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DLTEEE  作者: 宇理
STAGE1
2/10

stage1-02

07/05 8:31


 ドンドンと鼓膜を刺激する音に沈んでいた意識が浮上する。重たい瞼を持ち上げ、上体を起こす。

部屋の中は既に明るく、壁掛けの時計は八時半を指していた。

鳴り響く音は段々と大きくなり、時折その中に人の声も混ざりだす。


 「はいはい、今開けますよっと」


寝ぼけ半分にベッドから抜け出すと、音の鳴るドアへと向かう。鍵のつまみを捻りドアノブを回す。

開いた扉の向こうには見知らぬ顔の男が二人立っていた。どちらも三十代の半ば頃だろうか。

グレーの作業着を着ており、頭には企業名の入ったキャップを被っている。


 「あの、どちらさんで?」


俊也が尋ねると、手前に立っていた男が困惑の表情を浮かべた。


 「あれ、聞いてませんか? こちらの学校の方から生徒さんが引っ越すか

ら荷物を運び出してくれって頼まれて来たんですけど。

  ここって浅井亮介さんのお部屋で間違いないですよね」


 男は扉の横に下げられているネームプレートと手に持ったメモ帳のようなものを交互に見比べる。


 「あ、はい。そうですけど。学校から頼まれたって、具体的には誰から?」


俊也の質問に業者の男はメモをめくる。


 「ええと、手続きをしたのは学校事務担当の河合サクラさんですね。心配でしたら今から電話で確認取られますか?」

 「それじゃあ、お願いします」


事務ということは、仲介役に過ぎないのだろうが亮介のことを知る手がかりには違いない。

少なくとも学校側は亮介の行方について何かしら知っているということだ。

昨日の松本の言葉の真偽を確かめる絶好の機会である。

俊也がそうこう推考している間に業者と事務との間で連絡が取れたようで男から携帯を手渡された。


 「お電話代わりました。浅井君と同室の葉月なんですが」

 「あぁ、葉月君ですね。こちらは事務担当の河合と申します。

  八時頃に貴方にも連絡を入れていたんですけど、繋がらなかったもので。いきなりでびっくりしましたよね、すみません」


 携帯のスピーカーから聞こえてきた声は若い男のものだった。俊也は慌てて自分の携帯を取り出し、履歴を確認する。

確かにその時間帯に知らない番号からの着信が数件入っていた。

 

