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1939年5月17日 満州 〜新京〜

「何度言えばわかるんだ!これ以上無闇に歩兵を送るな!」


発する相手が総司令官だという事もお構いなしに、小柄な石居啓次(いしいけいじ)大佐は怒号をあげた。関東軍総司令部にある会議室は静まり返っている。


長机に身を投げ出す石居の対に座る初老の虎南博(こなんひろし)中将が静かな声で言う。


「それでは参謀主任は、同盟国満州がソ連軍に攻められている様子を我々は黙って見てろと言うのだな。」


何が同盟国だ。日満の関係が対等と思っている人間はここにいないだろう。そんな事を思いギュッと拳を握る。額には、汗が噴いている。


1939年5月11日早朝、「満州国」と「モンゴル人民共和国」の国境付近「ノモンハン」にて両軍の戦闘が発生し、後ろ盾の日本とソ連も軍隊を派遣した。


満州にある鉱物資源が欲しいソ連は大量の戦車や装甲車を投入し日本軍に襲いかかる。一方準備が出来てなかった日本軍は、歩兵や騎兵で編成された部隊を多数送り込み、国境線を何とか死守していた。


死守という文字通り、鉄の塊に生身で向かう日本軍は多数の死者を生んでいた。大草原広がるノモンハンの土は、日本兵の流した血で赤く染まっていた。


「そんな事は言っていない!航空機を使えと言っているんだ!戦車相手に、航空機の援護なしに突撃する歩兵の気持ちにもなってみろ!」


「それはならんな。航空機は先の事件によって使えないことが分かったじゃないか。練度もない航空隊を戦地に送り込んでは、それこそ屍体が増えるだけだ。」


「何が先の事件だ馬鹿!お前みたいな過去に囚われたままの人間がいるから不要な犠牲が出ているんだ!」


この言葉を聴いた途端、虎南の眉がぴくりと動いた。次第に顔に笑顔を浮かべるが、明らかに怒りで震えている。室内にいる将校たちは凍りついた。


「…私も歳なのか。今聞こえるはずのない言葉が聞こえたぞ。」


長机に両手を置き、よっこらせと言いながら腰を上げる。175cmという長身の虎南と石居の差は、物差し一つ分ぐらいあった。喰らい付くような目を向けている石居に負けじと顔を近づける。笑顔は完全に消えていた。


「貴様、馬鹿とは誰に言っているんだ。」


いつも以上に図太い虎南の声に、周りの者は完全に怖気付いている。『鬼の虎南』と呼ばれるほど日頃から怒りを露わにしている虎南だったが、これほどの威圧感を放った彼の姿を見るのは初めてだった。


「この会議室内で話していたのは俺とお前だけだ。俺が馬鹿というのなら、言われる相手は1人しかいないだろう。」


石居がいい終わるのが先か、虎南が怒りの鉄拳を石居の左頬に喰らわしたのが先か分らなかった。小柄な石居は宙を舞うように吹っ飛び、額についてた汗が綺麗な放物線を描いて床に落ちる。被っていた帽子は石居が床に着いたと同時に頭から離れた。


