十 タイムリミット
FM局は、ライブ会場から電車で一駅だ。背の高い建物なのでここからでも見える。信号待ちのときにラジオをつけると、トミーのことが話題に出ていた。
『約束の時間まであと十分ほどですね。トミーさんのライバルはまだ現れていないようです。ぼくも応援に行きたいところですが、番組があるので無理ですね。リスナーのみんなも気になっているようなので、ADの野口をロビーまで行かせました。何かあったらすぐにレポートが入る手はずになってます』
まさかラジオで中継されているとは思わなかった。次の番組がクリスマス特番の延長になっている。
野次馬と化したリスナーやスタッフが大勢集まっているのは覚悟の上だ。幸運なことにテレビカメラは入っていないようだ。相手が芸能人だなんて、誰ひとり考えていない。沙樹が徹底してワタルの影を隠してくれたおかげだ。
車の流れは順調で、約束の時間より早くつきそうだ。
胸をなでおろしたのも束の間、局まであと少しのところで渋滞に巻き込まれた。トミーが番組で宣言したために、多くのリスナーが押し掛けて、局のあたりが混雑しているようだ。
ラジオはレポーターからの中継に変わった。カウントダウンを始める声が、カーステレオから流れてくる。玄関前の広場は見えているのに、車は少しも動かない。警備の者が慌てて跳び出し、ようやく交通整理が始まった。だがすぐには人の移動ができないのか、渋滞の列は動く気配を見せない。
無意識のうちに指がハンドルを叩く。無性にタバコが吸いたかった。
ついにタイムリミットになってしまった。
カウントダウンの声がゼロを宣言すると同時に、ちょっとしたハプニングが生まれたようで、レポーターが何か慌てている。だがそのトークはワタルの耳を素通りする。
「沙樹……」
間に合わなかった。
沙樹は今ごろ、トミーに手を引かれているだろう。ワタルが現れなかったことを、これ幸いと胸をなでおろしているのだろうか。それとも悲しい思いをさせてしまっただろうか。
意地を張ってメールの一本も入れなかった自分を後悔する。
『相手の人は来なかったようです。そりゃあこれだけ多くの人が押し掛けてたら、よほど度胸のある人でもなければ出て来れませんよ。トミーさんも思い切ったことをしましたね』
やっと交通整理が功を奏したらしく、車が流れ始めた。
十分近く遅れてラジオ局の前に到着したら、地下駐車場から車が出てきた。あっという間に取り囲まれたところを見ると、トミーの車だろう。助手席に人がいるか、ここからは確認できない。
ワタルは少し離れた場所に車を停め、様子をうかがった。ファンに向けて何やら話したらしく、回りにいた人たちが一斉に車から離れた。
沙樹は助手席にいる。自分の直感を信じ、進路を妨害するように車を停めた。
これが自分の選んだ道だ。引き返すことはできない。何があっても沙樹を取り返してみせる。
ワタルは大きく深呼吸をして、車のドアを開けた。
後方に止まっている車には、ふたりの人物が乗っている。運転席にいるのはDJトミー、サングラスをかけ助手席に座っているのは、まぎれもない沙樹だ。
ワタルは運転席のそばまで近寄り、窓ガラスをノックした。窓が開いて、トミーがいつも通りの笑顔で出迎えてくれた。
「こんばんは北島さん。こんな時間にお疲れ様です。これから番組の収録ですか?」
「いや、今日の番組はありませんよ」
「じゃあ、なんでまた」
ワタルがここにいる理由を、トミーは理解していない。ワタルがさりげなく視線を向けたとたん、助手席にいる沙樹はうつむいてしまった。
「なんでって、自分で呼んでおいて、その返事はないです。約束の時間には遅れたけど、アンコールを抜け出して来たので大目に見てくれませんか」
ワタルは困ってしまい、つい頭をかいた。
「おれが北島さんを? そんな覚えはないんだけどな」
トミーはまだピンと来ないようで、眉間にしわを寄せて考えている。突然沙樹は助手席のドアを静かに開けて、こっそり車を降りた。
いつもと同じだ。北島ワタルがその場にいることを気づかれたとたん、沙樹は自分の形跡を消してしまい、その他大勢に紛れ込む。
強制したことはもちろん、頼んだことすらないのに、沙樹はいつの間にかそのような振る舞いを覚えた。人目を気にすることなく、寄り添いながら歩く。有名人というだけで、こんな簡単なことができない。
要らぬ気を遣わせ、隠れるようにつきあってきた。これでは不倫だと誤解されても仕方がない。長い間沙樹を、辛い環境に置いていた。
でもそんな日々は終わりにする。
――だから沙樹、行かないでくれ。
トミーが突然大声を出した。
「ちょっと待て。沙樹の彼氏って、ワタルさんなのか?」
群衆のざわめきが静まった。
冬の夜の冷気が張りつめる。
リスナーたちは身動きひとつせず、一斉にワタルを見つめた。