 「いえ、こちらこそ気付かなくてすみません。それで浅井君の件なんですが、引越しってどういうことですか?」


俊也は固唾を呑んで返答を待った。不安に揺れる俊也の気も知らず、電話の向こう側の男は抑揚のない機械のような声で淡々と説明していく。


 「親御さんの都合で急に引越しが決まりましてね、転校することになったんですよ。

  彼自身は既に引越し先の方に行ってしまっていましてね。貴方には申し訳ないんですが、

  浅井君の私物を業者の方に教えてあげてもらえますか?」


男の言葉に俊也は胸を撫で下ろした。

――なんだ、亮介が死んだなんてやっぱり嘘だったんじゃないか。

自分に一言も告げずにいなくなるなんて、冷たい奴だと頭にくる部分もあったがそれよりも彼が生きていて無事だという喜びの方が勝っていた。

先ほどまでとはうって変わり、トーンの高い声色で俊也は尋ねる。


 「それは構いませんけど、転校ってどこへ?」

 「すみませんが、それはお答えできません。彼のお家の都合がありますので」


男の言葉に再び俊也は気を落とした。家の都合。それについては思い当たる節があった。

 亮介が幼い頃、彼の父親が病気で他界し、一家は貧しい生活を強いられていた。

母親は要領が悪く気弱で頼れる存在ではなかったという。三人兄弟の長男である亮介は弟たちの面倒も見なくてはならず、

その苦労を親友である俊也によく語っていた。そんな亮介が突然の引越し、行き先は告げられない。

浅井一家は夜逃げ同然で家を飛び出し、彼も一緒についていったのだと俊也は結論付けた。

そう考えることで自分を納得させようとしたのだ。辻褄の合わないことには目を瞑って。


 「わかりました、ありがとうございます。それじゃあ失礼します」


通話をオフにして借りていた携帯を業者へと返す。

 気分は晴れないままだったが、業者を待たせている手前うだうだしているわけにもいかず、気持ちを切り替える。

俊也の指示の下、荷物の運び出し作業が始まった。

どこから手をつけていいか分からないほど荒れ果てた部屋を前にため息しか出てこない。

きっと業者の二人も呆れていることだろう。

俊也の散らかしぐせと、ごちゃ混ぜになった私物のせいで作業が全て終わる頃には、時計の針は12時を回っていた。

 自分の私物しかなくなり、広くなった部屋を見渡す。

壁に立てかけられた金属製のバッドも壁にセロテープで貼り付けられていたプロ野球選手のポスターも、もうそこにはない。

扉の横の浅井亮介と書かれたネームプレートも取り外され、その存在はまるで初めからなかったもののようにされてしまった。


 「なぁ、亮介。お前どこに行っちまったんだよ。もう、会えないのか……?」


その呟きは誰の耳にも届くことなく静寂の中に飲み込まれて消えた。頭の中には亮介と過ごした日々が延々とループされる。

下らないことで笑い合い、本気のケンカもした。その分だけ互いのことを知り、友情を築き上げてきた、つもりだった。

それが、こんな形で十年もの付き合いに終止符を打つことになるなどとは夢にも思っていなかった。

胸にぽっかりと開いた穴には冷たい風が吹き込んでいる。気付かぬうちに目からは一筋の雫が零れ落ちていた。

 どれくらいそうしていただろうか。静まり返った部屋の中にぐぅという間抜けな音が響いた。

朝からまだ何も食べていなかったことを思い出し、腹をさする。こんな時でも腹は減るのだ。

意識しだすと余計に空腹感が増し、何か食べるものはないかと辺りを見回した。

買い置きの菓子も丁度切らせており、仕方がないので買いに出ることを決める。

ポケットに財布だけを突っ込み部屋を出る。俊也の部屋がある三階から階段を使い一階まで駆け下りる。

一階には食堂があるが、土日はやっていないため素通りする。

玄関で靴を履き替えていると、外から帰ってきたある人物と鉢合わせをする。


 「松本先輩……」


松本は軽く挨拶をするとそのまま横を通り過ぎようとした。俊也はとっさに腕を掴んで引き止める。


 「亮介、ただの引越しだって言ってましたよ。昨日、なんであんなこと言ったんですか?」


松本の言葉のせいでどれだけ余計に心を痛めたか、と俊也は目で訴える。松本はふいと視線を逸らすと細い声で返した。


 「そう、ごめんね。昨日はちょっとどうかしてたみたい、忘れていいよ」


俊也は揺れる瞳で松本を見つめる。


 「……本当にいいんですよね。亮介は引っ越していなくなったんですよね?」


松本は口を噤んだが俊也が一向に手を離そうとしないため、観念して口を開きかけた。が、その時背後から声がかかる。


 「おっ、松本じゃん。今帰り? なんか買って来たんだろ? 部屋戻って一緒に食おうぜ」


振り返ると、そこには何度か見かけたことのある、松本と同室の男子生徒の姿があった。

 

 「あ、うん。それじゃあね」


松本はそう言うといとも簡単に俊也の手を振りほどき、男子生徒と共にその場から去っていった。

 松本の含みのある態度に渦巻いていた胸の靄が再び姿を現し始める。

本当にただの引越しとして亮介の件を片付けていいのか、それに自分の記憶のことについては未だ謎に包まれている。

だが今、松本を追って彼を追及する気にはなれなかった。その方が自分にとって都合がいいとどこかで考えていたのかもしれない。

俊也はすっきりとしない気持ちのままこの週末を過ごすこととなった。



07/07 8:40


 休み明けの月曜日。朝一のHRで担任教師の口から亮介が転校したことが告げられた。

クラスのムードメーカーの突然の転校にそれを嘆く声が飛び交った。

何故、どうしてという声も多く挙がったが、教師から返ってきた答えは俊也が事務員の男から聞いたものと全く同じだった。


 「なぁ、葉月。お前浅井からなんか聞いてなかったのかよ?」


隣の席に座る男子生徒が俊也を軽く小突いて言う。


 「あぁ? 知らねーよ。こっちが聞きたいくらいだってーの」


親友のくせに何も知らされていないのかと言われているようで、俊也は悪たれた態度を取ってしまう。

そんな自分に嫌悪感を抱いたがどうすることもできなかった。俊也の心境を察したのかそれ以上その生徒は揶揄するような真似はしなかった。

落ち着かない気分のまま、ただ漫然と時間だけが流れていく。


 午前の授業の終わりを告げるチャイムを合図に、それぞれ弁当を食べる者、食堂へ足を運ぶ者、購買へ駆け込む者と生徒たちは慌しく動き始める。

見慣れた光景だ。ひとつ違うのはいつも昼食を共にしていた亮介がいないということ。

俊也はここでもその存在の大きさを実感する。とりあえず、食堂にでも行くかと席を立ったとき、自分の名前を呼ぶ声が教室の外から飛んできた。

 

