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泡を流したあと、温度を確認するために手を入れてみた。熱くはなかった。湯船に、足からゆっくりと入った。思わずため息が漏れる。疲れは取れそう。若干ぬるいのは、猫用だからなのか。
お湯が溜められているのは岩をくりぬいたような感じで、そこに勢いよくお湯が注がれている。外へ出る引き戸があり「露天」とかろうじて読める板がかけてあった。足下は少しザラリとしていたけれど、気になる程ではなかった。お湯はほんの少し白っぽく、無臭。硫黄臭は苦手だからこれは助かった。年季の入った浴場をぐるりと見渡す。ここの掃除も仕事だ。そのとき、おばあさんがこちらを見たので目が合った。
「こんにちわ」
わたしが頭を下げると、おばあさんはニイッと笑った。前歯が欠けている。
「ハイこんにちわ。いい湯加減だねぇ」
細い目はまるで閉じられているかのよう。白髪を頭のてっぺんでお団子にしていて、顔の皺は深いけれどなんとなく少女っぽく、可愛らしいおばあちゃんだった。
「お前さん、人間だね。見ない顔だし、どこから迷い込んで来たんだい。この温泉に人間が入りに来るなんて、珍しいこともあるもんだ」
そうだった。可愛いおばあちゃんなんて形容している場合じゃない。おそらくはこの白髪おだんごのおばあちゃんも猫又か化け猫さんなのだ。
「あ、えっと、迷い込んでしまって、萩さんと牡丹さんに助けて貰ったんです。ここを手伝いながらちょっとの間、お手伝いしながら置かせて貰うことになりまして」
自分で説明して悲しくなってしまった。認めたくないけれど、ここは猫妖怪の町であり、わたしたちが住む世界と違う。そしてわたしと孔輝はここから簡単には出られない。家に帰ることができない。
「ちょっとの間」と言ったのは、長くいるつもりは微塵も無いからだ。
「おやまぁ、それは難儀だこと。会長さんとこ相談に行ったらどうだい。元飼い猫又で人間嫌いじゃないはずだから」
会長さんとは、兄弟が言っていた町内会長さんのことだろう。
萩さんと牡丹さんもそうだけれど、この猫町のひと……いや猫妖怪たちは、どうやら人間に対して友好的らしい。不幸中の幸いだろう。人間を嫌い攻撃をしてくるような猫妖怪たちばかりだったら、わたしたちはとっくに……どうにかなっているに違いない。ふるふると頭を振った。
「そ、そうですか。友達が一緒なので、相談してみます」
「萩も牡丹も、人間が迷い込んでくると助けずにはいられないんだろうねぇ。人間好きもあそこまでくると病気だね」
「はぁ……」
おばあさんはちゃぷんと音を立てて顔を洗った。
なるほど。時折迷い込んでくる人間を、それを助けてやる白銀館の兄弟を、猫町の猫妖怪たちは温かくまたは生暖かく、見守っているのだろう。いたずらで迷い込んできた人間は別として。
「中には人間に酷いことをされて恨んでいるものもいるけれどさ。ワタシは恨みなどないけれど……ああ、みんなオキクって呼ぶよ。ただのお節介ばあさんさ」
「あ、わたし明日華っていいます」
「アスカちゃん。よろしくねぇ」
急に自己紹介へとシフトしたので、頭を下げた。
「アスカちゃんや。歳はいくつだい? どうやら恋の季節だね」
「え? 16歳です。季節、ですか?」
「はあ。じゃあもう、ねぇ。ワタシにゃもう遠い記憶だけれどね、恋の季節だねぇ匂いがするよアンタいいヒトいるのかい。いいねぇ」
「い、いませんよ」
なんの話をしているの、このおばあさん。ヒョヒョと笑うオキクさんは、お団子に巻き付けていた手ぬぐいを取り、湯船からあがった。かわいいお尻を見てぎょっとする。丸い尻尾が出ている。しまい忘れたのか元々こうなのか……。
「猫たちみたいに、欲しいときは声をあげなくちゃ。ほんじゃお先に」
わたしは人間だ。そう言い返したかったけれど、オキクさんはヒョヒョヒョと笑いながら出ていってしまった。
「なんなの」
恋の季節だの匂いがするだの。よく分からない。お湯からあがり、露天風呂のほうへ移動した。
「わぁ」
ちょうど目の前に、緑に囲まれた高さ5m程の滝があり、豊富な水を落としていた。水が落ちた先には、ここからは見えないけれど、おそらく川が出来ているのだろう。
どういう立地なのか、旅館敷地から出ていないからまだ不明。でも、森の中に形成された町の旅館、露天風呂からは滝が見えて、川があって。橋もかかっているだろうな。想像してみる。散策しに行きたいなぁ。
