牽牛
綾の許にその携帯電話が届けられたのは、彼女が一人暮らしを始めて一年経った春先の事だった。
送り主は綾の現住所を知らないはずなので、それは実家に届けられた。彼は綾がしばらく実家にいるのを知っていたのだ。
綾が一人になったことも。
――会うのは、年に一度
別れた時の約束で、そう決められていた。
彼は律儀にその約束を守り続けた。今後も守り続けるつもりだ、という意思の表れだろう、この携帯電話は。
案の定、送られてきた携帯電話には、アドレス帳に一件だけ名前が登録されていて、スケジュールも、一件だけ、毎年同じ日に繰り返すよう、登録されていた。『デート(笑)』と件名に書かれたそれは、全日指定で、場所さえ入っていなかった。
別れを切り出されたのは突然で、綾は泣いて抗った。
だが、手遅れだった。
『話がある』と、綾の前で切り出された時は、全てがもう決められていたのだ。
予兆を感じなかったわけではない。だがそれは日常の些細な違和感でしかなく、綾はそれを気のせい、と片付けてしまっていた。
予兆を感じたころ、綾が何か手段を講じていたら、別れは回避できたのだろうか? ……それはわからない。
さんざん抵抗した後、綾はその別れを渋々受け入れた。……受け入れるしか、なかった。
大学二年のゴールデンウィークの少し前、綾に『彼氏らしきもの』ができた。
「プラネタリウムの招待券があるんだけど……綾さんはこういうの、興味、ない?」
そんな誘いをかけてきたのは、アルバイト先の先輩で、たしか一歳年上、の牧田、という姓の男だった。下の名前はあいにく覚えていなかったが(ちなみに綾は社員とアルバイト含めて同じ姓があと三人いるため、名前で呼ばれている)。
プラネタリウムがちょっとしたブーム、というのは知っていた。
だが、その程度しか興味はなかった。
「『星と音楽の夕べ』……?」
「月例の特別プログラムなんだ。ここのプラネタリウムは、音響設備も良くて、通常プログラムも結構凝ってるんだ。音響設備を生かして、映画の上映会も時々やってるけど、せっかくプラネタリウムなんだから……」
思いがけず熱く語ってしまったことを恥じたのか、不意に言葉を切る。
「……ごめん。……引いた、かな?」
気まずげに俯いた顔を、不覚にも可愛い、と思ってしまった。
「引いたりはしませんが……先輩がこんなにしゃべるのは初めてなんじゃないかなぁ、って思って」
珍しいものを見てしまったので、つい、承諾してしまった。
牧田が力説するだけあって、そのプログラムは満足のいくものだった。宇宙や神話に関する知識も得られたし、BGMもここでこれをもってくるか、という意外性があって楽しめた。
「楽しかった、です」
綾が頬を赤らめて言う。BGMにつられて、途中でうっかり涙を零したのを見られてしまったのだ。照れ隠しに入口で配られたパンフレットで顔を扇ぎながらドアをくぐる。
そのパンフレットによると、『星と音楽の夕べ』には、月例プログラムのほかに、天文関係のイベントやトピックがあるときの特別プログラム、というのもあるらしい。
直近では、七夕が予定されている。
「えーと……また、誘っても、いいかな?」
駅で別れるとき、牧田が訊いてきた。
少し考えて、
「予定がなければ」
と綾は返事を返す。
七夕のプログラムを見てみたい気がするが、たぶん見られないだろうな、と思いながら。
携帯電話に『デート(笑)』の待ち合わせの場所と時間についての連絡が来たのは、夏至の日だった。
忙しい彼が待ち合わせの連絡をよこすのは、直前の事が多く、十日以上も前に連絡が来るのは、初めてかもしれなかった。
「……どうしよう、かな」
待ち合わせの時刻は、ちょうどプラネタリウムの特別プログラムが終わる時刻。でも、移動の時間を考えると、プラネタリウムは十分ほどで抜けなければならないだろう。
……もしくは、待ち合わせの時刻を後ろにずらしてもらうか。それとも、待ち合わせの場所を変えてもらうか。
あるいは、プラネタリウムをキャンセルするか。
しばし考え、綾は携帯電話を開いて、メールを打った。