 「オッス、オースッ! 俊ヤラーいる?」


底抜けに明るく、そして喧しいその存在は一瞬でクラス中の視線を集める。

暗い茶色のセミロングの髪、赤いフレームの眼鏡、その特徴的な名前の呼び方。と、きたら一人しかいない。


 「……ヒロ子、何しに来たんだよ」


はぁ、と俊也はため息混じりに、やって来た女子生徒こと吉野ヒロ子に近づき声をかけた。


 「あっれー? もしかして元気ない? まぁ、当然か。それよりこの後時間ある? ちょっと話したいことがあるんだけど」


特に断る理由もこの後の予定もなかったので俊也は首を縦に振った。


 「別にいいけど、飯食いながらでもいいか?」

 「おっけー。俊ヤラーはいつも食堂だったわよね? ちょっと待ってて、お弁当取って来るから!」


そう言うとヒロ子は自分のクラスであるD組へと駆けて行き、一分としない内に弁当を抱えて戻ってきた。

 食堂は予想通り多くの生徒で混雑していたが、何とか待たずに席と飯にありつくことができた。

ラーメンを載せた盆を静かにテーブルの上に置く。二人は窓際の席に向かい合うようにして座った。

ガラス張りの壁の向こうでは、学校お抱えの庭師が丹念に手入れをしている鮮やかな緑が日の光を浴びて輝いている。

ガラスを通して日の光が室内にも差し込んで来ているが、食堂内は空調が効いているため暑さは感じない。


 「それで、改めて話ってなんなんだ?」


俊也は割り箸を袋から取り出すとパキリと割って、湯気の立ち込めるラーメンを一口啜った。

塩気の効いたコクのある味わいが口の中に広がる。


 「うん、実はスケさんのことなんだけど」


ヒロ子は俊也に対してそうしているように、親しい友人には妙なアダナをつける癖があった。

ここで彼女がいうスケさんとは浅井亮介のことである。亮介の介を取ってスケさん。


 「あぁ、あいつなら親の都合で転校したってよ。それ以上のことは俺も知らねぇぞ」


またその話か、と俊也はぶっきらぼうに言う。しかし、ヒロ子は首を左右に振ってそうじゃないと否定した。


 「あたしが聞きたいのは先週のスケさんの様子よ。今まで接点のなかった人が急に近づいてきたー、とかどこに出かけてたとか、そういうの知らない?」


普通であれば易々と答えられるはずの質問であったが、先週の大半の記憶がない俊也はどう答えたものかと悩んだ末、逆に質問を返した。


 「何でお前がそんなこと聞くんだ?」


俊也に亮介、そしてヒロ子の三人は一学年の時に同じクラスメイトであり、親しい友人として付き合いがあった。

だが、二年でクラスが別々になってからは、すれ違った時にたまに話す程度の関係になっていた。

いくら急な転校だからといって、その理由や行き先ならともかく、転校前数日の動向を聞きたがるものだろうかと、不審に思う。


 「ほっほーう、何でときますか。こりゃ手厳しいわねぇ。俊ヤラーこそ素直に教えられない理由でもあるのかしら?」


ヒロ子は口の端を持ち上げ意地の悪い笑みを浮かべた。俊也はムッとして言い返す。


 「聞いてんのはこっちだろ?」

 「あら、先に聞いたのはこっちの方なんだけど。まあ、いいわ。

  さっきの口ぶりだと俊ヤラーはスケさんが転校したことは知ってるのよね?」

 「ああ。そりゃあな」


俊也は小さく頷く。


 「あたしはね、スケさんを転校させた人間を探してるのよ」


ヒロ子は弁当箱の蓋を開き、視線を俊也からそちらへと移す。花畑のような色とりどりのおかずが箱の中から顔を覗かせていた。


 「転校させたって、親の都合で引っ越したんだろあいつ?」


どういうことだと俊也が問うとヒロ子は弁当をつつきながら言葉を返す。


 「本当にそう思ってる?」

 「違うってのか?」


ヒロ子は口に詰めたものをごくりと飲み込むと再び俊也へと顔を向けじっと見つめる。

その目には、俊也のその表情は本当に訳が分からないといった困惑のものとして映っていた。


 「んー、その様子じゃ無関係って感じかしらね。当てが外れたかしら」


ヒロ子は自分だけに聞こえるような小さな声で呟いた。


 「何か言ったか?」

 「ううん、何でもない。あたしはね、スケさんが本当にただの転校だったのかを確かめるためにこうして俊ヤラーに会いに来たのよ。

  でさ、マジな話スケさんのことについて何か知らない?」


先ほどまでとは打って変わり、真面目な顔つきでヒロ子が言う。


 「そりゃ俊ヤラーに比べりゃスケさんとは付き合いも短いし、最近はあんまり会ってもなかったけどさ。

  こう見えて好きだったのよ、スケさんのこと」

 「えっ」


ヒロ子の突然の告白に俊也は目を丸くして、金魚のように口をパクパクとさせた。

