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「白猫だったと思う」
なぜか絶対にネネだと思う。そして「ニャー」とか細い鳴き声が聞こえた。
「猫だ」
「ほらね。どこだろう」
ゴミポリバケツの影に猫がいた。汚れて辛うじて白猫だと判別できる。
「ネネ、ネネだ」
孔輝がしゃがんで白猫へ手を伸ばした。ゴロゴロと喉を鳴らして体を擦りつけている。昨夜は短い再会だったし、今日もまた会えてよかったと思う。
「ニャオ、ウキ、コウキ……」
白猫が、孔輝の名を呼んだ。
「ネネ」
人間化している状態なら平気なのに、いま汚れた白猫が喋っているように見えて、正直気味が悪い。そう思っていると、ゴロゴロと喉を鳴らしていると思っていた音が、うなり声のようなものに変化した。
「ねぇ、孔輝。ネネの様子おかしくない?」
「コウ、コウ、ウオオオウ」
しゃがんでいた孔輝が立ち上がって後ずさる。わたしは孔輝の背中に隠れるようにした。
「ゴルルルル」
「なんか、やばいんじゃない?」
「化け猫、だしね」
「ゴルルルウオオオオ……」
目が真っ黒だった。可愛い顔がどす黒くなり、口内も真っ黒。目からドロドロした何かが垂れ下がり、毛が逆立っている。
「ひ、い……!」
寒気が走る。孔輝がわたしの手を掴んだ。不気味に変化するネネを刺激しないよう、後ずさりしはじめた。このまま路地を抜けて商店街の通りに出られるだろうか。
「怖すぎる。全然可愛くないよ、ネネ」
「そ、そうだな……」
どうする。走って逃げるか。すぐ追い付かれそうだけど。商店街の誰かに助けを求めるか。その瞬間、視界に金色のなにかが飛び込んできた。
「ふたりともわたしの後ろへ!」
なんとも神々しい金色の、長毛の猫だった。というか、喋ったよ! なにこの猫!
「ポピー会長!」
孔輝が叫んだ。凛とした佇まいにフサフサの毛。ポピー会長か、そうか納得。なんて言っている場合じゃない。
「ここはわたしに任せて、逃げなさい」
「会長……!」
「ここで騒いだら町のみんなが不安がる。言ったでしょう、変化を嫌うって。黙って真っ直ぐ白銀館へ帰るのよ」
左右に尻尾を大きく振ったかと思うと、猫の姿をしたポピー会長は路地へ入っていった。思わず彼女のあとを追ってしまった。
「ポピー会長……うわ」
前方にドロドロの黒いものを纏った白猫が、ゆっくりと揺れていた。
「早く行きなさい。ネネなのでしょう、この猫。攻撃はしてこないと思うから鎮めるだけにするわ。孔輝くん、あなたがいるとネネが余計に反応する」
「でも、俺は飼い主だ」
「もう、あなたの手に負えないわ」
「ネネ……!」
目も口も穴みたいに真っ黒になった白猫ネネは、ポピー会長の姿を見るとひるんだ様子を見せた。
「ウオオ……サミシイ、サミシイ」
「ネネ!」
ゴボゴボと言葉を唸っている。
ポピー会長はシャーと猫の威嚇を見せ、目を光らせて背中と尻尾の毛を逆立てた。フサフサの体は倍ぐらいに大きくなる。ポピー会長は低く声を出したかと思うと、大きな鳴き声を出した。すると、ネネの動きが止まり、唸りも無くなった。ドロドロと一緒にゆっくり舞い上がって、揺れながらどこかへ消えていった。
なに……これ。
「行ったわね。あなたたち、怪我は無い?」
「あ、ありません」
呆然としている孔輝の肩を支え、会長に返事をした。ネネの姿にショックを受けたけれど、孔輝は飼い主だ。もっとだと思う。
「困った子ねぇ」
ポピー会長は乱れた毛を直すように前足を舐めて、耳の後ろのほうまで丹念に唾液をつけてグルーミングをした。
「あれ、なんですか? ネネはなんであんな風になっているんですか」
「ふたりをここへ呼んだ負担をかぶっているせいよ。段々とネネの意識も姿も奪っていくんだわ。見て分かったでしょう。負担を受けるとは、ああいうことよ」
ポピー会長はため息をつきながらそう教えてくれた。
「とにかく帰りましょう。送っていくわ」
孔輝のうしろに回り込んだポピー会長は、すっと人間の姿で立ち上がった。あまりの早業にあっと声を出してしまった。そういえば、萩さんも変身が早かった。白銀兄弟と一緒に暮らしているけれど、昼間は人間の姿、眠るときは猫になっている。とはいえ、一貫したなにかがあるわけではなく、日向ぼっこする牡丹さんが猫だったときもあるし。
アイボリーのミニワンピース姿のポピー会長は微笑んで歩き出した。それに続く。路地を出ると、先ほどまで賑やかに商店街を行き交っていた猫たちの姿が無くなっていた。
「誰もいない」
「いまの出来事を警戒して家に入っているんだろ。鈍感なのは人間だけだ」
会長ではなく孔輝が答える。口を強く結び険しい表情をしていた。わたしは黙ってあとを追った。
白銀館に到着すると、帳場に牡丹さんがいた。ポピー会長が一緒だったことに少し驚いた様子だったけど、笑顔を見せた。
「おかえり。早かったね。もう少しゆっくり買い物してきても良かったのに。会長また飲みに来たんですか?」
「違うわよ。失礼ね」
お邪魔するわよとワンピースを翻す。そして帳場正面にある応接セットのソファーへ腰をおろした。
「牡丹、出たわよ」
「なにがですか」
「孔輝くんの猫」
「会えたんですか。まぁ向こうから接触してくるとは思っていたけど」
牡丹さんはポピー会長の隣に座った。わたしたちも向かい側へ行く。
「お茶をお持ちしますね」
「あ、大丈夫よ。ありがとう。話が終わったら帰ります」
ポピー会長は立とうとする牡丹を制した。隣の孔輝が座りなおすとソファーがきゅんと音を立てた。
「かわいそうだったわね……」
ひじ掛けに頬杖をつき、ポピー会長は短くため息を漏らす。牡丹さんにさきほどあったことを話した。そして、頼まれた買い物を渡し、萩さんへのお土産を忘れたことを誤った。
「それは気にしなくていい。大変だったね」
「ショックっす」
「だろうね」
「ドロドロの真っ黒だったもんね。萩と同じ白猫なはずなのに、あれじゃ見る影もない。猫はすべて可愛くかつ美しくあるべきなのに、可愛くない」
「会長、孔輝が泣きそうです」
泣いてねぇよと孔輝に肘で突かれた。だって、傷口に塩を塗るようなことを言うんだもの。
 




