あろうことか、デバッグ室は異世界だった
ここで、再び悪戯を敢行する。
素直に彼女の手を取らないのだ。
何が起こるか。
手を伸ばして追っかけてくるのだろうか。
想定しない動きに、またバグが見つかるかも。
だからデバッグは楽しくてやめられない。
試してみよう。
左に手を振ってよける。彼女は逃げた僕の手をつかもうとする。
ほら、予想通り。
これは面白い。
右に手を振ってよける。また彼女は逃げた僕の手をつかもうとする。
犬が僕の手にじゃれているみたいで愉快だ。
さらに大きく右へ手を振った。
プニュ。
ん? 手になんか柔らかいものが当たったぞ。
でも画面の右には何もない。昇降口の下駄箱までは遠すぎる。
手を戻して、もう一回大きく右へ手を振った。
プニュ。
また手になんか柔らかいものが当たった。
画面にない物がある。
ということは、何かがHMDの外、つまり現実世界にあるのだ!!
なにーーーーーっ!!!
慌てて両手でHMDを外した。
すると、僕の上半身くらいの背丈の白い人影が視界に入った。
先ほどまで、そんなものはなかったはずだ。
デバッグ室に幽霊!?
成仏できないプログラマーの霊!?
僕の頭と四肢から、血の気がサーッと音を立てて引いていく。
さらに追い打ちをかけるように、腰が抜けた。
「うわあああああっ!!!」
思わず喉から絞り出された叫び声。
「何! 何! 何!」
全身がベルト付きバイブレータで震えるくらいブルブルしてきた。
超常現象か!
目をこらして白い人影の正体を見極める。
「…………っ!!!」
3秒かかったが、認識完了。
白い人影の正体は、真っ白なドレスを着た金髪灼眼の女の子。
彼女はベッドの上にちょこんと正座しているようだ。
ドレスの下から膝小僧がのぞいている。
まさか、女性プログラマーの霊?
いや、その正体も気になるが、先ほど二回も手にぶつかったのが何かを知りたい。
もしかしてと思って、まだ震えが止まらないが、大きく右手を振った。
プニュ。
彼女の豊かな右胸に手が当たる。
ああ、これか……。
実体があるということは幽霊ではない。
安心した。
いやいや、安心している場合ではない! これはセクハラだろ!
「エッチ!!!」
やっぱり怒られた……。
でも、すごくかわいい声で怒られて嬉しかった。これは事実。
「ご、ごめん! そんなつもりは!」
とっさに謝ったが、避けないそっちも悪いよ、と思った。
二回もぶつかっているし。
いや、今のを入れると三回か。
エッチとのたまう前に、避けてくれ。まったく。
彼女はジッとこちらを見ている。
灼眼が時々瞬きをする。
間違いなく幽霊ではなさそうなので、震えも止まり、落ち着いてきた。
深呼吸をして、さらに心を落ち着かせてから切り出す。
「あのー、僕はデバッグ中なんだけど、ここへ何しに来たの?」
「デバッグ?」
「そう。お兄さんはお仕事中なの」
だんだん、幼い女の子に向かって話しかける口調になる僕。
彼女は目をぱちくりする。
「何の?」
「ゲームの」
すると、急に彼女は目を見開いて、赤い瞳を一層輝かせる。
「ゲーム!? 遊びなの!?」
どうやら、『ゲーム』という単語に反応したようだ。
「いやいや、だからお兄さんはお仕事中だって」
そう会話をしながら、僕は彼女をじっくり観察していた。
丸顔。ぱっちりした目。糸のように細い眉。少し高い鼻。おちょぼ口。人形のようにツルツルした肌。
西洋人の幼女のような風貌だ。
いや、西洋人形というのが当たっているかもしれない。
胸の下まで届くロングヘアの金髪は、毛先までキレイなウエーブがかかっている。
フリルの付いたドレスが、かわいらしさを強調する。
このドレスの感じから、相当に気品の高いお嬢様のように思えた。
衣服が体にぴったりなせいか、豊かな胸をこちらに突き出すように強調するので、実に目のやり場に困る。
逆セクハラではないか?