「今まで上官に対しての礼儀がなってない人間は数多(あまた)といたが、ここまで無礼な者は初めてだ!」


重々しい足音を立てながら石居の元に立ち寄り、胸ぐらを掴んだ。掴んだカーキ色の軍服に付いた勲章が、場違いな音色を奏でた。


「ふん、馬鹿と言われて憤激するということは、自分が馬鹿だと認めたようなものではないか。」


わざとらしい笑顔を作りながら言ってやると、虎南は更に顔を怒りで赤くした。これが(たこ)ですと言われても、何ら問題無いだろう。


また殴られるだろうと覚悟していたが、突如虎南は胸から手を離し、落ち着きを見せた。茹で蛸だった顔も、黄色を取り戻している。


「そこまで言うのなら、良いだろう。今回の戦闘の命令はお前の名義で出せ。航空機を使おうが何をしようが私は口出しをせん。」


あまりの変わり様に流石に戸惑いを隠せない石居を見下ろしながら、虎南はそう言うと、ニヤついて見せた。コイツの顔は普段から気に食わないが、この顔は特別嫌いだ。


「ふん、わかった。」


それだけ言うと手元に転がっている帽子を被り立ち上がる。深々と被った帽子で隠した目は、一種の不安を浮かべていた。


命令を自分の名義で出す。それはつまり責任を負うと言うことである。そもそも今回の作戦は本国にある大本営を通していないため、失敗すると独断専行としてそれ相応の処分が下るだろう。中将の虎南なら刑は軽いだろうが、大佐の自分なら死刑は免れない。


そんな事を思いながら部屋を後にしようとすると、背後から虎南の憎々しい声が聞こえた。


「私の言うことを従わないで自分勝手をした部下が支那事変の時にもいたもんだ。もっとも、そいつは二階級特進となってしまったがな。」


頭の弱い虎南の精一杯の皮肉なんだろう。石居は勝者のような笑い声を上げている彼の顔を見ないで扉の方へ歩きながらこう言った。


「…この国、満州を作る要因となった満州事変を起こした人間も、上司や大本営の命令無しに独断専行で行ったそうだ。だが結果は大成功し、国民から讃えられ、今も現役で大佐をやっている。」


扉の廻し手に手をやると、3尺ほど向こうで立っている虎南の顔をみた。


「それが私だ。」


それだけ言うと石居は会議室を後にした。

蒸し暑く薄暗かった会議室とは違い、窓から注ぐ太陽と、廊下内を通り過ぎるささやかな風がとても心地良かった。





参謀主席に与えられた執務室内に入った石居の目に自分が使っている机が目に入った。明窓浄机とは言えない書物や報告書で散らかった机を見て溜息を着く。


会議が終わり次第掃除する予定だったが、気に入らない上官に殴られた後ではとても意欲が湧かない。乱れた机を通り過ぎ、佐官用とも思われる高級感ある椅子に腰を落とした。


会議室の壁には歴代の参謀主任の顔写真が連々(つらつら)と並んでいる。現在の参謀主任である石居はまだ並ぶハズが無いのに、比較的手前の方に自分の太々(ふてぶて)しい顔があった。


実は石居は過去にも1929年8月から1932年7月までの2年強の間、関東軍参謀主任として満州で勤務していた。

関東軍と言えば日本の総軍の一つで国民からは花形だと思われているが、実際は東京にある中央の人間から嫌われた人間を集めた群衆だ。

陸軍の異端児とも呼ばれた石居が左遷されるまで、そう時間はかからなかった。


29歳という若さで関東軍の中枢に入った石居は、共産主義を布教せんとするソ連の脅威を強く感じ、朝鮮を守るための緩衝地が中国北部に必要であると大本営に説いた。

しかし、中華民国と大きな揉め事を起こしたくない政府は石居の意見を拒否する。


朝鮮にソ連の回し者がいるという些細な噂が出回り始めた1931年9月、石居はいくら説得しても言うことを聞かない東京と話をするのを諦め、独自の行動に出た。

これが国民の知れるところの「満州事変」である。


満州事変で戦果を収めた石居に、これまで冷ややかな目をしていた陸軍省は賛辞を送り、1935年に東京に戻った。参謀本部作戦課長という大日本帝国陸軍の重要たるポストに40歳という若さで登りつめた。


しかし、若い人間が主要な位置に立つとやはり周りの目が厳しくなる。おまけに上官に対する礼儀の無い石居は、当時の陸軍大臣ととある一件で口論になった。それが直接の原因となり、1938年2月、石居は再び関東軍参謀主任へと舞い戻ってしまったのである。


