を知らないことに気が付いて言った。

 彼はきょとんとした表情で私を見つめる。すると、全然的外れなことを答えた。


貴女(あなた)が言う『君』のイントネーションじゃ、僕が皇帝みたいだ」


 でも、そういうのも悪くないよね。彼はそう続け、空を仰いだ。その瞳には橙色が映っている。


「じゃあ、君は、君ね」

「うん。貴女は、貴女だ」


 (はた)から見たら可笑(おか)しい会話だと頭の隅で思ったが、そんなことよりも、かけがえのない仲間を得たような嬉しさのほうがずっと大きい。


「じゃあね」


 彼は少し寂しそうな顔を見せると、小さく頷いた。

 彼に手を振り、屋上を出た。鼻腔にかびの匂いが訪れる。鼻ざわりの良い匂いだ。

 階段をリズム良く下りてみる。体は軽く、のしかかっていた不安や孤独も、まるで存在しないもののように、全く感じなかった。靴と階段とが奏でる軽快な音が心地良く流れる。その音色に耳を傾けつつ、奏で続けた。


 階段を下りきって建物の外に出ると、真っ先に屋上を見上げた。

 彼の姿は見えない。それがなんだか寂しかった。帰路ではなく、再び屋上へと向かいたい。もっともっと彼と話がしたい。

 そう思ったが、首を横に振った。帰ったらお風呂を沸かさなくてはいけないし、洗濯物も自分の分は取り込まなくてはいけない。自分のことは自分でやらなきゃいけないのだ。

 私は小さな歩幅で家路を辿った。


 家に着くと、夢から覚めて現実に放り込まれたときのような、言いようのない寂寥感(せきりょうかん)があった。ここには、家と呼べるほどの温かさや安心感はない。貫くような孤独が吹くだけだ。

 自分がすべき家事を済ませると部屋へ向かった。リビングにいると落ち着かない。あそこは早苗さんが煙草を吸ってくつろいでいる場所だ。そんなところにいても嫌悪感しか生まれてこない。

 私はベッドに横たわると、ふっ、と短く息をついた。


 目を閉じて、一面の青空に浮かぶバクをイメージする。頭の中に浮かぶバクは、やっぱりヘンテコだ。ちゃんと浮いているのに、背中に生えた飾りのような小さい羽をパタパタと動かしていた。その横には、(とぼ)けた表情をした君がフワフワと漂っている。

 思わず笑顔が零れた。幻想的で、なごやかな風景。いっそ私も、バクと一緒に漂いたいな。空に溶けたいな。

 それに応えるかのように、体がとろけていくような感覚が、頭の先から広がっていった。溶ける、溶ける、とける――。




 締め切ったカーテンの隙間から朝日が射し込む。外からは朝鳥の鳴き声が絶えず聴こえ、彼らがまるで一日の始まりを告げる使者であるかのように思わせる。

 私はのんびりとベッドから這い出た。小鳥の囀りが寝ぼけた頭に響く。

 全身のだるさと、記憶の端っこにすらない夢が、眠りの深さを示していた。


 瞬間、きりきりとお腹に痛みが広がった。ああ、始まったんだ、なんて思っている余裕はなかった。すぐさま身をくの字(・・・)によじって痛みに抗おうとするが、無駄だということは身に染みて分かっている。けれど、こうでもしないと痛みは何倍にも強く感じられるのだ。


 その苦痛は突然去った。

 痛みのなくなったお腹を押さえて、先ず一番最初に思ったのは、どうしたのだろう、という疑問だった。まだ朝の九時前で、痛みが引く時間帯ではない。それなのに、お腹の痛みはすっかり消えていた。

 へこんだ腹部を見下ろして首を傾げる。そういえば痛み自体も、普段と比べて弱かった気がする。何でだろう。

 すぐに、答えらしきものが見つかった。


「君……」


 その単語はするりと口を抜けて、いつの間にか声となって漏れ出ていた。

 君。君に会って僅かでも心が晴れたから、腹痛もやわらいだのだろうか。

 そうだ、君に会いに行こう。彼なら答えを導いてくれるかもしれないし、答えになってくれるかもしれない。


 簡単に着替えを済ますと、薄く汚れたスニーカーに足を通した。履き慣れた感触が足裏に伝わる。

 家から出ると、強い日差しが肌を刺した。蒸されるような熱気が体を包むようで、本格的な夏の到来を感じさせる。シャツの袖を()くると、日向を駆けた。風を切る音が耳元で聞こえる。まるで風そのものになったような気分で、それがなんとも嬉しく、楽しかった。