人々に気づかれた瞬間から、注目を浴びる。ステージの上ならいざ知らず、どこにいても見られるということに慣れるまでは、かなりの時間が必要だった。
こんな居心地の悪さを沙樹には経験させたくない。だが今このときだけは我慢してもらうしかない。
「いや、さすがにそれはできすぎか。なあ沙樹。あれ? 沙樹、どこに行ったんだ?」
助手席を振り返ったトミーは、そのときになってやっと、沙樹がいなくなっていることに気づいた。ドアを勢い良く開け、転がり落ちるように車を降り、群衆の中に沙樹を探す。だが簡単に見つけることはできず、あちこちをきょろきょろと見回している。
ワタルは違う。一度たりとも探したことはない。どこにいても沙樹の気配なら見つけられる。
「沙樹、もう隠れなくていいよ」
ワタルは局の玄関を振り返った。沙樹は和泉の背後に隠れて、こちらをうかがっている。群衆が移動し、ワタルの前に道ができた。
目が合うと和泉は口元に笑みを浮かべ、一歩右に移動した。ワタルと沙樹の間を遮るものがなくなった。
「どうして来るの。ずっと誰にも見つからないようにしてきたのに、友也の挑発なんかに乗って。ここはTV局もあるのよ。いつ撮影されるか解らないのに」
沙樹は声を震わせながら叫んだ。こんな状況にいてなお、ワタルの芸能活動への影響を心配している。
「トミーさんは関係ない。おれの意志で、こうやってみんなの前に立ってる」
「夕べはそう言わなかったでしょ。友也について行きたければそうしろって突き放して、今さら何よ。あたしがどれだけ思いつめたと思ってるの」
「あれはおれが一方的に悪い。謝るよ」
下らない嫉妬心とプライドで、沙樹を追い込んでしまった。
「今さら謝られたって……」
群衆の見守る中ワタルは沙樹の前に立ち、握手をするように右手を差し出した。ところが沙樹は身動きひとつしない。このような場面で平常心を保てというのが無理な相談だ。
ワタルは思わず苦笑すると、沙樹の傍らに移動し、ふわりと包むようにうしろから肩を抱いた。
「沙樹、よかったね」
沙樹の同僚だろうか。張りのある澄んだ声が響いた。それを合図にギャラリーから称賛と驚愕の混じった声が飛び、あたりは歓声と拍手に包まれた。
「ワタル、おめでとう!」
「トミーさん、彼女を祝福してあげなよっ」
「やばすぎるぜっ」
沙樹はガチガチに凍りついている。それを丁寧にエスコートし、ワタルはトミーの前に立った。
「大切な恋人をトミーさんに奪われるわけにはいかないから、こうやって迎えにきました。沙樹が秘密にしてたのは不倫だからじゃなくて、相手がおれだからなんです」
「信じられねぇよ……誰がこんなこと想像できるんだ?」
トミーは完全に勢いをなくし、力なくワタルと沙樹を見ている。
「沙樹はアマチュア時代からずっと支えてくれてます。裏方に徹してバンド活動に協力してくれました。そんな健気な姿見てたら、好きにならずにはいられませんよ」
「そうなんだよ、沙樹は健気で一生懸命なんだよ。だからおれも惚れてしまったんだ。悔しいなあ、もっと早く出会ってたらチャンスもあったかもしれないってのに」
「それは違うよ」
沙樹がぽつりとつぶやいた。
「出会った順番は関係ない、先に友也と出会っていても、あたしはワタルさんのことが好きになる」
どこからか指笛と歓声が上がった。
「なんだよおっ。完全に失恋。ダメだしされちまったじゃねえか」
トミーはその場にへたり込む。和泉が慰めるように、友也の肩に手を置いた。
「北島くんが相手じゃトミーくんに勝ち目はないよ。あれでなかなかできた人物だ。西田にしたって、北島くんどころか彼氏の影すら見せなかったんだ。今回は相手が悪かったと思って諦めるんだな」
そして沙樹に、
「西田は気に病むことないぞ。ここまで話を大きくしたのはトミーくん自身だからな。計画通りに行かなかったときのダメージは覚悟の上だろうて。彼のことはおれに任せてくれ。今夜一晩、愚痴を聞いてやるさ」
とウインクした。沙樹は深々と頭を下げた。
ワタルは、周りを取り囲むようにしているギャラリーを見た。ライブ会場と同じように、誰もが軽い高揚感で頬を赤く染めている。
「年が明けたら、今のことは正式に発表します。詳しい内容は、明日事務所から報道機関に連絡を入れますので、今夜はおれたちのこと追いかけないでください。久しぶりのデートですから。それじゃあみんな、メリー・クリスマス」
リスナーや局の人たちから、何度目かの拍手と歓声が上がった。温かく迎えてくれるファンたちに囲まれている。初めからそれが解っていたら、長い期間沙樹に辛い思いをさせずにすんだのに。事務所も自分も、何を心配していたのだろう。自分たちを素直に祝福してくれる人たちに感謝して、ワタルは応えるように手を振った。
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