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1931年〜1939年 世界

今回は1930代の世界の変動を描きました。

1931年9月18日、中国北東部に日本軍の軍靴の音が響きわたった。


日本が利権を持つ南満州鉄道の路線が前触れなく爆発、日本軍はこれを「中華民国」の仕業と決めつけ次々に鉄道沿線の都市部を攻略していった。


中国軍の抵抗も(むな)しく1932年3月1日、清朝のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を元首とした王道楽土「満州国」が建国される。

この5ヶ月間、極東で起きた争乱は「満州事変」として東亜史に永く語られることになる。



しかし鉄道の爆発を行ったのは中国軍ではなく日本陸軍の中国大陸に駐留する関東軍であった。

日本陸軍はそこの土地がどうしても必要だった。


そこから北に位置する仮想敵国「ソビエト社会主義共和国連邦」は南下政策の名の下、不凍港のある「日本領朝鮮」を虎視眈々と狙っており、日本にとって最大の脅威となっていた。


日本は朝鮮における権力の維持のため、領土的盾として中国北東部がどうしても必要となり、自作自演の事件を歯切りに、傀儡国家を建国したのである。



満州事変の終結からわずか7ヶ月後、中国大陸では大きな異変が起きる。

西部に位置する「瑞金(ずいきん)」にて、毛沢東(もうたくとう)と名乗る農民が「中華ソビエト共和国」なる国家の樹立を宣言、後ろ盾はもちろんソ連であった。


中共と呼ばれたこの国には中華民国大統領、蒋介石(しょうかいせき)の独裁政治に不満を持った中国人が流れ込み、その勢力を沿海部にまで拡げていった。



1933年に白人が牛耳る国際連盟が満州国を認めない決議を出し常任理事国の日本が脱退。

世界からの孤立に走ると思われてた頃、欧州の大国が日本に熱烈なアプローチを仕掛けてきた。

アドルフ・ヒトラー総統率いる「ナチスドイツ」である。


ヒトラーは先の大戦で欧州各国から白い目で見られている自国と、列強と距離を置こうとしている日本が手を組み、これまでの大国主義を一掃し新秩序を設立しようと目論んでいたのである。


国連脱退により路頭を迷うことになった日本はすぐさまこの話に食いついた。

そして1935年6月、強靭になっていく共産主義に共闘しようと日独防共協定が結ばれた。

新興列強国が手を組んだ事により、世界の勢力図が大きく変わろうとしていた。



中共によって国内における権力を大きく失っていた蒋介石はこの協定を聞きつけると日独に急接近した。

中華民国と日本は満州事変以降も小規模な揉め事を起こしており関係は最悪であったが、内部が共産主義に蝕まれている矢先、頼れる綱がもう日本しか無かった。


外交努力の結果、日独協定の僅か1ヶ月後に日独中三国防共協定が締結。日中の関係はマイナスからプラスに好転した。


地理的に分が悪いと思ったヒトラーは、同じく独裁政治を行うムッソリーニ率いる「イタリア」を誘い防共協定に加入。新生の勢力はその規模を爆発的に広げ、英仏から「枢軸国」と呼ばれ始める。



欧州や亜細亜で新しい動きが見える中、新大陸にある大国も重大な局面を迎えていた。


1936年1月1日、世界が新年を祝う中、「アメリカ合衆国」の首都「ワシントン」では民主党率いる合衆国政府に不満を持った学生や有色人種(カラード)、そして共産主義者が集結しホワイトハウス前で大規模な政治批判を行った。