 建物に着く頃には全身に汗をかき、息が切れていた。それでも清涼感に心が満たされるようだ。今日は建物も燦々(さんさん)と光を浴びて機嫌が良いように見える。

 少しばかり息を整えてから屋上を目指した。

 君は居るだろうか。きっといる。そんな気がした。

 階段を一気に駆け上がり、屋上へと続くドアを開いた。目の眩むほどの光が広がり、涼しげな風が火照った体に心地良さを伝える。昨日と同じように強い日差しに慣れるまでは、視界の端のブルーしか見えなかった。

 徐々に徐々に、景色は姿を現してくる。


 目が慣れてくるにつれて、昨日とは違う景色がその輪郭を現した。

 視界の端に、君がいる。屋上の(ふち)に這いつくばって何かをしていた。近付いてみると、何やら青のペンキを浸した二つの刷毛(はけ)で、屋上のコンクリートを塗っているようだった。君はこちらに気が付いたのか、作業を止めて顔を上げた。


「何してるの?」

「空を創ってた」


 君はバクを見つめていた時のような、大真面目な顔で言った。その表情を向けられると、それを信じざるをえないような気持ちになる。もっとも、君の言葉に疑念は抱いてはいなかったけど。それよりも、なぜ君が空を創ろうとしているのかが気になった。


「空なら私達の上にもあるじゃない」


 君は小さく頷いて、遠くを見るような眼差しで空を仰いだ。


「うん。でも、地上にいたままじゃ、獏のところへは届かないんだ。空の中にいなきゃ溶けられない」


 そう言って君は「はい、これ」と、持っていた刷毛の一つを手渡した。木製の、手の平より少し大きいサイズだ。私に手伝わせようとして刷毛を二つ用意したのだろうか。そうだとしても、嫌な感じはしなかった。


「仕方ないなあ」と、自分でも分かるくらい楽しげな声で答えた。


 くすんだ灰が、(あお)に変わる。その光景は、たとえようのないくらい幻想的だった。

 ふと君のほうを見ると、頬に点々と青がついていた。それがピエロの舞台化粧のようで、思わず笑ってしまう。そんな私を見て、彼は怪訝な顔をした。


「ほっぺにペンキが付いてるよ」


 指さして言うと、彼は頬を腕で拭い、そこについた青を見て笑った。その声に誘われて、私はまた笑う。君も、笑う。

 こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。抜けるような快晴と、ほんの少しの屋上の空が、温かい蒼を(たた)えていた。




 楽しい時間が過ぎるのはあっと言う間だ。作業を続けながら他愛もない話をしていたら、気付くと辺りは薄暗く、夜の(とばり)が降りようとしていた。


「……君」


 私の声に、彼は刷毛を動かす手を止めた。


「あのさ、昨日学校へ行く時間になるとお腹が痛くなるっていう話をしたでしょ? 今日はね、お腹もあんまり痛くならなくて、痛む時間も短かったんだ。……何でなのかな」


 直接、君のお陰なのかな、と訊くのが気恥ずかしくて言葉を変えた。彼はすっかり中身のなくなったペンキの缶に刷毛を入れると、薄っすらと星の(またた)く空を仰いだ。その顔には、憂いに満ちた儚げな表情が浮かんでいる。