彼女が亮介に対し、そのような感情を持っていたとは微塵も思っていなかったのだ。

二人のことを近くで見てきたはずなのに、と俊也は何ひとつ気付くことのできなかった自分を恥じた。

そんな俊也をよそに、ぷっと小さな笑い声が前方から飛んでくる。


 「ちょっと、ちょっとぉ。何よ、その顔は。俊ヤラー勘違いしてない?好きって言ってもそういう意味じゃあないわよ」


ヒロ子は必死に笑いをかみ殺す。

それを聞いて「へっ?」と間抜けな顔をした俊也を見てとうとう堪えきれなくなったのか、ヒロ子は大口を開けてゲラゲラと笑いだした。

テーブルに身を乗り出し、にやりとしながら追撃する。


 「なになに、もしかして俊ヤラーあたしに気があった?」


落ち着こうと水を口にしていた俊也は、その言葉で口に含んだ水を噴出しそうになる。

吐き出さないように、無理矢理飲み込もうとしたため、気管にひっかかりげほげほとむせた。


 「バカ! そんなんじゃねぇよ! お前みたいなガサツなやつ女として意識したことなんて一度もねーからな!」


そんな俊也の暴言にもヒロ子は気を悪くした様子も見せず、目を細めおどけた調子で返す。


 「そうムキに否定すると逆に怪しいわよ? まっ、これ以上からかうのも可哀相だからこの辺にしといてあげるけど」


ヒロ子の言う通り、否定する程自分の首を絞めることになりそうな予感があったため、その話題は早々に切り上げ本題に戻る。


 「で、亮介の先週の様子だっけ? っていうか、何でお前は亮介がただの転校じゃないって思うんだ?」


俊也は胸の内に湧いた疑問をぶつける。


 「えっ、あぁ、だってこんな時期にいきなり転校なんておかしいじゃない? 絶対何かあると思って」


さっきまでの余裕はどこへ行ったのか、ヒロ子はぎこちない口調で答えた。

嘘をついているのは間違いなかったが、邪な企みがあるようにも見えず、ひとまず見逃してやることにした。


 「どんな些細なことでもいいから教えてくれると助かるんだけど」


縋るようなヒロ子に俊也はバツが悪そうに頭をぽりぽりと掻く。


 「お前の力になってやりたいのは山々なんだけどさ、ちょっとワケ有りでそれはできねぇんだよ」

 「訳有りってどんな?」


ヒロ子は首を傾げる。


 「いや、それ言ったらぜってーお前笑うし、信じねーって」


先週の記憶がありません、などと馬鹿げたことを自ら口にする気にはなれなかった。


 「あら、失礼しちゃうわね。あたしがそんな奴に見える?」


ふくれっ面でヒロ子は反論する。それに対し俊也は一拍も置かずに真顔で即答した。


 「見える」


無遠慮な俊也の物言いにヒロ子は口元を引き攣らせる。だが、思い当たる節があったのか素直に認めると、大きく息を吐いた。


 「そうね、確かに笑うかもしれないわ。でも、真面目に話してくれたことに関しては信じるわよ」


俊也は彼女のまっすぐで曇りのない瞳を見つめ返す。確かにこいつはバカ正直に何でも信じる奴だったな、と俊也は観念して話し始めた。


 「実はさ、俺、先週の月曜から木曜までの記憶が全くないんだよ」

 「えーと、記憶がないっていうのは、俊ヤラーの脳のキャパの問題ってことで?」


憐れむようなヒロ子の眼差しにカッと頭に血がのぼり、こめかみの辺りがピクピクと流動する。

とはいえ、ヒロ子なりの冗談だということもうかがえたので俊也は軽く流すことにした。


 「バカ、ちげーよ。すっぽり記憶が抜け落ちてんの。先輩が言うには記憶を消されたとか……」


自分で言っておきながら自信がなくなってきたのか、次第に蚊の鳴くような声なりついには口ごもる。


 「記憶が消された? どういうことなの、ソレ」


茶化す様子もなく真剣な顔つきで問うヒロ子に俊也は安堵すると、大げさに肩を竦めて答えた。


 「それが、俺にも分かんねぇんだよ。先輩は詳しく話してくれる気ないみたいだし」


俊也は頬杖をついてむくれた表情を見せる。


 「ねぇ、その先輩他には何か言ってなかった? ゲームがどうとか」


数日前の松本との会話を思い起こす。

あの時は亮介が死んだと仄めかされたことで衝撃を受け、それ以外のことは頭の隅へと追いやられていた。


 「あ? あぁ、そういや言ってたかな」


それを聞いたヒロ子は黙り込み、らしくもなく思案しているようだった。

その間、俊也は先を促すことはせず止まっていた手を動かしラーメンをすすった。

柔らかくふにゃふにゃになった麺が口の中で踊る。


 「ねぇ、俊ヤラー。その先輩が誰なのか教えてくれないかしら?」


麺をスープで流し込み、例の先輩の名を口にしようとしたところであることを思い出す。


 「いや、待てよ。確か人探しゲームって言ってたな。俺が勝手に今ここで名前を出してもいいもんなのか?