これ以降、「アメリカ共産大行進」と呼ばれたこの騒動を幹に、数々の枝が伸びるように各地で暴動やストライキが起きた。


警察だけでは限界があると悟った政府は陸軍

を派遣を決定。


兵隊の登場により反政府運動は急速に落ち着きいたものの、国民に共産主義の恐ろしさを植え付けることになった。


5月に行われた大統領選挙では反共産主義者を掲げる共和党のエドワード・F・カーターが勝利し、同じく反共を掲げる枢軸4カ国に近づく事になる。



しかしここで大きな問題が生じる。古くから友好関係の英仏と、接触を試みる日独の仲は敵対関係となるまで悪化していた。


欧州統一を目論むナチスドイツと英仏蘭の植民地にある資源地帯を狙う大日本帝国に怯える「連合国」は米国に頼みの綱を求めていた。


そもそもアメリカ自身も日独との関係は芳しく無かった。

先の大戦で敵国となったドイツ、アメリカの植民地「フィリピン」をも狙う仮想敵国日本と友好関係を築くというのは、共和党内でも大きな議論となった。

連合国との面子を保ちながらも、反共産国家との連携を取りたい。議会には数々の意見が飛びあった。



アメリカが結論を出せない中、1936年の6月、満州の「大慶(だいけい)」にて良質かつ大量の石油が発掘され、続くように「遼寧(りょうねい)」でアルミニウムの原料のアルナイトと鉄鉱石の採掘が開始された。


当然のように採掘権を手に入れた日本は、資源産出国に姿を変え他国から資源を頼る経済から一転、独自の経済力を手に入れたのである。



1937年6月3日、潤沢な資源、莫大な資金を得た日本と戦争するとなると被害が計り知れないものになると決断したエドワード大統領は東京に赴き、日米防共協定を結んだ。

4カ国全てと結ばなかったのは英仏に対するせめてもの計らいだったが、これによりアメリカと枢軸国は半同盟関係となった。



日米疎遠の元凶、排日移民法も同日中に廃止され、国内が親米論で賑わう中、再び中国大陸が騒がしくなる。


1938年2月、突如中共の人民軍が中華民国の大都市「上海(シャンハイ)」に侵攻、「支那事変」が勃発した。

上海で兵器や軍艦をほぼ無傷で手に入れた人民軍が南京攻略に移る頃、蒋介石の呼びかけに応じた日独伊の3国が武器供与や援軍派兵を行った。


当然の事ながら中共軍のバックにはソ連がついていた。

鉱物資源が採れるようになった満州が欲しいソ連は中国の傀儡政権を満州国境まで北上させ、本国と挟み撃ちにして殲滅しようと狙っていたのである。


共産主義国家の軍お得意の人海戦術で攻め込む中共軍は6月初めに南京を陥落させるも、日本の派兵により軍艦は全て海中に葬られ、都市部は航空機で爆撃されこれ以上の進軍は不可能な状態になった。


この絶妙なタイミングで蒋介石は毛沢東に直接和平を申し込んだ。

日本が調停を取り持ち、中華民国は「北京(ペキン)」や「天津(テンチン)」を中心とした黄河以北の領土の保全を約束された。


蒋介石は南京陥落の責任をとって政界を引退。

後任の陳果夫(ちん かふ)が国名を「冀東国(きとうこく)」に変え、日本軍の駐屯を許可した。

進駐許可は傀儡の許可でもあり、こうして日本は大陸に二つの傀儡国家を手に入れたのである。



支那事変の際、中華民国と日本は再三にわたりアメリカに支援を頼んだが、アメリカは援軍どころか武器の提供すらし無かった。


アメリカにとって「防共」とはソ連との全面戦争だけであり、諸所で起きる事件ぐらい自分達や周辺国だけで何とかしてくれ、そんな考えでいた。


このアメリカの対応により、日本をはじめとする枢軸各国の対米感情は急速に冷え込み、1938年12月8日のベルリンにおいて日独伊三国同盟が締結された。


防共協定の上位互換となったこの同盟に冀東も参加を検討されたが国力的に省かれてしまい、アメリカは前述の理由で参加要請を拒否されてしまう。


こうしてアメリカは、共産主義国にも連合国にも枢軸国にも距離を置かれ、孤立の大国となっていった…

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