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「こう1日雨降りだと外に出るのもおっくうだな」
萩さんが言うと、彼の膝に乗って丸くなっていた銀色の牡丹さん(猫)があくびをした。帳場に通じる居間で、お茶とおせんべいを前に、全員まったりしていた。
昨夜から降り出したと思われる雨は、激しくなったり霧雨になったりしている。
「買い出しありましたかね」
「自分たちの分だけあればいいかな」
「また予約ゼロなんですもんね……」
「またって言わないの。明日は入ってるよ……」
昨日はたしか、北海道にある猫町の町内会旅行が入っていた。宿泊がなくても日帰り入浴の客はちらほらあるが、雨だと客足が遠のく。
商店街でネネに会ってから二日が経過した。夜、布団に入ると窓の外にいたりするんじゃないかと気になってしまう。猫の鳴き声が聞こえるような気がしてしまう。空耳なんだけれど。
萩さんの膝の上にいる牡丹さんが急に顔をあげ、耳をピクリと動かした。そして上半身を起こす。
「どうした牡丹」
銀色猫の牡丹さんはトンと膝からおりると、部屋を出ていく。何かに気付いて見に行ったような感じだった。
「なにかあるみたいだ」
多くの説明はいらない。3人は立ち上がると、牡丹さんを追いかけた。
牡丹さんは小走りにお台所へ向かっている。それを追っていると、いつの間にか萩さんも白猫の姿になっていた。たしかに猫でいたほうが動きやすそうだ。
「牡丹さん!」
お台所に入って名前を呼ぶと、裏庭に出る戸が細く開いていて、頭を上下に並べ外をのぞいている白銀兄弟がいた。通常なら微笑ましい光景だけれど、尻尾の毛が逆立っていた。異常事態なのだと分かる。
「どうしました?」
二匹のうしろからそう囁くと、静かに、とでも言うように萩さんがこちらに顔を向けた。
「シャー」
牡丹さんが小さく威嚇をしている。
「あ……ネネだ」
「そうなの?」
孔輝が言う。裏庭まで入ってきたの?
細く開いた戸から外を見てみると、あの雨の日と同じ少女が井戸の近くに立っていた。ワンピースは薄汚れ、髪の毛は乱れていた。顔が向こうを向いていて見えなかったけれど、人間の姿でいるということは、顔は美智のものを借りているのだろう。でも、なんだか様子が変だ。体が左右に揺れていて、頭がカクンと傾いた。
「うう……ウキ」
うめき声のようなものが聞こえてくる。
「寂しい……暗いよ、ひとりぼっちだよ。ずっと一緒だったのに、ネネだけ年老いて行くの。体が動かなくなっていくの。孔輝やパパ、ママが恋しいよ……コイシイコイシイイイイ……」
体がこちらを向いた。商店街で会ったネネは不気味な有様だったけれど、いまは美智が泥遊びをしてきたかのようだ。でも、目が虚ろで、泣いている。その涙は黒かった。
「ドコなの? 孔輝、会いたいよぉーダイスキだよぉー」
叫びの最後は猫の鳴き声と混ざり合った寂しい声で、聞いていて胸が張り裂けそうだった。叫びながら、黒い涙と涎を流す。美智の可愛い顔が不気味に歪む。
「ネネ!」
孔輝が声を出した。すると、ネネがきゅっと首を回してこちらを向く。気付かれた。恐怖で思わず孔輝の袖をつかむ。彼は振り向き、わたしの手をそっと抑えて無理に笑った。
「俺のところに来たんだから、行かなくちゃ」
「あ、危ないよ……!」
「大丈夫」
止める間もなく孔輝が戸を開けて庭に出て行く。出した手を引っ込める。
白銀兄弟は尻尾を膨らませたまま、警戒体制で見ていたけれど、鼻同士をくっつけたあとに、銀色の牡丹さんがお台所を出ていった。どこへ行ったのだろう。
孔輝はゆっくりとネネに近付いていった。驚かせないように、そっと。
「ネネ! ほら、おいで」
孔輝の声に反応して、黒い筋を作った顔が笑顔に変わった。
「ああ、孔輝。探したのよ、いっぱい呼んだんだよ」
不気味で人形のようになっていたのに、すっと表情にぬくもりが加わる。
「お前なに、顔が汚いぞ。ほら拭いてやるから」
孔輝がネネの顔を手で拭っている。自分が汚れるのも気にせずに。ネネは言われるがまま、大人しくしている。黒いものが取れると、いくらかましになった。あの黒いドロドロは触って大丈夫だったのだろうか。
顔の汚れを綺麗にしてやり、薄汚れたワンピースを手で払ってあげている。孔輝は甲斐甲斐しくネネの体を整えてやっている。
どう見ても甘える美智と優しくする孔輝にしか見えない。
「ずいぶん汚れているなぁ。どこ歩いてきたんだよ」
「森の中にいたしね。毛繕いはしているんだけど、服だけはどうにもならないよ。破れるし、汚れるし。いらないよ、こんなもの」
「そうだなぁ。まぁ、裸になるわけにはいかないし」
「人間って不便だね」
「はは。そうだな」
わたしはじっと、そのやり取りを見ていた。混乱、する。
「あのふたり、楽しそうですね」
後ろから小声で話しかけられて、ドキリとした。「静かに」と肩を抱かれたのだが、萩さんだった。人間の姿になっている。
「驚かさないでくださいよ……」
「ごめんね。しかし、ネネはよほど孔輝くんが好きなんですね。いまは悪い気がいっさいない」
「そうなんですね。ところで、牡丹さんはどこへ?」
「会長のところ……お、到着したようですよ」
トトトという木の廊下を肉球が打つ音が軽やかにして、銀色と長毛ふさふさエレガント猫が現れた。
調理台の向こう側に行ったかと思うと、牡丹さんが人間の姿ですっと立ち上がる。続いて、胸元が開き過ぎで丈の長い真っ赤なワンピースを着た会長が立ち上がった。女神が光臨したのかと思った。
「すごい! 来るのが早い!」
「猫の俊足を舐めるな」
「……舐めてません」
「孔輝くんとネネは?」
萩さんは裏庭を指さす。ふたりは地面に座り、肩を寄せ合っている。
「なにあれ。なんかネネが大人しいわね。薄汚れているけれど」
「そうですね。孔輝くんの顔を見たら穏やかになって。まぁ、飼い主にしか懐かない猫だったんでしょう」
「誰にでもすり寄るなんてことをしないのが猫だよ」
なんというか、得意気に牡丹さんは鼻を鳴らした。
「なぁんだ。またこの間みたいにドロドロのデロデロになっているかと思ったのに」
会長が自分の肩を抱いて震える真似をする。そして、わたしを見て大きく目を開ける。
「あのさ、明日華ちゃん。平気なの?」
「へ?」
「イライラしない? 平気なのかなって。あれ、抱き合ってベタベタしているし、乗り込むならわたしそっち方面で手伝うけど」
そっち方面とはどういうことなのだろう。ポピー会長の考えがすくいきれないし処理もできない。
「だって、怒ることなんか、なにも……べ、ベタベタっていっても、飼い主と猫だし」
「でもあれ、友達の顔なんでしょ? わたしだったらイライラして怒り狂って背中で詰め研ぎするわ」
会長は腕組みをしてわたしを見下ろした。おっしゃる通り、先程からふたりの様子をこうして見ていて、いい気持ちはしない。




