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「なんて、声だったんだ」
「コウキ。孔輝の名前だったよ」
そうよ。思い出した。わたしの言葉を聞いた孔輝はふうとため息をついた。
「やっぱり、俺か」
孔輝が盛大に肩を落とした。いままでで一番の落とし具合だ。
「いちいちがっかりしないでよ。もう、分かっていることでしょ」
「そりゃそうだけど」
「孔輝の名前じゃなかったら、気付かないし思い出さなかったかもしれない」
やっぱりねといった感じでポピー会長がフンと鼻を鳴らす。舌を出して指先をペロリと舐めた。
「それで。あなたたちはどうしたい?」
「人間界に、家に……帰りたい」
「当然、そう思うわね」
会長は、カップからまたたび大福の箱へ視線を移し、縛ってある紐を解いた。
「この町のどこに潜んでいるか、どんな姿かも分からない。死んだ猫が成仏できなくて悪い気を纏ったら、まともな姿でいるか分からないわよ」
「……はい」
返事をしたのは孔輝。大きいのか小さいのか、顔だけ猫だとか、それとも怖い姿なのか。いままで出会った彼らを思い浮かべても、想像できなかった。
「ショック受けて、倒れるかも」
箱から白い大福をつまみ、ひとくち齧った。ポピー会長は目を閉じて味わったあと、口のまわりについた白い粉を舐めた。
「ポピー会長みたいなのだったら、いいんですけど」
孔輝がそう言ったので、思わず横を見る。そして視線を戻すと、会長はふっと微笑になってわたしと孔輝の顔を交互に見る。
「ひとりじゃなくて、良かったわね」
綺麗な目を細め、美しい猫は笑った。
「もう帰っちゃうの?」
ポピー会長の甘ったるい猫なで声を背中に張り付けながら、わたしたち3人は彼女の家をあとにした。ポピー会長は萩さんを引き留めていたけれど、仕事もあるし長居はできないと丁重にお断りしていた。
ポピー会長は、萩さんのことが好きなのだ。
「帰りは旅館の裏に繋がる道を帰るよ」
商店街の手前で曲がり、人通りの少ない道を通る。わたしと孔輝は黙って萩さんについていく。
ネネはどこにいるのだろう。孔輝に会いたい一心で鳴いている猫。孔輝とわたしをここへ迷い込ませて、そしてどこかで呼んでいる。恨んだり怒ったりするよりも、かわいそうで胸が苦しくなってくる。どういう結末になるのかなにも分からないけれど、叶うなら孔輝とネネを会わせてあげたいと思う。それが正しいことなのかどうかも、判断がつかないけれど。
考え事をしながら歩いていると、木が高く茂っている道に入っていた。
「このあたりで山菜が豊富に採れます。川魚も釣れますよ」
町へ出るときに説明してくれた裏道がこのあたりなのだろう。萩さんが説明してくれるけれど、孔輝はなんだか上の空だ。
自然が豊かで、静かで。猫にとって過ごしやすい町。人間から離れ、作り上げた場所で、過去の飼い主を思いながら暮らす猫たち。萩さんと牡丹さんも、そうなのだろう。
「牡丹が大福を待ちくたびれているだろうね。戻ったら夕飯の支度をしましょう。きみたちはどうかな、疲れていませんか?」
「大丈夫です」
「そう。じゃあ手伝いを頼みます」
孔輝の横顔を盗み見ると、切ない顔をして空を見上げていた。見なければよかったと思った。
「ネネ、どこにいるんだろうね」
つぶやいた言葉は、風が流していった。
◇
朝からしとしとと、雨が降っていた。
ここへ来てから、3回まで朝を数えていたけれどそれから先は止めてしまった。その話を孔輝にしたら、呆れられた。
「1週間。そういうの忘れないほうがいいぞ」
「そういうのってどういうのよ」
「ここはここ。俺たちは帰るんだから」
だって、あれからなにも進展がないじゃない。そう言いそうになって飲み込んだ。
井戸からの水組みに少し慣れて、皿洗いも初めての頃より手際が良くなった。割烹着も着慣れてきた。孔輝はだし巻き卵を作っている。四角いフライパンと菜箸を真剣な顔で操っている。
今日は団体が入っていた。宿泊ではなく宴会で、旅館の大広間が使われる。
「商店街の集会みたいなものだよ」
牡丹さんがそう教えてくれた。
わたしは大根と人参の酢の物を小鉢に取り分けていた。なめこを見栄えがいいよう、上に乗せるようにする。
水汲みや皿洗いが上手くなるためにここに居るんじゃない。孔輝だって出汁巻き玉子を巻いている場合じゃない。なのに、だんだんここの生活に馴染んでしまっている。
「よし。今日も完璧な出汁巻きだ」
「なに着々と出汁巻き卵が上手くなってるのよ!」
「形がきれいなほうが目にも美味しいだろ」
「そういうこと言ってるんじゃない」
「イライラすんなよ」
「ほらそこ口じゃなくて手動かして。今日は忙しいんだから」
牡丹さんが暖簾をくぐってお台所に入ってきた。
「そろそろ皆さん到着されるんで、お出迎えしましょう」
「はーい」
お膳に小鉢を置き、孔輝が作った出汁巻き卵を切ってひとつずつ皿に並べる。色とりどりの料理がお膳を飾っていく。食べたいなぁ。でもわたしたちの夕飯はまだ先だ。
バタバタと玄関へ行く。割烹着を取り、帳場の奥へ放り込んだ。あとで回収するつもり。孔輝がわたしのとなりに並ぶのと同時に、ワイワイと賑やかな声が聞こえ、魚正の大将が数匹の猫を連れだって現れた。
「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました」
「やぁ、旦那。今日もお世話になります」
「たまの楽しみだもんなぁ」
「またたび酒もご用意してありますよ」
商店街のお仲間なのだろう。魚正の大将が一番大きい。となりにくっついている女性……というか雌猫は奥様だろうか。
「おじゃましまぁす」
明るい声が聞こえ、華やかな黄色のワンピースを着た女性がひらりと入ってきた。
「ポピー会長。いらっしゃいませ」
「この間はありがとう。はい、これお土産」
ポピー会長はわたしと孔輝にひとつずつ、紙袋をくれた。
「あ、ありがとうございます」
「よかったな、ふたりとも」
紙袋を開けてみると、煮干しがひとつかみ入っていた。思わず、動きを止めてしまった。
「減塩煮干しで、魚正の上物よ」
「よかったじゃないかふたりとも。いいなぁ。あとで俺にもくれよ」
牡丹が目をきらきらさせてそう言った。ポピー会長はワンピースを翻して宴会会場へ向かった。萩さんは笑っている。
「煮干し……」
これ、お味噌汁の出汁に使ったら会長に怒られるのだろうか。