  その前に、先輩の言ってたゲームってのはマジで存在するのか?」


そして、それが亮介のことと関係しているのか。


 「まっ、当然そういう流れになるわよね。でも、これ以上先のことは俊ヤラーが無関係の人間だとすると言わない方がいい、のよねぇ」


ヒロ子は自分自身に問いかけるように言った。


 「先輩も同じようなこと言ってたな。俺は関係ないとか。けど、亮介のことと何か関係があるなら俺にだって知る権利はあるはずだぜ」


――どいつもこいつも勝手に人を関係ないなんて決め付けやがって。

こちとら大事な親友が理由不明でいなくなって、オマケに自分の記憶までいじられてるかもしれないんだぞ、と俊也は怒鳴ってやりたくなった。

 目は口ほどに物を言う、というべきか俊也のそんな思いがヒロ子にも伝わったのか、彼女は一人納得したように喋り始めた。

 

 「そう、よね。あたしなんかより、俊ヤラーの方がよっぽどスケさんと仲良かったもんね。

  よし、分かった。放課後時間ある? あ、こっちの部活が終わった後になるけど」

 「話してくれるのか!」


手がかりとなる一筋の光に俊也は表情を明るくする。


 「そう、それ! やっぱり眉間に皺寄せてマジ顔してるのって俊ヤラーには似合わないっていうかー。

  いつもみたいに笑顔でアホ面なのが一番だわ」


ヒロ子は右目を瞑ってウインクを送った。


 「アホ面は余計だっつの。でも、ありがとな。ヒロ子」

 「別にお礼を言われるようなことじゃないけどね。

  それじゃあ、放課後フリーになったら連絡ちょうだい。っと、もうこんな時間じゃない」


ヒロ子は左腕にはめた銀色のアナログ時計を見ると、ほったらかしになっていた弁当をかっ込む。

小動物のように頬に物を詰め込み、おいしーと喜悦の声を上げる様を見て、俊也はふっと口元を綻ばせた。




07/07 18:12


 「ごめーん、待った? ちょっと部活が長引いちゃってさぁ」


学校指定の紺のハーフパンツに白い無地のTシャツを着て現れたヒロ子はどこから見ても元気なスポーツ少女といった風体だ。

実際、その通りなわけだが。


 「いや、俺も今上がったとこ。ソフトボール部の方はどうよ。今年のチームはいいとこまでいけそうか?」

 「どうかしらねぇ。うちの部活は成績よりも楽しくがモットーだから。

  でも、みんな仲いいし、いいチームだと思うわよ。そっちこそどうなの?」


校舎の玄関前で落ち合った二人は他愛のない話をしながら、校門へと足を向けた。

 空は青と赤を混ぜこぜにした雲で覆われ、それを背景にカラスたちが喧しい声が上げながら飛んでいる。

だが、その声も部活帰りの生徒たちの賑々しいオシャベリに塗りつぶされていく。

 

