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五 そうじゃないのに

「――どうするつもりですか?」

 頭が混乱したままのワタルは、これだけ問いかけるので精いっぱいだ。

『明日の特番が終わったら、おれは沙樹を連れて田舎に帰る』

 断ったでしょ、と否定する沙樹の声が背後から辛うじて聞こえた。これは、トミーが勝手にしゃべっているだけか。それとも断ったというのは、自分との約束のことか? うたた寝している間にそのような文面のメールが届いているのだろうか。

「それについては……沙樹は同意しているんですか?」

『答える義務はないね。ただおれは、沙樹があんたのような不倫相手に遊ばれてるのが見てられないんだよ』

 不倫だって?

 思いもしない単語が出てきて、ワタルは思考が停止した。いくらまわりに打ち明けられないとは言え、不倫はないだろう。すべてはトミーの思い込みか?

 解らないことが多すぎる。相手にあわせて受け答えするのが精いっぱいだ。少ない情報から状況を把握しようとしている間も、トミーは沙樹を連れて行くと繰り返す。そしてとうとうワタルに条件を出してきた。

『明日の夜九時半に局のロビーまで来い。不倫じゃなくて本気だっていうなら、仕事くらいなんとかしろよ』

 ラジオのクリスマス特番が終わり、沙樹たちが局を出るころの時刻だ。その時刻はアンコールの真っ最中なので、ワタルがかけつけるのは無理だ。いくらなんでもライブをすっぽかして行けるはずがない。

 そのあとどのような会話を交わしたのか自分でもよく覚えていない。「解りました」とトミーの挑戦を受けたことだけは確実だった。沙樹とは直接話をしないまま、電話を切った。

 スマートフォンの画面にはメールが届いたという通知はない。少し安心しつつ万一のためにメーラーを起動してチェックしたが、未読のものは一通もなかった。

 安堵のため息をつきながらスマートフォンをテーブルに置いたそのとき、同じタイミングでアラームが鳴りピザの焼き上がりを知らせてくれた。オーブンから取り出し、ダイエットコーラと一緒にテーブルに置く。ワタルは体を投げ出すようにソファーに座った。食べ物を口にすると、少しだが落ち着いて考えるだけの余裕が生まれた。

 トミーが沙樹を連れて田舎に帰る――つまり、彼の両親に紹介するということか。

「じゃあトミーさんは沙樹にプロポーズしたのか? もしかしてル・ボン・マリアージュに行ったときに……」

 会話の内容を聞き出そうとしたとき、はぐらかされたことを思い出した。

 沙樹の中でトミーの占める部分が大きくなっているのは、幾度となく目の当たりにしてきた。

 一方で、事務所の方針に従って、恋人の存在をひたすら隠してきた。ワタルの意図するものではないにしても、沙樹をないがしろにしてきたことは事実だ。その結果がこれなのか。いつまでも待ってくれると信じていたのは、勝手な思い込みであり願望にすぎなかった。

「でも沙樹は断ったと言ってなかったか? 事実関係を確認しなくては」

 真相に迫るのは勇気のいることだが、何事もなかったように無視を続けるのもよくない。一刻も早く電話をかけて、真意を知りたい。でも今電話したら、またトミーが出て、沙樹と話せない可能性がある。

 ふたりが一緒に部屋で過ごしているシーンが頭に浮かんだ。沙樹からなかなか連絡が入らないのは、トミーと水入らずの時間を過ごしているからか?