「獏に頼んだんだ。貴女の痛みを取り除いてくれ、って。……でも、全部の痛みの取るには時間がかかるみたいだね」


 ああ、やっぱり。

 なぜか納得した。同時に、胸に温かさを感じる。それは心にじんわりと染み込み、飽和していくような感覚だった。


「ありがとう」


 こんなにも温かい優しさに触れたのは初めてだった。掛け値のない、温かな願いを受けたのも初めてだ。

 ずっとここで空を仰いでいたいけど、そう思うたびに現実的な事柄が私を縛りつける。


「もう帰るね」


 本心では帰りたくなかったが、やらなければならないことがある。少し寂しそうな表情を見せる君に別れの言葉をかけると、家路についた。




 家のドアに鍵を()した。がちゃり、となぜか鍵の閉まる音が聞こえ、ノブを回そうと試みるが回らない。どうせ早苗さんが鍵をかけ忘れたのだろう。

 小さくため息をつくと、もう一度を鍵を挿してドアを開けた。


 家に入るとなぜか、リビングのほうから明かりが漏れていた。なんだ、帰ってたのか。感慨なく思うと、私はリビングの入り口から中を見た。

 そこには雑な料理と、くしゃくしゃにたたまれた私の洗濯物があった。そして部屋の中心にあるソファには早苗さんが足を組んで座り、煙草を吸っていた。

 酷い眺め。


「いつもこんな遅くまで遊んでるの」


 語尾に疑問符のない彼女の言葉が、私との会話を望んでいないように感じられた。胸の奥から、気持ちの悪いものがせり上がってくるような不快感に襲われる。私は洗濯物を取ると、踵を返し、部屋へ向かおうとした。


「心配してるんだから」


 抑揚のない声が背後から聴こえた。彼女の言葉の一つ一つが、君からもらった温かさを奪ってしまうような感じがして、急に怒りがこみ上げてくる。


「早苗さんには関係ない」


 それだけ言うと、私は部屋へと駆けていった。何かを言おうと息を吸う音が後ろから聴こえたが、それを振り切るスピードで駆け、自室のドアを勢いよく閉めた。瞬間、強張った筋肉が弛緩(しかん)して、よろよろとベッドに倒れ込んだ。

 今さら母親(づら)なんて虫が良すぎる。あの人は結局、私のことなんて一つも考えてない。再婚するから少しでも馴れ合っておきたいって考えてるだけなんだ。

 口元から込み上げてくる言葉の数々を飲み込んで、強く瞳を閉じた。このまま意識と共に、私の存在も消してはくれないだろうか。そうなればどんなに楽だろう。

 ふわり、と体が浮かぶような感覚を覚えた。

 体が、指先から溶けていく。

 ゆっくりと。ゆっくりと。




 翌日も、そのまた翌日も、君のいる屋上へと向かった。日を追うごとに腹痛はやわらぎ、時間も段々短くなってきている。


 そして、君と出会ってから一週間が過ぎようとしていた。


 すっかり空色に染まった屋上を眺めた。沈む夕日の光を浴びて、深い色に輝いている。(いく)つものペンキの缶が屋上に転がっていた。


「凄い……ホントに空みたい」

「みたい、じゃなくて空なんだよ」


 君は相変わらず(とぼ)けた顔で、空に座って(・・・・・)遠くを眺めていた。その瞳にはなんだか哀しげな色が浮かんでいる。


「ありがとう」


 君の呟きに、私は少し寂しくなった。

 君はいつか、自分は空に溶けると言った。つまり、もう会えなくなるということを意味しているのだろう。それがたまらなく寂しかった。


「私も空に溶けられないかな」


 気づいたら、寂しさが声となって口から漏れていた。君と一緒に空を漂えたら、どんなに楽しいだろう。

 君は応えなかった。星の瞬き始めた空をじっと見上げている。その沈黙が、私は現実に生きなくてはいけないことを示唆しているように感じて苦しかった。


「あの人のところに帰るの、もう嫌だよ」


 ぽつり、と弱音が(こぼ)れた。多分、今の私は情けないくらいに弱々しい顔をしているに違いない。

 三角座りをして、足の間に顔をうずめた。私だけが置いてけぼりにされるようで、虚しく、哀しく、寂しい。


「あの人今さら私に、心配してるなんて言ったんだよ。母親らしいことなんてなに一つしなかったくせに」


 君は今、どんな顔をしているだろう。いつものような(とぼ)けた顔かな。それとも、困った顔なのかな。

 沈黙が、吹き抜ける風の音を耳に運ぶ。


「貴女のお母さんは、貴女に謝りたいんだと思うよ」


 突然の返答に、顔をうずめたまま呆然としてしまった。よく考えれば、君の言う通りなんじゃないか、とも思える。早苗さんはこの十数年間、ずっと私を避けていたことを謝りたいのかもしれない。でも、そんな彼女を認めたくなくて、私は足の間で頭を左右に振った。「今さら謝るなんて、ずるいよ」