 「まぁ、ぼちぼちってとこだな。それより、これからどーすんだ?」

 「あたしんちに行くの。すぐそこだからさ。あたしが男子寮に行くわけにもいかないでしょ?」


こっちよ、と校門をくぐると右手側を指差した。

高さも色もまばらな建物がひしめき合う乱雑とした街並みが見渡す限り続いている。

交差点を過ぎ、坂道へと差し掛かる。角度のきついその坂は、部活で疲労した体には少しばかり堪えるものがあった。

昼に比べ気温は下がっているものの、あくまで比べればという程度。額にはうっすらと汗がにじむ。

ヒロ子は毎日この道を行き来しているのかと、俊也は感心した。

それと同時に校舎のすぐ裏手にある学生寮の存在に今更ながらありがたみを感じていた。十分ほど歩いたところでヒロ子が足を止める。


 「ここよ」


ヒロ子の視線の先には十階建てのマンションがそびえ立っていた。

 赤朽葉色の外壁は夕日に照らされその色をいっそう強めている。

入り口までの道はレンガで舗装されており、その両脇からは切り揃えられた芝生が広がっている。

正面玄関の自動ドアを抜けると、その奥には二つのエレベーターがあった。

ヒロ子は向かって右側の壁に備え付けられた郵便受けをチェックすると、俊也を促しエレベーターへと乗り込む。

壁に埋め込まれた液晶画面に浮かぶ5Fの文字をタッチするとその部分が赤く点灯した。

ほぼ無音に近い静かさで二人を乗せた箱が上階へと動き出す。

息つく間もなく五階へと到着し、蛍光灯の青白い光に照らされた廊下を進む。

つき当たりまで来るとヒロ子はポケットから鍵を取り出し、手早くドアを開け俊也を部屋の中へと招いた。


 「ようこそ、我が城へ。なんつって。あ、うち一人暮らしだから遠慮なくあがってね」


壁に取り付けられたスイッチで照明を点けると、ヒロ子はずかずかと奥へと行ってしまった。

俊也は靴を揃え、恐る恐る部屋へと上がる。女の子の部屋、それも一人暮らしとなると、普段意識していない相手でも緊張が走る。

夏の暑さとは関係なしに背中に一筋の汗が流れた。


 「お、おじゃましまーす」


短い廊下を抜けた先は、六畳ほど程のワンルームへと続いていた。

ピンクを基調とした家具、フリルつきの花柄のカーテン、きわめつけにはベッドの上に飾られた愛らしいぬいぐるみ。

俊也の思い描いていた理想の女の子の部屋像がそこにあった。

ただ、女の子の括りにヒロ子が入っていなかったため、彼女の部屋として想像していたものとはかけ離れていたが。


 「お前、みかけに似合わず可愛い部屋に住んでるのな」


口からは自然と率直な感想がこぼれていた。


 「そそ、こう見えて結構かわいいもの好きなのよ。そこかけて」


ヒロ子に言われ、部屋の中央に置かれた一人掛けの桃色のソファに腰を下ろす。

ヒロ子は冷蔵庫から麦茶を取り出すとガラスのコップに注ぎ、ソファの正面に置いてあるローテーブルにそっと置いた。

座布団をどこからか引っ張り出してくると、俊也の対面になる位置に置き、その上に座り込む。


 「さてと、まず何から話そうかしらね。俊ヤラーから聞きたいことってある?」

 「亮介が転校した理由、知ってたら教えて欲しい」


ヒロ子は目を伏せ、深呼吸をした後に視線を俊也へと向けた。


 「あのね、俊ヤラーも薄々勘付いてると思うけどスケさんは転校したわけじゃないの」

 「お前、昼は転校したとかって言ってたじゃねーか」

 「あー、あれは俊ヤラーに合わせた言い回しにしたっていうか、あんまり余計なことを言い過ぎないための配慮というか」


ヒロ子が気まずげに言った。亮介は転校したのだと自分に言い聞かせてきた俊也にとってその言葉は矢のように胸に突き刺さる。

――転校ではないとすると。 

俊也はごくりと唾を飲む。再び、自身からのメールと松本の言葉が頭を過ぎる。


 「まさか、マジで誰かに殺されたとか言うわけじゃねーよな?」


ヒロ子は首を横に振る。それは肯定なのか否定の意なのか。ヒロ子の言葉の続きを待った。


 「そう、スケさんは何者かによって殺されたのよ」


重々しい声色でヒロ子が告げる。既に松本から聞かされていた内容とはいえ、一度否定されたことである。

こうして再度はっきりと言葉にされた衝撃は心臓を抉るようなものだった。震える声で俊也は尋ねる。


 「嘘だろ。なんで? 亮介が?」

 「それを説明するには昼間話したゲームのことから説明しなきゃならないんだけど、聞く覚悟、ある?」


射抜くようなヒロ子の視線を正面から受け止め、俊也はゆっくりと頷く。こんな思わせぶりなことを聞いておいて今更引けるかと。


 「わかったわ。それじゃあ簡単にゲームの内容を説明するわね」


そう言ってヒロ子は俊也の目の前に小型の板状コンピュータを差し出した。

手のひらに収まるそれの赤い液晶画面には大きく黒字で12と表示されていた。


 「ゲームのルールは至って簡単。この数字が13って書いてあるのを持ってる奴を倒せばクリアってわけ。

  参加者はあたしを含めて13人。自分以外のメンバーは一切知らされていない状態からスタート。

  で、1番から12番までのメンバーの誰かが13番を倒す。そしたらゲーム終了ってことらしいわ。

  逆に13番の人は自分以外のメンバー全員がリタイヤすることがクリアの条件なの」


早口で話すヒロ子に俊也は慌ててストップをかける。


 「ちょっと、待った! その前に、なんでそんなゲームをすることになったんだ?」

 「うーん、その辺はちょっとややこしいのよね。端的に言うと学校側からの指示でやらされてるって感じかな。

