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あまりの空腹で、天井の木目がバームクーヘンに見える。中心の丸い模様が大福に見える。仙台銘菓の抹茶クリーム大福が食べたい。しょっぱいものも食べたいから牛タンを食べたい。
「お腹が空いたぁ」
まだ隣からいびきが聞こえるから、起こさないようにそっと呻く。
何時になったのだろう。夕飯に気付かず泥のように眠っていたようだ。目覚めると、真っ暗で静まり返っていた。夜中なのかもうすぐ明け方なのか、この部屋には時計が無かった。
明日の朝まで我慢するしか無いだろう。空腹と共に喉も乾いていた。水だけでも飲んでこようか。幾分空腹が満たされるかもしれない。たっぷり眠ったおかげで、体は軽かった。これが昼間なら良かったのに。こんな真夜中に元気いっぱいになっても困る。
静かに布団から出て起き上がる。孔輝を見ると口をむにゃむにゃ動かしていた。食事の夢でも見ているのだろうか。笑いを噛み殺す。
「はっ」
変化に息を飲んだ。孔輝のだらしなく投げ出された足に白い塊がくっついている。なんだ? ふっくらした丸形で、タオルなどではないようだ。静かに上下しているように見えるけれど。
「あ」
猫だ。頭も尻尾も隠れているから塊に見えるだけだ。猫か、なんだ……え? 猫?
「萩、さん?」
わたしの声が聞こえたのか、塊がもそもそと動いて頭が起き上がり、ピンと立った耳がプルプルと震えた。孔輝の布団へ寝に来たのか。いつの間に……自分の部屋では寝ないのか。
「お水、飲んできますね。お台所お借りします」
萩さんもお疲れだろう。孔輝のふくらはぎを枕にして、また塊に戻った。そこ、寝にくくないですか。温かさはあると思うけれど、骨が当たって痛そう。
ふたりを起こさないようにして、部屋を出た。
軋む床を、上から吊られるのをイメージして歩いた。あまり音を立てては迷惑がかかる。帳場の前を通りかかると、奥の部屋から明かりが漏れていた。萩さんは孔輝と一緒にいるから、おそらく牡丹さんだろう。急な呼び出しに備えて起きているのかもしれない。
昼間、通った通路を歩きながら、中庭が見える窓が少し開いていたから、のぞいてみた。すると、誰かが夜空を見上げ佇んでいたので足を止めた。思わず身を隠してしまう。どうしたのだろう。お客様だろうか。細身の長身で、長い黒髪を一本に束ね、肌は陶器のように白かった。
「誰かいるのか」
切れ長の目がこちらを見て、視線が合う。その冷たさが背筋を走った。
「あ、いらっしゃいませ。すみません。ごゆっくり……」
「従業員か」
「はい、まぁ」
なんとなく返事をする。早くこの場を去りたかった。
「夕食の、アケビの天ぷら、とても美味しかった。主人に伝えておいてくれ」
「は、はい」
なぜいま料理の感想を。それならば帰りに直接伝えればいいのに。
「先を急ぐから、もう少ししたら出るんでな」
「こんな時間にですか。早いんですね」
「温泉は熱くて少々苦手だが、いい宿だ。機会があればまたうかがいたい」
「主人に伝えますので、お名前をお聞きしてもいいですか?」
「圭樹と言えば分かる」
「ケイジュ、さん?」
苗字なのか名前なのか分からなかったけれど、明日、白銀兄弟に伝えないと。その時ふっと、においが鼻をかすめた。どうやら煙草を吸っていたらしい。料理の感想と、お名前を聞いたら用事は終わったはずなのに、なんとなく立ち去るタイミングを逃している気がする。
「旅行、ですか?」
「ちょっと違うな。人探しってところだ」
詮索しては良くないと思ったけれど、機嫌を損ねることもなく返事をしてくれたので、ほっとした。小さい頃。家族旅行で旅館に宿泊したとき「今日はどちらを観光されるのですか?」と女将さんに話しかけられ、おすすめの食べ物などを教えてくれたことがあったのだ。わたしはまだ猫町の名物を知らないからおすすめなどは言えないのだけれど。
「友達……幼なじみだな。まったく」
そうだった。ここは人間界じゃない。ということは、このひとは妖怪だろう。それに、人探しということは、もしかして。
「人間界へ、行くんですか?」
「そうだ」
「あ、あの、じゃあわたしたちも一緒に連れて行ってくれませんか?」