自分の写真を見ながら来歴を思い出し苦笑いをしていると、廊下からバタバタと誰かがこちらに向かってくる音が聞こえた。


「石居さん!連絡係から聞きましたよ!」


ドアのノックも無しに坊主頭の高野行幸(たかのぎょうこう)大尉が血相を変えてやってきた。彼は石居の参謀付で、身の回りの世話をやってもらっていた。


「なんだ騒がしい。ノックぐらいせんか。」

「また虎南さんと喧嘩したそうじゃないですか。しかも策の立案を全て任せるだなんて…」


育ちの良い顔立ちの美青年ーといっても30は超えているがーは不安そうな顔立ちで石居を見ている。

彼は日本の一大財閥「高野財閥」の総裁、高野弘行(たかのひろゆき)の三男であった。名前の由来は彼が出生した横浜ではその日、時の天皇、鳴仁(なるひと)様が行幸なさったからという何のひねりもないものであったが、本人はいたく気に入っていた。


「喧嘩なんてものは同じ程度の者同士でしか起きないんだ。あんな下賤な人間と喧嘩をした覚えはない。」

「顔に腫れ物を作られているのに何を言ってるんですか。」


的確な高野の突っ込みに、こりゃ一本取られたと言わんばかりに手を額に当てて笑って見せたが、高野の目はオホーツクの氷のように冷たいままだった。


「石居さん、考え直してください。もし失敗したら、石居さんは必ず処刑されます。ただえさえ本部に嫌われてるんですから。」

「ずいぶんとお前もずけずけと言うようになったな。だがここは日本だ。ソ助のスターリンじゃあるまいし、一つの失敗で極寒の地に送るような真似はしないだろう。せいぜい予備役送りの憲兵隊ガチガチぐらいだろう。」

「それじゃ駄目です!」


突然高野が煩雑とした机を叩いた。衝撃で積み重ねた書物が音を立てて崩れ落ちた。上官に向かって喰いつく様は、先刻の自分さながらだった。


「石居さんのような理論派がいなくなったら、関東軍には気合だの天皇に対する忠誠だの与太話(よたばなし)を語る人ばかりになってしまいます。」

「それでは俺はあの鬼の中将殿の言うことに従えと言うのか?それだと矛盾するではないか。」


この反論が来ることを予測していなかったのか口を(つく)んでいる高野を無視して続ける。


「確かに、ここには感情論で動く馬鹿ばっかりだ。俺のような理論派がものを言っても全く相手にしない。だからこそココで反覆の狼煙を上げないといけないんだ。それは関東軍のためだけではない。大日本帝国のためである。」


いつしか石居の顔から笑みが無くなっていた。国のためにならんとすることを考えることを、笑いを含めて話すのを自分の魂が許さなかった。


鷲の様な目をした石居に気圧された高野は下を向いて黙り込んだ。石居がこの顔をした時に意見を申せる下士官はいなかった。


「…わかりました。私も石居さんの補佐として全力で取り組ませてもらいます。」

「うむ、よろしい。」


魂を入れ替えた様にシャキっとした姿になった高野は挨拶を済ませて部屋を後にした。

扉の調子が悪いのか、閉まる際に不快な金属音がした。


高野がいなくなり、再び1人の空間になる。ああ威勢良く言ったものの、作戦の制作状況は未だ明確に出ていない。会議前に作った珈琲をグイと飲み干して一つ溜息をついた。


窓の方に目をやると司令部前では飴の売り子が露店を開いていた。満州という異国の地で花柄の着物を着ている売り子の女が内地にいた頃の懐かしさを思い出させる。


そうだ、飴を食ってから仕事をしようではないか。甘い物は脳の活性に繋がると聞く。そう思い石居は小銭を軍服の衣嚢(ポケット)に入れて部屋を後にした。


床に散らばった軍事関係の本が日の光を浴びながら、次に開かれるのを心待ちにしていた。

誠に勝手ながら2014年12月現在、この作品の更新を停止させてもらっています。


理由は、この作品は特に力を入れたいと思っており、もっと自分の作筆技術が向上してから加筆していこうと思っているからです。


再開の時までしばらくお待ちください。

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