  まぁ、学校っていうかもっと多くの組織が絡んでるらしいけど、あたしそこら辺のこととかゲームの目的はあんま理解してないんだ」


ヒロ子はきまりが悪そうに苦笑いを浮かべる。当然、俊也としてはその説明で納得できるわけがなかった。

だが、それ以上の説明を求めてもヒロ子自身把握していないことは彼女の様子から察せられたので追及はひとまずなしにして、続きを促す。


 「んで、その倒すってのはどういうことなんだ? このケータイみたいなのを破壊でもすりゃいいのか?」


俊也はその手に収められた黒いプレートをもう一度見やる。


 「ああ、それは物騒な言い方すると殺せってことよ」


ヒロ子は事も無げにそう口にした。あまりにも平然と言ってのけるので、反応がワンテンポ遅れる。


 「殺せだって? そんな馬鹿なことあるかよ!」


俊也は目を見開き、声を張り上げた。


 「俊ヤラー、あたしさっき言ったわよね? スケさんがどうなったか」


彼女に似つかわしくない怒気を孕んだ眼差しが眼鏡の奥から向けられる。


 「馬鹿なこととか信じるとか信じないとか。もう、そういう段階の話じゃないのよ。

  既にゲームは始まっていて犠牲者が出てるの。あたしが話してること嘘だと思うのなら、この話はここまでよ」


拒絶するようなヒロ子の言葉に俊也は焦り、謝罪しようと口を開いた。


 「ごめん、俺」


俊也の情けない顔を見てヒロ子がその言葉を遮る。


 「あー、もういいわよ。確かに普通に考えたらありえないことだものね」

 「ごめん。でもよ、そういうのって警察に言ったりして何とかできないもんなのか?」

 「それができるんなら、とっくにスケさんはワイドショーで取り上げられてるでしょうね」


ヒロ子はテーブルに置かれたコップを手に取ると一気に中身を飲み干した。一方の俊也は押し黙り宙を見つめる。

亮介が殺害されたという事実に加え、警察すら介入できないような事件が巻き起こっているという。

頭を鈍器で殴られたような気分になった。頭を左右に振り、余計な考えを脳内から追い出す。今は、眼前のことに集中しようと話題を変える。


 「その、つまり亮介をやった犯人ってのは13番の奴ってことでいいんだよな?」


13番の人間が倒されればゲーム終了、ということはゲームが続いている現状、亮介が13番であるわけはない。

そして、13番のクリア条件は自分以外の12人のメンバーを倒すこと。と、なれば亮介を殺した人物は13番以外にはあり得ない。


 「うーん、それがそうとも言い切れないのよねぇ」


ヒロ子は歯切れの悪い口ぶりで言った、


 「どういうことだ?」

 「それがこのゲームの厄介なところなのよ。ルールはまだあってね、このゲームで最後の一人になるまで生き残れるとご褒美が貰えるの」


ご褒美とはまたふざけたことを、と俊也は内心で思いつつも茶々を入れていては話が進まないと判断し会話を続ける。


 「じゃあ、そのご褒美ってやつ欲しさに、13番が倒される前に他のメンバーを倒そうってやつがいるってことか?」


13番以外の人間を全て見つけ出し、わざわざ始末してから13番を倒す、ということになる。

13番に他のメンバーがやられるのを待つ、という手もあるがそれは確実ではない。

ご褒美が一体どれほどのものかは知らないが、その己が欲のために1で済む犠牲を12にまで増やそうという人間が学内にいるとは思いたくなかった。


 「そういうこと。加えていうと、13番を倒した人はその時点でゲームを終わらせるか続けるかの選択権が与えられるの。

  後者の場合が厄介でね。13番を倒した後にゲーム続行が選択されると、

  ゲームの参加者が一人になるまで戦わなければならないってルールに変更されるのよ。

  だから、元々13番を倒そうって組んでた人たちがいたとしても、その時点で互いに敵同士になるってこと」


悪意の塊のようなルールに俊也は生気を抜かれていくような感覚に陥った。そんな俊也を気にかける様子もなくヒロ子は淡々と続けた。


 「他のメンバーを倒すことにはまた別のメリットがあってね。

  倒した人数分だけ、現在残っている他のメンバーの名前を知ることができるの。ランダムでね」

 「そういや、この番号っていうのは、13番とそれ以外を区別する他に何か意味とかあるのか?」


ヒロ子は俊也の手から黒いプレートを自分の元へと戻すと、器用に人さし指の上で回転させた。


 「いい質問ね。実はこの数字はものっすごい重要なのよ。このゲームの参加者には特別な能力、

  まぁ分かりやすくいうと超能力ってやつ? が、与えられるんだけどさ、自分の前の番号の人間の能力は無効化できるのよ。

  つまり、あたしの場合は11番の人間の能力を無効化できるってわけ」


殺人ゲームの次は超能力かと驚きを通り越してうんざりとする。最早大げさなリアクションを取る気力は残っていなかった。

それよりも気になったことがひとつあった。


 「って、ことはだ。お前のその能力ってやつは13番のやつには効かないってことか?」


ヒロ子の持っているプレートには12と記されている。つまりはそういうことだ。


 「うん。あははー、参っちゃうよね。一番、倒さなきゃならない相手に能力が通じないなんてさぁ」


と、危機感のない顔で笑うヒロ子に俊也はほとほと呆れたように深くため息をついた。


 「で、その超能力ってやつは一体どういうものなんだ?」

 「うーん、これ言っちゃうとかなりリスクが上がるんだけど、もう番号も言っちゃったしここまで来たら同じよね」


うんうん、と何か一人納得したようだ。


 「じゃあ、あたしの右手にご注目」


ヒロ子は肩の高さまで右手を持ち上げ、何かを握るような形を作った。俊也の目がそちらへと向けられる。