前のめりにそう言った。このひとは、ここと人間界を行き来できるのだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。
「君は、このあたりの猫ではないのか」
「違います。ここに迷い込んでしまった人間で……友達も一緒です」
「人間なのか。それは気の毒に」
右手に持っていた煙の最後のひとくちを吸うと、地面に擦りつけて火を消した。そして、吸殻にふっと息を吹きかけると、それは白い粒々に変化し空中に舞った。
「え……雪……?」
パラパラと下に落ちるそれは、雪だった。このひとはどんな妖怪関係者なのだろう。妖怪関係者は変な言いかたかもしれないけれど。猫妖怪に吸殻を雪に変えることなどできるのだろうか。とにかく、ここから連れ出してくれるのならばなんでもいい。
「そろそろ、行かなくては」
こちらへ向き直った彼は、肩にかかった長い髪を払った。
「お願いします。一緒に人間界へ連れて行ってください」
「それはできないお願いだな」
「どうして!」
引き下がるわけにはいかなかった。
「どうしてだめなんですか。わたしたち家に帰りたいんです。なにかの拍子に迷い込んでしまったみたいで……助けて欲しい」
「だめだ」
「なんでもしますから!」
興奮するわたしを、圭樹がすっと手で制する。
「元々、人間はこの猫町や妖怪たちの住む世界に出入りできる力は無いはずだ。それなのに、入ってしまった。呼ばれて来たのか、自分で来たのかは知らんが、無理がかかっているだろう。体と魂にダメージをかけてしまっているのに、また無理やり出てみろ」
「……どうなるっていうんです」
「死ぬぞ」
顔色ひとつ変えずにそう言い放つ冷たい目は、わたしを震えあがらせるにはじゅうぶんだった。
「連れて行けば、世界と世界の狭間で体が粉々になり、人間界に帰れず、ここに戻ることもできずに消滅するだろう」
「……な……」
「それでもいいのか、とは聞かない。君のような子供をそんな目に合わせるわけにはいかないからな。連れてはいかない」
体が粉々、消滅。死を意味するその言葉に、わたしは身動きが取れなくなる。
「ここへ来るときにも、少なからずダメージがあったはずだが」
そう言われても、思い当たることが無い。わたしはどこも痛くないし怪我もしていない。唯一、孔輝の足だ。それだって、もう治りかけているはず。
「友達が、軽く足を捻挫したくらいで、わたしは別に……」
「……それなら、誰かに呼ばれたのかもしれんな」
「呼ばれた?」
「覚えがないのか」
「ないです……」
「じゃあ、君じゃない。とするならば、その友人だろう? それが分かったら、帰れるんじゃないのか?」
言われたとおりかもしれない。わたしじゃない。それならば、孔輝しかいない。孔輝は、心から可愛がっていた猫を亡くしている。ここは猫の町で、猫叉、化け猫、迷い猫、とにかく猫がたくさんいて。
「もしかして……」
顔を上げると、そこに彼の姿は無かった。
「いつの間に」
ちょっと目を離した隙にいなくなってしまうとは。飛んだのか部屋に戻ったのか、よく分からない。わたしにしつこく言い寄られても困ると思ったのか、逃げたのかもしれない。言い寄っても、結局はここからそう簡単に出られないみたいだ。まぁ分かっていたことだけれど。
とにかく。ここから出られる手がかりを見つけた気がした。孔輝が、ここへ呼ばれた。可愛がられていた猫が寿命で死んだのなら、ここには居ないと言ったけれど、おそらく、居るのだ。わたしは近くにいたからおまけみたいなものだけれど、一緒に来てしまった。猫町の広さがどのくらいあるのか分からない。明日、孔輝と兄弟に話して、手がかりの手がかりを探すことから始めよう。ちゃんと伝えられるだろうか。まず、孔輝に話してみよう。
部屋に戻ろう。水を飲もうと思っていたけれど、もういい。空腹はさっきより感じなくなっていた。
「さむ……」
今夜は気温が低いのだろうか。昼間、あんなに天気が良く暖かかったのに。輪郭に水を流したようなぼんやりとした月を見上げ、もう一度、寒いと呟いたとき、冬ではないのに、目の前にフワリと雪が舞い降りてきた。きっと、先ほどまでここにいた彼の仕業だと、すぐ分かった。
 