孔輝も、この滝が見えているのかな。
風に揺れる草と木の歌声みたいな音を聞きながら、青い空を見ている。学校からも、お休みの日でも、青空は何度も見た。同じなのに、わたしが居た人間界の空ではないと思うと、不安で苦しくなってくる。
みんな、心配しているだろうな。警察に捜索願とかが出ているかもしれない。神隠しに遭ったんじゃないかとか、死んだんじゃないかとか。心ない噂も立てられるかもしれない。
美智は、孔輝が目の前で消えたのだからきっと泣いている。サブちゃんはどうだろう。わたしのこと、心配してくれているのだろうか。
恋の季節だなんて言われたから、余計なことを考えてしまって仕方がない。人間は季節で恋をするわけじゃない。美智はずっと孔輝に恋をしているし、サブちゃんはわたしを好きだと言ってくれている。じゃあ、わたしは? 出ない答えは、世界が変わったからといって出てくるわけじゃないみたいだ。
さっぱりし着替えを澄ませて、髪の毛を括る。暖簾をくぐり出ると、孔輝が待っていた。案の定、孔輝もわたしと色違いの服を着ている。両手を広げて「どう?」と見せ合って、ふたりで笑ってしまった。そして帳場へ戻ると、萩さんがいた。
「ゆっくりできたかな」
「いいお湯でした。着替え、ありがとうございます」
「ふたりとも、似合うじゃない」
にっこりと萩さんが笑ってくれた。
「今日はお手伝いありがとう。あとはもう、部屋で休んでいいですよ」
「大丈夫です。手伝います」
孔輝に続いて、頷いた。
「急にいろいろ出来ないでしょう? 明日、買い出しを手伝ってください」
萩さんはなにか書きものをしながら、せわしなく引き出しを開けていた。帳場の後ろには、正方形の引き出しがたくさん付いた箪笥のようなものがある。書類などがたくさん入っているのだろう。ここからはよく見えないけれど、なにがどこに入っているのか分かるように、見出しの紙が貼ってある。
「買い出し、ですか」
「そう。猫町には商店街がありますからね。今夜の夕食は部屋に持っていくから、ゆっくりしてください」
ふたり顔を見合わせると軽く頷いた。せっかくだから、甘えることにしよう。
「すみません。ありがとうございます」
「あとこれ、孔輝くんの貼り薬」
茶色の袋を渡された。『ダルニャ薬局』と印字されていた。
「だる、にゃ?」
「だいぶ良いです。明日には走れると思います」
孔輝は足を振って見せた。
「走るような用事は、無い方が良いですけれど」
「じゃあ、失礼します」
手を振る萩さんに頭を下げて、部屋へ戻った。
襖を開け、静かな部屋に入る。
「温泉、気持ちよかったなぁ」
孔輝が風呂敷を部屋の端に置き、伸びをしながら言った。
「滝があったよね」
「あった。このへん景色が良いんだな」
「森の中にあるもんね。青葉山の眺めと違うけど」
「休みの日にでも、どうなっているか、調査しようぜ」
「旅館って、お休みあるのかなぁ」
孔輝が眉毛を下げて苦笑した。
「そうだな」
今朝から敷きっぱなしになっている布団にドカリと座り、そして寝転んだ。薪割りは疲れただろう。自分も、緊張と不安で疲弊していた。温泉に入り、いくらか気持ちが柔らかくなった気がするから、疲れと不安を少しでも体から出したくて、孔輝と同じように布団に横になる。自然と「疲れたな」と口から出てしまった。
「滝があるってことは、川があるんだろ? 魚がいるなら、釣りもできそうだ」
「なにがいるんだろう」
「食材調達ができるな」
わたしは釣りの経験が無いけれど、孔輝はサブちゃんと、海や川に出かけていた。夏休み明けに真っ黒に日焼けしたふたりを見て、海でも行ったのかと聞いたら、釣りだと笑っていたことがあった。足に短パンのあとがついていて、わたしも美智も指をさして笑った。
「みんな、どうしているのかな……」
彼はどう感じているか分からないけれど、不安と恐怖は、孔輝がいるだけで半分になる気がした。不謹慎な考えかもしれないけれど。
「心配しているだろうね」
天井の木目をじっと見ていたら、隣から寝息が聞こえてきた。布団もかけないで、風邪をひいたら大変だ。起き上がり、はみ出していた掛布団をそっと孔輝のお腹にかけてやる。また横になって深呼吸をした。とにかく室内が静か。不安で仕方がないのに、疲れて瞼が重い。
いつしか、隣からの寝息を聞いているうちに、眠りに入っていった。