 人目を避けてつきあうことに疲れた沙樹がそばにある穏やかな愛を選んだとしても、ワタルに責める資格はない。

 ふたりの仲睦まじい姿がまぶたの裏に浮かぶ。それを振り切りながら、スマートフォンに沙樹の番号を表示させ、発信させては途中で止めることを繰り返した。これが最後の会話になるかもしれないと思うと、どうしても電話をかけられない。

 それでも何度か繰り返すうちに、度胸が据わったのか、感覚が鈍ったのか、どうにでもなれという気持ちに変化した。

 番号を最後まで発信し、呼吸を整えながら、沙樹が出ることを祈る。一度のコールで電話が繋がった。沙樹の声だ。たったそれだけのことに、ワタルはひどく安堵した。それなのに素直になれなくて、焦る気持ちを悟られないように平常を装って話を始める。 

「すごい話になってるね。全然知らなかったよ」

『友也が勝手に言ってるだけだから、気にしないで』

 沙樹が本心から言っているのか、今のワタルには判断がつかない。

『友也の言うことなんて気にしないで、アンコールまできっちりこなしてね』

 本当にいいのか? ワタルをコンサート会場に釘付けにして、その隙に沙樹はトミーについて行くのではないか?

 そうでなくてもワタルにはずっと気にかかることがあった。

「沙樹はトミーさんのことをいつも『友也』って呼び捨てにしてるね。おれはいつまでたっても『ワタルさん』なのに」

 恋人を「さん」づけで呼ぶのに、トミーのことは親しげに呼び捨てにする。バンド仲間に相談したら、子供のような嫉妬心だと笑われた。

 だがそこにあるのは、自分との間よりも親密な距離だ。自分の彼女が他の男性にそこまで気を許しているのに、冷静でいられるはずがない。

『友也もあたしのこと沙樹って呼び捨てにしてるよ』

「おれもずっとそうだよ」

『え? あ、ほんとだ』

 予想通り、沙樹はそのことに気づいていなかった。

「それに最近の沙樹はいつもトミーさんのことばかり話しているよ。気づいてなかった?」

『だって今、一緒の仕事が多いし。それだけだって』

「週に一度三時間番組を担当してるだけだろ。一緒にいる時間なら、和泉さんの方が遥かに長い。でも彼のことは滅多に話さない。つまり沙樹の中で、トミーさんの占める部分が増えてきてるってことじゃないか?」

『まさか。そんなわけないでしょ』

「いや、無意識のうちにトミーさんのことを考えてるよ。沙樹が気づいてないだけで」

 ――明日、ライブが終わったら迎えに行くよ。

 たったそれだけの言葉がのどの奥に引っかかったまま出てこない。

『ライブ終わったら電話してね。ずっと待ってるから』

 震える声が耳に届く。

 沙樹を信じているはずなのに、素直になれない。解ったよ、と答えるだけでいいのに、本心とは違う冷たい言葉を吐いてしまう。

「いや……無理して待たなくてもいいよ」

 違う。そうじゃない。そんなことは爪の先ほども思っていない。

「トミーさんについて行きたければ行くといい」

 違う、違う。行くんじゃない。おれのもとに残ってくれ。

 だが――これ以上、沙樹に影の存在でいさせていいのか? 不倫と疑われるような無理をさせていいのか?

 そんな立場に疲れているのなら、無理して引き止められない。自分以外の人と一緒になる方が、沙樹が幸せになれるのなら――。

 だから大切な一言がどうしても出なかった。


 ――行かないでくれ。


 このまま会話を続けていたら、勢いに任せて決定的な破局の言葉を口にしそうだ。そうなる前にワタルは電話を切った。そしてスマートフォンの電源をオフにした。

 ――早くから予約してても、当日までに別れるカップルが必ずいるんだとさ。

 いつかの哲哉の言葉が聞こえた。あのとき自分たちもその一組になりはしないかと、漠然と感じていた。それが現実味を帯びてきた。

 嫉妬しているのを認めたくない自分。気持ちに素直になれない自分。大切な一言が言えない自分。

 解らない。どうすれば沙樹のためになるのか、何が自分の本心なのか。

 長すぎる春に打つはずの終止符は、こんな形ではなかったはずだ。どこで何を間違えたのだろう?

 すべてが闇に覆われ、何も見えなくなってしまった。

 情けないほどに何もできない。おれはこんなにもふがいない男だったのか。今夜ほど自分が嫌いになったことはない。

 ワタルはこぶしを握り、壁に打ち付けた。


   ☆   ☆   ☆



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