「誰だって何かきっかけがなくちゃ、中々前には進めないんだよ。僕も同じ。貴女があの日屋上に来てくれなかったら、獏のところへ行くために自分から動こうとはしなかった」


 きっかけ。その言葉がぽっかりと()いた胸の空白を埋めてくれるように感じた。再婚というきっかけを得て、早苗さんは私と向き合おうと思ったのかな。

 でも、それをすぐに認められるほど私は素直じゃない。


「簡単には受け入れられない」

「少しずつで良いんじゃないかな。少しずつ、進めば良い」


 君の言葉が、じんわりと胸の深くに染み入るようだった。

 顔を上げると、君は惚けた顔で空を仰いでいた。


「きっかけって、勇気をくれるんだ」


 君の口調は平坦で、でもそれを信じさせる強さを宿していた。


「僕も貴女から勇気を貰った」


 少しも恥ずかしがらずに彼は言う。涙腺から、熱い何かが零れるような感覚があった。

 それからは一言も喋らず、空を見つめ続けた。今日はずっとこうしていたい。君が溶けるまでずっと、空と空の境にいたかった。

 星はきらきらと瞬いている。夜空途方もなく大きくて、私達を包み込むように広がっていた。




 バクが空にいた。バクと君が一緒に浮かんで、そして漂っていた。

 私は屋上でその光景を見ている。

 不意に、君が微笑みかけた。それが別離を意味しているようで、胸が苦しくてならない。大きく、何度も、行かないでと叫んだ。止めどなく流れる涙も気にならないくらい必死で。

 君が、ゆっくりと口を開いた。

 その口から流れた声は、私の耳元で優しく響く――。




 朝鳥の囀りが遠くで聴こえる。照りつける日差しが、肌を刺す。

 跳ね起きると、(あお)一面の屋上が目に入った。どうやら眠ってしまったらしい。

 辺りをゆっくりと見回して、どきん、と心臓が鳴った。


 隣りにいた君の姿は、この蒼に溶け出したかのようになくなっていた。泣きそうになって、目を(こす)る。

 泣くべきではない。君は、君が望んだ通りになった。だから私は笑うべきなんだ。

 私は青空いっぱいに笑顔を向けた。一筋、涙が頬を伝う。それでも笑った。

 晴れた空から、ぽつりと雨が零れた。冷たいはずの雨なのに、どうしてか温かい。髪が濡れ、服も濡れ始めていたが、この優しい雨にいつまでもいつまでも打たれていたかった。




 私は家のドアを、そっと開けた。涙のあとを腕で拭ってリビングへと向かう。

 リビングには明かりがついていた。窓から燦々(さんさん)と入る日差しの中に早苗さんがいた。テーブルには灰皿一杯の煙草と、しなびた食事が並んでいる。


「……ただいま」


 ぎこちなくそう言うと、彼女はゆっくりとこちらを向いた。目は充血していて、私の思い込みかもしれないが、涙の筋が浮かんでいた気がした。


「どこ行ってたの……! 心配したんだから」


 彼女の()くような口調が、本心からの言葉であることを示していた。

 ふと、君の言葉が耳に甦る。


「お風呂、沸いてるから」


 その声は震えていた。

 早苗さんは、私に謝りたいのかな。でも受け入れて貰えなかったら辛いから、直接謝れないでいるのかな。

 母さんも、ずっと辛かったのかな――。


「ごめんね、母さん」


 無意識に言っていた。言葉が零れていた。その直後、彼女は(せき)をきったように泣き出した。胸のつかえが取れたような、不安の晴れた顔で。




 午前十時。私は学校の門の前に立っていた。

 きっかけ。君の言葉が頭をよぎる。きっかけが勇気なのだとしたら、私が前に進む勇気をくれたのは、(まぎ)れもなく君だ。


「ありがとう、君」


 一歩。以前までは越えられなかった一歩を踏み出した。地を強く蹴って、校舎へと歩く。日差しは強く、空はどこまでも(あお)い。


 大きな積乱雲の上に、バクの姿が見えた気がした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 果たして君は一体何者だったのかと考えてみたものの、まあいいかと思わせる不思議な透明感が魅力的な作品でした。 結末も君が消えてしまうというものですが、私が母親と和解して学校へ向かう第一歩を踏…
[良い点] 淡々と進んでいくのが、彼女の日常のように感じられて作品に合っている、と感じました。 とまれ、仲直りと登校に至れて、ほっとした自分がいます。
[良い点] 安定した文章力で、安心できます。 [気になる点] あまりないのですが、演出が少し弱いかも知れません。 [一言] とても心温まるような、ほっとするお話でした。 夢を食べるバクという見えない…
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