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◇
着替えを終え、廊下へ出る。
よく見れば焦げ茶色の板に「玄関」「風呂」など、案内が書かれてある。彫ったのではなく筆かなにかで書いてあるから、はげかかっていてあと数年もすれば全部消えてしまいそうだ。
「こっちだね」
こう言っては悪いかもしれないけれど、あまり規模が大きくない旅館で助かった。建物内でも迷う羽目になるのはごめんだった。
「明日華ちゃん、孔輝くん」
牡丹さんが帳場にいて、こちらへ手招きしてる。先程のことを怒っている様子は無かった。
「こっち、こっち。迷わなかった?」
「大丈夫です」
「迷うほど大きな建物じゃないけどね。万が一ってことあるから。二重で迷ってる場合じゃないし。館内を案内するから」
ノートのようなものめくりながら、牡丹さんが話を続ける。
「うち小さな旅館だから、全8室。全部埋まる繁忙期もあれば閑散期もあるから。まぁうちのんびり営業だから季節毎に旬のお料理をお出しして。温泉も自慢だよ……ってこれは言ったか。時間はねぇ」
「あ、のう……」
「ん、なに?」
「あの、さっきは、その。すみません……不安で仕方なくて、つい」
「え? ああ。いいよ、別に。俺は気にしてないし」
そんなことはどうでもいいといった感じで、持っていた緑色の万年筆を着物の襟元に挿して、牡丹さんはひょいと身軽に帳場から出てきた。この素っ気ないというかドライな感じは猫だからなのか。
「とりあえず、こっち。そんなに広くないけど、場所を覚えてね」
「はぁ」
「はぁじゃなくて、返事」
「ハイ」
返事をしなさい、場所を覚えなさい。ここで働くことに同意はしていない。だけれど、意に反して状況は動いている。「あ、金魚」と孔輝の声が聞こえてきた。見ると、金魚鉢に数匹の金魚が泳いでいる。綺麗だね……って、そんなことに心を奪われている場合か。
「行くよ、孔輝」
「おお。あ、よろしくお願いしゃーす!」
「孔輝くん元気でいいね。あ、足、無理しないでいいから」
「大丈夫ですよ。全力ダッシュとかしなければ」
「そういう用事のときは自転車あるから大丈夫だよ」
わたしはまた展開に付いていけない。孔輝の順応能力には恐れ入る。牡丹さんと孔輝が並んで歩くうしろを、肩を落としながらついていく。
つつじ、松、白樺。入口に客室につけられた名前が、これもまた板に書かれているけれども薄くなっている。
丸い植木がポツポツと植えられた正方形の庭を囲むような建物の作りになっており、廊下から庭に出られる。その廊下を挟んで客室。庭を眺めながら廊下を行くと、台所と思われる場所へ入った。これは……うちのと違う……。
「なに、するんですか?」
いまから料理をするのだろうか。流しには皿や器が重ねられて水が張ってある。蛇口の横には、たわしが置いてある。
「お台所ね。明日華ちゃんはここで皿洗い。服が濡れるだろうから、この割烹着を使って。あそこから外に出て、井戸水を使って」
「い、井戸……!?」
「知らないの?」
「し、知ってるけど」
手渡された割烹着を頭からかぶった。牡丹さんと孔輝は外に出ようとしていたので、あとを追った。そして目の前に登場した「井戸」を見て口が開いてしまう。手押しポンプかよ! 思わず心の中で突っ込んでしまった。蛇口には井戸水が引いてあるのだろうか。もしかして水道が出ないの? どうして井戸なの。ここはなに時代なの。混乱してくる。
「孔輝くんはこっち」
「ハイ」
「これ、お願いしたいんだけど。足が痛むようなら無理しなくていいから」
「うわぁ。孔輝、できるの?」
頼まれた仕事は薪割り。斧なんてテレビでしか見たことがない。孔輝はそれをつかむと、構えて見せた。
「じいちゃんから薪割りを教わっていたからな。遊びに行くと手伝うのが楽しみだったんだ」
「なるほど。それなら話が早い」
なにが、話が早いんだ。わたしはモタモタと割烹着の紐を結んだ。孔輝は軍手をはめて、早くも薪を割ろうとしている。
「感覚を思い出せば楽勝」
「気を付けて……あっ」
ガスンという音と共に、斧が薪に半分ほど入った。更にゴンゴンと打ち付けると真っ二つに割れた。
「うまいじゃないか」
「へへ」
褒められると嬉しそうに笑って、足は痛まないのか心配になるほど続けて薪を割った。
「この山を頼めるかな。さっきも言ったけれど、無理はしなくていいから。俺は仕事があるから戻るよ」
「任せてください」
「力仕事ができるのは心強いね。これやると肉球がさぁ」
先ほど「カサカサになる」とか言っていたのはこのことだったのか。薪は燃料として使うのだろうから、もしかしてガスが通っていないのか。水道もガスも無いなんて。
「ああ、心配しなくても、ちゃんと電気ガス水道は通っているよ。ただ、不安定でたまに止まるから、新旧どっちも使えるようにしているだけ。いまはまだいいけれど、冬場は薪ストーブにも使うし」
「そ、そうなんですか」
顔色を読まれてしまったようだ。たまに止まるなんて、生活しにくいところなんだなぁ。そう考えていると、牡丹さんが台所へ戻ったのでそれを追いかけた。
「そのうち慣れるよ。じゃあ、あとよろしく」
牡丹さんはそう声をかけると行ってしまった。ガン、ゴンと薪割りの音が聞こえる。誰も居なくなった台所でわたしはため息をついた。台所を見回すと、木製の金庫みたいなものがあり、その隣にあるのが冷蔵庫……だろうか。電気は通っていると言っていたから、電化製品の冷蔵庫は一応、使えているみたい。わたしは金庫みたいなものに近付いて、2段のうち下の扉の取っ手を引いて開けてみた。内側は金属で作られていて中に野菜が入っており、ひんやりとしている。
「あ、これも冷蔵庫なんだ……」
上段を開けると、氷が入っている。なるほど、これで冷やしているのか。あまり冷気を逃がしてはよくないと思い、扉を閉めた。電化製品もあるのにこういうものも併用して使っているのか。
流し台へ行き蛇口をひねってみると、水が出る。ちゃんと使えるのだ。水道を止め、もう一度、外へ出た。孔輝は一生懸命に薪割りをしている。額に汗が光って、斧を振り下ろすたびに腕の筋肉が力強く動いているのが分かる。太陽の光を降り注いでいる。わたしは、井戸へ近寄り、ポンプに手を伸ばす。これを下げればいいのかな……。
「ほっ」
ぐっと体重をかけると、レバーが下がったがなにも起こらない。数回動作を繰り返すとバシャバシャと水が出てきた。いけない、バケツをセットしていなかった。金属製のそれを水が落ちるところへ置き、またレバーを動かした。バケツに当たる水音が気持ちよく聞こえてくる。何度か汲み上げると、バケツ八分目ほどに水が溜まった。
「よい、しょ」
両腕にずしりと重みがかかる。少し入れ過ぎただろうか。流し台まで運べるか不安になるほどの重さだった。バケツが大きいことを換算した量を入れなければいけなかったのに。
「うう」
少し捨ててから運ぼうか。そのへんで転んだりしたら困るし。でも、もったいないな。
「よっ」
「えっ」
急にバケツが軽くなったと思ったら、横に孔輝がいた。一緒にバケツを持ってくれている。
「こんなに入れて、お前ひとりで運べるわけがないだろ」
「ご、ごめんっ。ありがとう」