その次の瞬間、ヒロ子の手の中に銀色に輝く拳銃が現れた。

何もないところからいきなり飛び出て来た、としか言いようがない。

まるでマジックのようだ。俊也は目をぱちくりとさせ、銀色に輝く物体をまじまじと見る。


 「これこそがあたしのスーパー能力ってわけ。いつでも自在に武器を自分の元に呼び寄せられるのよーん。

  あ、これ本物だから下手に触っちゃダメよ」


と、俊也から拳銃を遠ざける。


 「マ、マジか。え、こういうのを使える奴があと12人いるってこと?」

 「そうよ。能力は個人でそれぞれ違うらしいから本当はヒミツにしておいた方がいいんだけどね。

  俊ヤラーは特別よ。あっ、番号と能力のこともそうだし、あたしがゲームの参加者ってことは他の人に言っちゃ駄目だからね!」


ものすごい剣幕で迫るヒロ子に俊也はただただ頷くことしかできなかった。


 「とりあえず、ソレしまってくんねーか? 落ち着かねぇし」


俊也はヒロ子の右手に握られた拳銃を指差す。凶器を握り締めたまま、詰め寄られると正直生きた心地がしない。

無論、彼女のことを信頼していないわけではないが、間違って暴発でもされてはたまったものではない。


 「ありゃ。ごめん、ごめーん」


出現した時と同じようにして拳銃は一瞬にしてその場から存在を消した。改めて見ても信じ難い光景である。

一気に色々なことを話されたり見せられたりして俊也の頭はパンク寸前だった。


 「あー、ちょっと整理してもいいか?」

 「ほいさ、どうぞ」


今までヒロ子に聞いたことを順番に思い出し、頭の中で再構成していく。それを確認の意も込めてヒロ子に話し聞かせる。

まだ、混乱が色濃く残り口調はおぼつかない。


 「えーと、つまり亮介はそのよく分からないゲームに巻き込まれて、その内のメンバーの誰かによって倒さ……、

  殺されたってことなんだよな。そんで亮介もそのゲームの参加者だったと」


ヒロ子は黒いプレートをタッチして操作すると数字を映していた画面から切り替え、何かリストのようなものを表示させた。


 「浅井亮介。死因は頭部を鈍器のようなもので打ちつけられたことによる脳損傷。死亡日時は七月三日の午後六時四十分頃」

 「えっ?」


淡々と読み上げるヒロ子に俊也は驚きの声を上げた。


 「脱落したメンバーは、こんな風に一覧として表示されるのよ。ひどいものよね」

 「あ、あぁ」


ヒロ子の言葉はそれ以上俊也の耳には入ってこなかった。七月三日。記憶が途切れている最終日にあたる日付だ。

その日に一体何が起こったのか。誰が亮介を。頭の中にはすぐにある人物の姿が思い浮かぶ。


 「まさか、先輩が亮介を?」


松本と話をした時点では、彼が亮介を殺す動機はなかった。だが、今は違う。

彼は自分もゲームの参加者だと確かに言っていた。もし、彼が13番だったら?

いや、早計だとかぶりを振る。ゲームメンバーのうちの一人だからといって、亮介と結びつけるのは強引過ぎる。

だが、引っかかる点もあった。松本は共有化された亮介の情報だけではなく、俊也の記憶のことについても知っている様子だった。

記憶が途切れているのは丁度、亮介が殺された日まで。自分は亮介の件に関わっていると俊也は確信した。

そして、その失われた記憶を知っている松本はこの件について重要な鍵を握っている。

松本本人が亮介に手をかけたかは分からないが少なくとも、松本と自分は何らかの形で亮介の事件に関わっている、と。

どくどくと鼓動が速まるのを感じた。


 「俺、先輩に会ってくる!」


俊也はいてもたってもいられなくなりソファから立ち上がる。


 「ちょっと待ちなさい! 行ってどうするつもり?」


ヒロ子は俊也の腕を掴み引き止める。


 「どうするって、真相を確かめるんだよ! 絶対、あの人は知ってるんだ、何もかも!」


俊也はヒロ子の手を振り払おうとするが、びくともしない。

女とは思えないような握力だ、と思う間もなく左頬に衝撃が走る。

パンと乾いた音がむし暑い部屋の中に響いた。じんじんと頬が熱くなるのを感じる。

そうしてやっと自分が叩かれたのだと気付いた。


 「落ち着きなさい。詳細を知った今、考え無しに接近するのは危険よ」


心から案ずるようなヒロ子を見てそんなにも自分は取り乱していただろうかと、俊也はまるで他人事のように思った。


 「悪ぃ、でも俺やっぱ行かないと。そうしないと気が済まないんだ」

 「なら、あたしも行くわ」

 「駄目だ。俺の勝手な都合でお前を巻き込むわけにはいかねぇよ」


ヒロ子が肩を震わせる。


 「バカ! あんただけの問題じゃないわよ! スケさんのことならあたしにだって関係あるし、何よりまた大事な友達を失うのは嫌なのよ」


目に涙を浮かべヒロ子は叫ぶように言った。


 「ヒロ子……、ごめん、お前の気持ちも考えずに。でも、そんなに心配することはねぇよ。

  あの人が俺を傷つけるようなことするわけないからな」


俊也はそう自分に言い聞かせる。三日前、何があっても君の味方だと言った松本の言葉に嘘はないように思えた。

それが自分勝手な希望的観測でしかないとしても。


 「だめ、何言ってもあたし一緒に行くからね」


腕を掴む力が弱まる気配はない。うんと言うまでは離さないつもりなのだろう。


 「わーったよ。でも、直接会うのは俺だけだ。お前は陰に隠れるかしてくれ」

 「そう、それでいいのよ」


ヒロ子は目元を拭うとにんまりと笑い、やっとその手を離した。

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