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「話は聞いていたけど、僕たちはネネに会ってないんですよ。昨夜は雨だったから、足跡もにおいも消されたし」
「牡丹さんが来たときはもうその場にいなかったから」
「昨夜は人間の姿で現れたんだったね」
「そうです。わたしの友達の姿で。女の子なんですけど」
そこまで聞いて、会長がため息をつく。
「気持ちは分かるけど、悪いものを纏った化け猫になってることは、一目瞭然だったわ」
思い出すと怖い。そして、悲しい。
「とにかく、孔輝くんに会いたくて寂しくて仕方がなかったのね」
「可愛がっていたし、俺も大好きだった……でも、あんなことになるなんて」
「孔輝くんのせいじゃない。ネネが悪いわけでもない。愛がたくさん溢れていても、間違った方向に作用しちゃうことだってあるのよ」
沈黙が広がる。誰も悪くない。ネネだって悪いことをしてやろうという思いがあるわけじゃないのは分かる。ただ、孔輝が好きで会いたかっただけ。
「どうしたらいいでしょう」
孔輝が絞り出すように言った。
「このままじゃ、猫町にとってもいいことじゃないもの。町内会長として、解決しなければいけないことよ」
獲物を捕らえようとするかのような目つきでポピー会長が静かに言った。
「ネネはきっとまた近いうちに孔輝くんの前に現れるでしょう。ネネと話をできるといいのだけれど。思考能力まであの黒いドロドロに飲まれてしまったら、最悪の事態になると思う」
「最悪の、事態……?」
のどが渇いていて、声が掠れてしまった。怖かったからかもしれない。
「ネネは永遠に暗闇で彷徨い、あなたたちは永遠に帰ることができない」
背筋がスウッと冷えた。ポピー会長はゆっくりと言葉を吐き出し、指先をペロリと舐めた。
「ネネが自分の力でここへ呼んだのだから、彼女しか帰すことができないのよ」
心が通じ合って、ネネに猫の心が残っているうちに、ちゃんと話をしたい。わたしもそう思う。白くふかふかで可愛らしかった猫のネネを思い出して、また胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「白銀兄弟は能力の高い猫又だし、わたしもすぐに駆けつけるわ」
ネネはいつ姿を見せるか分からない。孔輝のところへ来ることは分かっているのだから、待っていればいいだけ。でも、ちゃんと話せるのだろうか。不安でいっぱいだった。孔輝はもっと辛いだろうと思う。
「ところで萩は? おでかけ?」
「二日酔いで寝ていますよ」
「そうなの? せっかく来たのに」
「会長が飲ませすぎなんですよぉ」
萩さんを見舞いたいだのなんだのとポピー会長がわがままを言い出したから、牡丹さんが宥めている。
「俺、荷物を台所に持っていきますね」
「そうだった。ありがとう」
孔輝が、買い物袋を持って立ち上がった。会長と牡丹さんに「わたしも行ってきます」と言い、後を追った。
「待って。わたしも行く」
「下ごしらえだけでもしておこうと思って」
こちらを見ないで孔輝が言った。
お台所へ入ると、孔輝が買ってきた魚を流しへ置き、鱗を取り始めた。
「ブリ大根の予想だけど、切り身にするの?」
「どうだろうな。分からないからおろすだけにするよ」
黙々と作業をする孔輝の横で、手持無沙汰でただ見ていた。洗いのこしやゴミが溜まっているわけでもなかった。水でも汲みに行こうかな……。外への出入口を見たときに、鱗を取るザリザリという音が止まった。
「ごめんな。本当に俺のせいで」
「……孔輝」
「絶対、帰れるようにするから。このままなんて、ありえねぇ」
ぐっと下唇を噛んで、孔輝は俯いた。ここへ来てから、こんな顔ばかりを見ている気がする。
わたしの知る孔輝は、バカなことばかりやって、騒いで、明るくて力があって……馬鹿力だけど、頼もしいなって思うこともあった。小さい頃から変わってないところ、変わったところ、いろいろあって。そう、やっぱりわたしに一番近い。
「ネネは、孔輝のところに来る。絶対来る。一緒だから、わたし」
なんだかうまく言えないけれど。
「安心してよ。一緒にいるから。ふたりで帰るって言ったじゃん」
「お、おう……」
一緒に。何度も言っているけれど、わたしの素直な気持ちだった。
再び、うろこを取る音が響く。わたしは水を汲むために外へ出た。
帳場へ戻ると、ポピー会長はいなかった。牡丹さんが「さっき帰ったよ」とやれやれといった表情で言った。なんだか嵐が去ったような感じだ。好かれている白銀兄弟、いや萩さんが少し気の毒に思えた。
「さ、夕飯の支度をしなくちゃな」
牡丹さんがそう言ったとき、萩さんが顔を出した。
「あっ萩さん。大丈夫ですか?」
済まなそうにしながら萩さんは頭を掻いてあくびをした。
「たっぷり休んだよ。ごめんね」
「さっきまで会長がいてね。萩を見舞うって聞かなくてさ。病気じゃないのにな。帰ったけど」
「ポピー会長が? なにしに?」
そこで、買い出しに出たこと、商店街でネネに会ったこと、ポピー会長に助けて貰ったことを話した。萩さんは目を丸くして聞いていた。
「そうだったのか。大変だったね、ふたりとも」
萩さんがわたしたちの頭を優しく撫でてくれた。
「ブリの下ごしらえ、しておきました」
「さすがだね。ブリ大根を炊こうと思ってるよ」
「やった。当たりだね」
「予約はゼロなんだけどねー」
「大丈夫なんですか白銀館」
「じゃあ、全部食べていいんですね」
「明日華ちゃん、ブリ大根が好きなんだね」
「おい明日華、全部なんて、だめに決まってるだろう……」
大根を担当しよう。美味しくできますように。日が傾きはじめ、窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。
猫町で、白銀館で迎える何度目かの夕食。心が温かくなるけれど、いろんなことが胸に去来して、なんともいえない気持ちになる。そして、ネネのことを考えると、寂しくてたまらなかった。