それより何より、今一番気になるのは、彼女の目の色。
灼眼。
この世に灼眼の人間なんか見たことがない。
「あのー……」
「何?」
「君って宇宙人?」
「うちゅうじん? 知らない」
「じゃあ、ここって地球?」
「ちきゅう? 知らない」
「じゃあ、異世界?」
「いせかい? 知らない」
うーん、彼女の知っていそうな言葉がわからないから、なんと言えば良いものか。
「じゃあ、ここはどこ?」
「このお部屋のこと?」
「じゃなくて、このお部屋の外って言えばいいのかな?」
「ああ、この外はローテンシュタイン帝国よ。もちろん、この部屋も」
彼女のローの巻き舌が凄い。でも、嫌らしいのではなく美しく感じる巻き舌だ。僕にはとてもできないが。
当然、巻き舌ということはRで始まる文字だろうが、僕は一般的な日本人であってRとLの音を区別して発音できないので、相手に通じるか自信がない発音をする。
「へ??? ろー、てん、しゅた、いん?」
「そうよ。ローの発音がまるでなっていないけれど」
やっぱり、駄目出しされた。
「日本じゃないの?」
「にほん? ああ、日本のことね。ここはローテンシュタイン帝国よ」
やぱん? 何それ?
ヤカンとフライパンの合体か?
なんとなくだが、この子は『日本』を『やぱん』と認識しているらしい。
ということは、ここは外国?
それとも異世界?
僕は冗談半分で聞いてみた。鎌をかけてもいたのだが。
「まさか、ここって魔法が使えたりしないよね?」
「使えるわよ」
「えええっ! 本当に!?」
「何驚いているの? 当たり前でしょう!? こちらの世界の人は、全員ではないけれど、魔法くらい使えるわ」
なんですとー! 魔法が使えるだと!?
マジか……。マジですか……。
もし彼女の言うことが本当なら、これって異世界転移ってやつだ。
「聞いていい?」
「どうぞ」
「君はどこから入ってきたの? セキュリティカード持っているの?」
「これのこと?」
そう言って、彼女は僕が持っているカードと同じものを見せた。
「そうそう。それで入ってきたの?」
「ええ」
安心した。
壁を通り抜けてきた、と言われたらどうリアクションしていいかわからなかったし。
「じゃあ、その入り口から入ってきたんだ」
彼女は、ニッと笑ってウインクする。
「本当は壁を通り抜けられるのだけれど、守衛さんが出入りの管理しているからって、うるさいから」
通り抜けられるんだ……。
「で、何しに来たの?」
「ああ、外を歩いていたら物音がして、のぞいたら、なんか変なものをかぶって変なことをしている人がいるから、面白くて」
確かに、これをかぶってジタバタ動いていたら、変人に見えるかも。
「邪魔しないでね。用がないなら帰って」
「冷たいわね」
「だから、お兄さんは仕事中ってさっきから言っているでしょう?」
「ねえ、お手伝いしてあげようか?」
「えっ??」
「お手伝いしてあげようかって言っているの」
「それはわかるけれど、手伝うって何を?」
「だって、ここの国の言葉わからないでしょう? 文字も読めないでしょう?」
「なぜそれがわかるの?」
「だって、そのキーボードに書いてある文字って、こちらの国の文字じゃないもん。それ日本の文字でしょう?」
まあ、日本語よりローマ字が多いけど。
「じゃ、何を手伝ってくれるの?」
「まず、こちらの国の文字と単語と文例をダウンロードしてあげる」
「へ???」
「握手して」
彼女はそう言って右手を差し出す。
僕も半信半疑で右手を差し出すと、彼女の方から手を握ってきた。
柔らかいけどちょっと冷たい手。
でも、女の子に手を握られるなんて、文化祭の後夜祭のフォークダンス以来だ。
すごくドキドキする。
これから何が起こるのだろう。
そう思うと、ドキドキ感がさらに倍加していくのだった。




